古代ギリシャのオリンピックは2年ごとに行われていたのではという。現代の4年ごとというのは錯覚によると云うようだ。
夏殷周の人々の暦は見直しが必要という資料をどう考えたら良いでしょうか
史料状況から判断して、西周は二倍年暦を採用しており、東周のどこかで一倍年暦に変更したものと考えるという。
東周時代(春秋・戦国期)は有力諸侯が三正からも見えるように、それぞれ別個の暦法を採用していたので、秦の始皇帝により一倍年暦に統一されたものだろうという。
金生遺跡の暦は一体夏殷周のどの時代に適合するものだろうか。天文台の機能は現代でも現存していて、希望的には金生遺跡の四立、八節の暦は夏の時代にチャイナ側に伝えられたものと考えたい。
金生遺跡 配石と金が岳
引用ーーーーーー
わたしは周代の史料に見える二倍年暦による年齢記事について、ただ単に高齢だから二倍年暦だと理解したわけでなく、その文脈や内容からして二倍年暦と考えざるを得ないという例を根拠としました。単に高齢だというだけでは、古代といえども超高齢者がいたかもしれないという反論が予想されたので、その点、論証の根拠とする記事は慎重に選ぶことにしたのです。
たとえば『論語』からの例としては、「子罕第九」にある次の記事です。
「子曰く、後生畏る可(べ)し。いづくんぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦畏るるに足らざるのみ。」
「後生畏るべし」の出典としても有名な孔子の言葉です。その意味するところは、40歳50歳になっても有名になれなければ、たいした人間ではなく畏れることはない、ということです。しかし、これは当時(紀元前6~5世紀頃)としては大変奇妙な発言です。
『三国志』の時代(3世紀)でも、『三国志』に記されている寿命は平均年齢50歳ほどで、多くは40代50代で亡くなっています。それよりも700年も昔の中国人の寿命は更に短かったことはあっても、それよりも長いとは考えにくく、従って、孔子のこの発言が一倍年暦であれば、多くの人が物故する年齢(40歳50歳)になって有名にならなければ畏れるに足らないという主張はナンセンスです。それでは遅すぎます。
しかし、これが二倍年暦であれば20歳25歳ということになり、「若者」が頭角を現し、世に知られ始める年齢として、とても自然な主張となります。すなわち、孔子の時代は二倍年暦が使用されていたと考えざるを得ない例として、わたしはこの記事を取り上げました。
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周代史料である『論語』の二倍年暦を証明するために、周王の在位年数や寿命の調査という回り道をしてきたのですが、ようやく周代の前半に当たる西周(注)については、二倍年齢が採用されていたと考えてもよい段階まで研究が進展してきました。その根拠は次の通りです。中間報告として、とりまとめておきます。
(1)周建国時の四代の王たちの長寿(約百歳)
武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
「古代にも百歳の人はいた」とする論者でも、紀元前12世紀頃(通説)の中国で、約百歳の王が親子四代続いたとは言えないのではないでしょうか。在位年数とも矛盾しますから。これが二倍年齢であれば、60歳、50歳、48.5歳、46.5歳となり、古代人の寿命として極めてリーズナブルです。
(2)5代穆王は50歳で即位し、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。これも(1)と同様です。
(3)9代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があります。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ません。
(4)11代厲(れい)王も在位年数がちょうど二倍になる例があります。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。他方、『竹書紀年』では26年としています。
(5)11代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から長寿命と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせます。(『竹書紀年』)
以上のように、周王の在位年数や寿命記事に二倍年齢と考えざるを得ない例が少なからず存在しています。これらの史料事実から、少なくとも西周では人の寿命や在位年数は二倍年齢が採用されていたと思われます。
他方、暦が二倍年暦であったかどうかは、まだ結論を得るに至っていません。しかしながら、従来の周代暦年復原はこれら周王の二倍年齢を一倍年齢とみなして試みられてきたので、未だに成功していないのではないかと考えています。引き続き、周代後半の東周時代(春秋・戦国時代)について、調査検討を行います。(つづく)
