九州の倭人は呉からの渡来、呉とは周の後裔になるという、その時の文化を持ってきたのだろう。その渡来と考える倭人は、三国志の劉備、曹操 魏の時期に、半年暦を用いていたようだ。半年暦というのは二倍年暦とも言える。
ということから見ると、九州の倭人の文化は、周頃までのものとなりそうだから、暦の文化がその後進化せず、そのまま固定していたと考えると、周までは二倍年暦でないとするのは疑わしくなる。
周の成王: 在位期間 前1043年 - 前1020年? というのは古すぎるのでは、どうなのか。
金生遺跡の立春観測による八節の暦との関係は、時期はどうなのか。
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『魏志倭人伝』の裴松之(はい しょうし)注には「『魏略』(ぎりゃく)に曰く、その俗正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」と記されており、古代の倭人が一年を耕作期(春・夏)と収穫期(秋・冬)の二つに分けて数えていた可能性が窺える。そのことを踏まえれば『魏志倭人伝』の記述にある倭人が「百年、あるいは八、九十年」まで生きたという古代人としては異常な長寿についても説明がつく。
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BC1,043年~BC1,020年 参考資料
「論衡」という中国の歴史書(編者:王充)に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八) 成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず、とあります。 周の成王: 在位期間 前1043年 - 前1020年?
越裳は揚子江流域の呉越地方の民族。その越裳と並べて倭人が書かれていることからみて、編者の王充は、倭人を呉越地方と関係あると認識していたと思われます。
既にこの当時、日本は中国へ朝貢していたことがわかりますし、日本と中国の呉越地方とのつながりもうかがい知れます。
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「翰苑(かんえん)を読む (前編) ~ 日本人は古代中国周王朝の末裔だった!?」(2015/10/6号)
で、お話しましたが、中国古代史書の「翰苑(かんえん)」のなかに、
”中国にやってきた倭人が自分たちのことを、「呉(ご)の太伯(たいはく)の子孫だ」と言った。”という記載があります。
呉の太伯とは、中国周王朝の古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、紀元前12-11世紀の人物です。おおまかな流れは、
”周王朝(黄河流域中原)にいた太伯が、やがて揚子江下流域に行き、もともと住んでいた倭人とともに呉を建国します。時代を経て、呉は越(えつ)との戦いに敗れ(紀元前473年)、呉の地を追われ、四散しました。そのなかで、朝鮮半島に逃れた人々、あるいは海で逃れた人々が、九州北部にやってきました。”となります。
図示します。
周から呉・日本へ
「それがいつか?」について、「資治通鑑」という中国史書のなかに、興味深い記載があります。
「資治通鑑」とは、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した編年体の歴史書です。坂本龍馬、西郷隆盛、水戸光圀、北畠親房、 そして毛沢東が愛読したとも言われています。
呉亡条記事に、「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」とあります。この記事から、
”紀元前473 年、越王勾践(こうせん)は呉王夫差(ふさ)を打ち負かした。『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。”(「日中歴史共同研究」より)
ということになります。
、呉が越に敗れた後、多くの人々が朝鮮半島に逃れたことでしょう。そして、朝鮮半島を南下して、朝鮮半島南部に住み着き、さらに対馬、壱岐まで渡った人々もいたことでしょう。そして、ついに、九州北部に上陸したと、推定されます。なかには、舟で呉から日本に直接漂着した人々もいたと思われます。
呉が越に敗れた年は紀元前473年ですが、その後、朝鮮半島に行き着き、さらに九州北部に上陸するには、相当年かかったことでしょう。