(注)殷を倒して周を建国した初代武王から、12代幽王までの約400年間を西周と呼ぶ。この期間が二倍年齢であれば、実際は半分の約200年間となる可能性が高まる。
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「周代」史料に散見する「百歳」記事により、周代では二倍年暦での百歳を人間の一般的な寿命と認識されていたと考えられますが、この「百歳」という表記は一倍年暦の時代になっても、一倍年暦の「五十歳」に換算されることなく、そのまま「一人歩き」した痕跡が後代史料などに少なからず残っています。たとえば、唐代の白楽天の詩にも次のような「百歳」が見えます。
「人生百歳 通計するに三万日 何ぞいわんや百歳の人 人間(じんかん)百に一もなし」(対酒)
二倍年暦の認識がない唐代において「人生百歳」という表現がそのまま残っているのですが、「そんな長寿の人は一人もいない」という詩です。同じ唐代の大詩人李白も「百歳(年)」という周代成立の表記を使用した次の詩を作っています。
「百年三万六千日 一日すべからく三百杯を仰ぐべし」(襄陽歌)
「白髪三千丈」と歌った李白らしく、「百年」を生涯の意味で用いた詩です。
他方、周代成立の「百歳」という超寿命に疑義を示した史料もあります。中国の古典医学書『黄帝内経素問』に見える、黄帝から天師岐伯への質問です。
「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)
このように、二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦の時代になっており、そのときの人の一般的寿命が百歳ではなく五十歳と認識されていたことがわかります。
なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』「芸文志」に見えることから、前漢代に編纂されたようです。同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
このような暦法の変化による後世への影響発生に似た事例として、里単位の変遷があります。たとえば、周代の「短里(1里約76m)」により成立した「千里馬(1日千里〔約76km〕を駆ける名馬)」という用語が、「長里(1里約435m)」の時代でも名馬を意味する「慣用句」として使用されるのですが、長里ですと一日435kmを駆ける空想上のペガサスの話になってしまいます。
人間の寿命を「百歳」とした周代の二倍年暦の実在を認めなければ、「千里馬」と同様に、古代における人間の寿命記事に対しても正しい理解が得られないのです。同時に、『素問』のこの記事は、周代の二倍年暦実在の証拠でもあるのです。(つづく)
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東周時代(春秋・戦国期)は有力諸侯がそれぞれ別個の暦法を採用していたのであれば、その痕跡があるのではないかと思い、司馬遷の『史記』(注①)を読み始めました。その結果、「秦本紀」に一倍年暦と二倍年暦(二倍年齢)混在の痕跡を発見しましたので紹介します。
『史記』の「秦本紀」に百里?(注②)という人物が登場します。秦の繆(ぼく)公に請われて大夫となって国政をあずかり、秦の勢力拡大に貢献した人物です。後に始皇帝が中国を統一できたのも百里?の功績に依るところが大きかったと考えられています。その百里?について次のような年齢記事があります。
「〔繆公五年〕百里?は秦から亡(に)げて宛(河南省)に走ったが、楚の里人にとらえられた。繆公は百里?が賢人であると聞いて、重財を投じてもこれを贖(あがな)いたいと思った。(中略)
楚人は承諾して百里?を返した。このとき、百里?はすでに七十余歳であった。」『中国古典文学大系 史記』上巻、58頁
こうして百里?は繆公五年に大夫として仕え、活躍します。そして百里?が最後に登場するのが、晋討伐に百里?の子の孟明視が将軍として出陣する場面で、次のように記されています。
「〔繆公三十二年〕出陣の日、百里?と蹇叔(けんしゅく)の二人は、出陣する軍にむかって泣いた。」『中国古典文学大系 史記』上巻、61頁
蹇叔は百里?の親友で、百里?の推挙により秦の上大夫に迎えられた賢人です。両大夫の息子たちが将軍として出陣することになり、もう会うことはできないだろうと老人二人が泣いたという場面です。
これを最後に、「秦本紀」には繆公の発言中に百里?の名前は挙がるものの、百里?自身の言行記事としては現れなくなります。ですから、繆公五年のときに百里?が七十余歳であれば、繆公三十二年には約百歳になっています。しかも息子の孟明視は将軍として活躍できる年齢ですから、もし一倍年齢で百里?が三十歳のときの子供であれば孟明視は約七十歳ということになり、いくらなんでも将軍として戦場で指揮を執るのは無理ではないでしょうか。二十歳のときの子供であれば、それこそ約八十歳であり、将軍として出陣するのは非常識です。これが二倍年齢であれば、百里?が繆公に仕えたのは三十代後半となり、本人も息子もリーズナブルな年齢となります。
このようなことから、百里?の年齢記事(七十余歳)は二倍年齢表記と考えざるを得ないのです。他方、「秦本紀」全体としては一倍年暦で書かれていることから、二つの暦法が混在していると、わたしは判断しました。
百里?が活躍した繆公の時代は、一倍年暦による従来説では紀元前七世紀頃(春秋時代)とされています。また、百里?は楚の出身とされていますので、『史記』の記事に基づけば、この時代の楚は二倍年暦、秦は一倍年暦を採用していたと考えることができます。もちろん、『史記』の年齢記事・諸侯の在位年数が司馬遷により一倍年暦に改訂されたものであれば、あるいは司馬遷が参考にした元史料が既に一倍年暦に改訂されていた場合には、こうした単純な判断はできません。
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おおよその目検討ですが、わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(今のところ史料根拠は見つけられていません)。そのため、「周代」の記録や伝承が一倍年暦の時代の漢代で編纂される際に、暦日記事が書き換えられる可能性があります。
そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。すなわち、もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
ところが「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾子の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。
「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)
この記事は「曾子曰く」で始まり、曾子が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾子は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾子の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解のあり方なのです。(つづく)
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■『管子』(春秋時代〔??紀元前645年〕、管仲の作とされる)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)
■『列子』(春秋戦国時代〔紀元前400年頃〕の人、列禦寇の書とされる)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
■『荘子』(紀元前369?286年頃の人、荘周の書とされる)
「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈(み)たんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*(びょうゆ)・死喪(しそう)・憂患(ゆうかん)を除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具(ぐ)を操(と)りて、無窮の間(かん)に託す、忽然(こつぜん)たること騏驥(きき)の馳(は)せて隙(げき)を過ぐるに異なるなきなり。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)
※病瘻*(びょうゆ)の 瘻*は、強いて言えば、やまいだれ編に由の下に八。(表示できない。)
■『荀子』(周代末期の人、荀況〔紀元前313??238年〕の思想を伝えたもの)
「八十の者あれば一子事とせず。九十の者あれば家を挙(こぞ)って事とせず。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】八十の老人がいる家ではその子供一人は力役につかなくてよい。九十の老人がいれば家中みな力役につかなくてよい。
「古者、匹夫は五十にして士(つか)う。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠して治を聴く其の教至ればなり。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】むかし、一般の人民は五十歳になってから仕官したが、天子や諸侯の子は十九歳になると〔一人前の男子として元服して〕冠をつけ、冠をつけると政治をとったが、それはその教養が十分に身についていたからである。
■『礼記』(周代から漢代の儒教関係の書を編集したもの。前漢代の成立か。)
「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(曲礼上篇)
■『曾子』
「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(曾子立事)
「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(曾子疾病)
※各著者生没年はウィキペディアを参照したが、諸説あり、大まかな先後関係の理解のために記した。周代の二倍年暦採用が正しければ、これら年代の西暦との対応も見直さなければならない。
以上の用例が示すように、『管子』をはじめ『荀子』『礼記』に至るまで、「周代」史料の「年齢記事」が基本的に二倍年暦で著されていることは、まず動かないとわたしは判断しました。
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周代史料に見える二倍年暦による「二倍年齢」表記の「百歳」を、そのまま一倍年暦の「百歳」と王充が誤認していたことを説明しましたが、それでは後漢時代の他の人々は周代史料などに見える「二倍年齢」表記の「百歳」をどのように認識していたのでしょうか。そのことをうかがわせる記事も『論衡』にありましたので、紹介します。
「語に称す、『上世の人は、(イ同)長佼好にして、堅強老寿、百歳左右なるも、下世の人は、短小陋醜にして、夭折早死す。何となれば則ち、上世は和気純渥にして、婚姻時を以てし、人民は善気を稟(う)けて生れ、生れて又傷(そこな)はれず、骨節堅定、故に長大老寿にして、状貌美好なり。下世は此に反す、故に短小夭折し、形面醜悪なり』と。此の言は妄なり。」(「斉世第五十六」『論衡』中巻、1207頁)
世間の人が「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」などというのは妄言であると王充が批判した記事です。この後、王充は延々と反論を述べ、後世の人の身長が低いということには根拠がなく、また百歳まで生きると主張しています。その反論には論理的な面もありますが、「百歳」まで生きることの理由については説得力ある反論になっていません。
この記事でわたしが注目したのは「大昔の人は身長も高く、体格もよく百歳くらいの長寿で姿も美しいが、後世の人は身長が低く醜悪で早死にする。」という当時の人々の認識です。既に説明したように、当時の人の一般的な寿命は五十歳(随命)と推定されますから、周代史料などに記された「二倍年齢」の「百歳」表記を一倍年齢で理解してしまうと、大昔の人よりも後世(後漢時代)の人の方が「夭折早死」となってしまうわけです。
更に身長も低くなっていると認識されていることも、殷代や周代と後漢代の「尺」単位が変化していることによると思われます。殷の牙尺は一尺約16cm、周代の1尺は約18.4cm、後漢・前漢代は約23cmでとされていることから(異説あり)、たとえば身長160cmの表記は殷代では約「十尺」、周代では約「九尺」、前漢代・後漢代では約「七尺」と表記されますから、「尺」単位の歴史的変遷を知らなければ、大昔(殷代・周代)の人よりも今(後漢代)の人の方が「短小」と誤解されてしまうわけです。
以上のことから、後漢代の人々(知識人)には「二倍年暦」やそれに基づく「二倍年齢」、そして「尺」単位の変化が忘れ去られていたことがうかがえます。
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〝論理的に二(以上)倍年暦(少なくとも一倍年暦ではない)と判断出来る説話は東洋のものではないがオデュッセウスの説話ですね。
20年間故国に帰れなかったオデュッセウスにはテーレマコスという息子がいて、「20年」が一倍年暦ならばとっくに成人している、つまり行方不明の前王オデュッセウスに替わってイタケー王に即位している筈。なのに王妃ペーネロペーに求婚者が群がっている状況は、明らかにテーレマコスが即位出来ない年齢である証拠。つまりこれは二(以上)倍年暦。求婚者達が皆殺しになるのは単なる求婚者ではなくイタケーの王位を狙っていたから。(西村秀己)〟
東洋と西洋の古典に堪能な西村さんならではの視点です。十数年前、わたしも西村さんからの助言により、『オデュッセイア』の二倍年暦について論文発表したことがあります。転載します。
〝『オデュッセイア』の二倍年暦
古代ギリシアにおける二倍年暦はいつ頃までさかのぼることができるだろうか。管見ではギリシア最古の大英雄叙事詩『オデュッセイア』(ホメロス)が二倍年暦によると考えている。その理由は次のような事である。オデュッセウスが故郷イタケーを二十年間留守にしている間、妻ペネロペイアに群がる求婚者とその息子テレマコスとの諍(いさか)いが描かれているのだが、少なくとも二十歳以上となるテレマコスが幼く描かれている(注①)。このことについては従来から疑問視されてきたようであり、たとえば次のような疑義が出されている。
「かりにテレマコスが、父の出征後に生まれたとしても、二十年の歳月が過ぎた現在ほぼ二十歳ということになるが、本篇ではせいぜい十代後半位のイメージで描かれているように思われる。」
「オデュッセウスが出征して二十年が経過していること、また出征時にテレマコスが既に出生していたことから推定すれば、オデュッセウスはおよそ五十歳、ペネロペイアも四十歳に近く、テレマコスもまた少なくとも二十歳に達していたとせねばならない。二十歳といえば既に一人前の男子であるが、冒頭で彼がまだ幼さの抜け切らぬ少年の如く描かれているのは、少々奇異な感を与える。」ホメロス『オデュッセイア』(岩波文庫、一九九四年刊。松平千秋訳)の訳注・解説による。
このオデュッセウス出征後の二十年間が二倍年暦であれば、一倍年暦の十年間となり、息子テレマコスの年齢も十歳プラスαとなり、彼が幼く描写されたことも自然な理解が得られるのである。また、オデュッセウスの年齢も三十歳代となり、帰国後、求婚者たちと戦って勝利することも可能な年齢となる。更に言えば、妻ペネロペイアの年齢も二十代後半位となり、求婚者が群がるほどの美貌が維持できる年齢ではあるまいか。
このように、『オデュッセイア』は二倍年暦で読まなければ、その描写や背景にリーズナブルな理解が得られないのである。また、次の場面も二倍年暦を指し示す例である。オデュッセウスが変装して自宅に二十年ぶりに帰ってきたとき、愛犬アルゴスはオデュッセウスに気づき尾を振り耳を垂れたが、近寄る力もなくそのまま息絶えてしまう。アルゴスはオデュッセウス出征前から優秀な猟犬であったと記されていることから、もし二十年が一倍年暦ならアルゴスは二十歳を越えることになり、犬の寿命としては長すぎる。二倍年暦であればアルゴスの年齢は十歳代となり、犬の寿命としてリーズナブルである。この点からも、『オデュッセイア』が二倍年暦で叙述されていることは間違いないと思われる。
ホメロスは紀元前九世紀の人物とされていることから、ギリシアでは少なくとも紀元前九世紀以前から二倍年暦が使用されていたと考えられるが(注②)、それがいつまで使用されていたのか、その下限はまだ不明であり、今後の研究課題である。〟
ーーーーー
古代ギリシアのオリンピックは2年毎
古代ギリシアの哲学者たちは軒並み長寿であることから、それは二倍年暦(二倍年齢)ではないかとする説を、---中略---
三世紀のギリシアの作家ディオゲネス・ラエルティオスが著した『ギリシア哲学者列伝』(注②)によれば、80歳以上で没した哲学者だけでも次の通りです。
名前 死亡年齢
アポロニオス 80歳
アテノドロス 82歳
カルネアデス 85歳
クレアンテス 80歳
デモクリトス 100か109歳
ディオニュシオス 80歳
ディオゲネス 90歳
エンペドクレス 60か77か109歳
エピカルモス 90歳
ゴルギアス 100か105か109歳
イソクラテス 98歳
ミュソン 97歳
ペリアンドロス 80歳
プラトン 81歳
プロタゴラス 70か90歳
ピュロン 90歳
ピュタゴラス 80か90歳
ソロン 80歳
テレス 78か90歳
テオフプラストス 85か100歳以上
ティモン 90歳
クセノクラテス 82歳
ゼノン 98歳
クレアンテス 98歳
紀元前数世紀のギリシアが、21世紀の現代社会以上の「長寿社会」とは常識的に考えてありえませんので、この時代のギリシアでは二倍年暦(二倍年齢)が採用されていたと、わたしは考えています。しかし、ことはそれだけでは終わりません。古代ギリシアの絶対年代も地滑り的に新しくなりますし、古代オリンピックも四年に一度ではなく、二年に一度の開催となるからです。
『ギリシア哲学者列伝』には、たとえばプラトンの生没年について次の記述があります。
「さて、プラトンが生まれたのは、アポロドロスが『年代記』のなかで述べているところによれば、第八十八回のオリンピック大会が行われた年(前四二八/七年)の、タルゲリオンの月(現代の五、六月頃)の七日であった。それは、デロス島の人たちがアポロンの誕生日であると言っているのと同じ日である。そして彼が死んだのは――ヘルミュッポスによると、そのとき彼は婚礼の宴に出ていたとのことであるが――第百八回オリンピック大会期の第一年(前三四八/七年)であり、そのとき彼は八十一歳であった。」上巻250頁
このように、オリンピック期で年代が記録されており、第八十八回のときに生まれて、第百八回の期に没していることから、一倍年暦の時代(三世紀前半頃)を生きる著者のディオゲネス・ラエルティオスは、この間の二十回のオリンピックの間隔(四年)を一倍年暦で理解し(4年×20回=80年)、没年齢も一倍年暦での八十一歳(「数え年」か)と考えたと思われます。ところが、この八十一歳が二倍年齢であれば一倍年齢の四十歳ほどとなり、それを二十回で割れば、オリンピックは二年に一度の開催となるわけです。
このように、古代ギリシアでの二倍年暦(二倍年齢)採用という仮説が成立すると、オリンピックの開催間隔にも影響を及ぼすのですが、いかがでしょうか。