カレンダーとは何なのでしょうか
月齢と季節を知るためのものではないか
以下引用しますーーーーーー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カレンダーとは、日付・曜日などを表形式などで表示し、容易に確認できるものを指す。七曜表(しちようひょう)とも言う。腕時計に内蔵される事もある。なお、英語の「calendar」は、毎月の最初の日を意味するラテン語の「kalendae」に由来し、日本語のカレンダーはこの英語からの借用語である。ただし英語のcalendarは「暦」や「暦法」と上記の「カレンダー」とは区別されない。
概要 カレンダーの起源は古代バビロニアとされる。カレンダーには日付のほか曜日や祝祭日などが表示される。日本で売られているものは、普通、国民の祝日が、またしばしば六曜が記されている。
コパイロットの回答 カレンダーの歴史
古代エジプト: カレンダーの起源は古代エジプトにさかのぼります。エジプト人はナイル川の氾濫を予測するために暦を使用しました1。
古代バビロニア: 紀元前18世紀頃、古代バビロニア帝国では月の満ち欠けを基にした太陰暦が使用されました2。
太陰太陽暦: 太陰暦の不正確さを補うため、太陽の運行も考慮した太陰太陽暦が誕生しました。これは2~3年に一度「閏月」を追加することで、暦と季節のずれを調整しました1。
現代のカレンダー: 現在、世界中で使用されているカレンダーの多くはグレゴリオ暦に基づいています。これは地球が太陽の周りを1周する日数を基準にしたもので、1年を365日とし、4年に一度閏日を追加して調整します3。
カレンダーは、時間の管理や計画に欠かせないツールとして、古代から現代まで進化し続けています。何か他
ーーーーーー引用終わり ということでした。
カレンダーは何のために作られたものなのか
現代のカレンダーはその目的を果たしているだろうか
カレンダーの起源は西アジアより西に、はたしてあったのだろうか
最近の世界史書籍を上げると
1・万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ デヴィッド・グレーバー
2・サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福 (河出文庫) ユヴァル・ノア・ハラリ
3・500万年のオデッセイ: 人類の大拡散物語 単行本 ? 2024/3/4 ピーター・ベルウッド (著), 河合信和 (翻訳) 山極壽一推薦
これら書籍にはカレンダーの話は出てこない、ストーンヘンジなど巨石構築物があり、その背景にはカレンダーがあるのに、起源について何も記述は無い。カレンダーの起源は西アジアより西には無かったと言うことを示しているのでは無いか、何故なのか。
最初に作られた暦は月の満ち欠けを見ての暦だとされている
月のこよみは、30日で新月から満月となり、そして新月を迎える
それには太陽暦が入っていないので季節の移ろいを知ることは出来無い
それなのに、現在のカレンダーでは、一ヶ月は30日となっていない、31日30日、28日29日などばらばらで
、月の満ち欠けを表していなくて、一ヶ月が月の周期にも成らないでたらめな日数である。
何故こんなことになっているのか。
つまり月の周期を再現しようとしていない。つまり基本である月の周期さえも無視したものである。
一太陽年は365日である
この周期に月の満ち欠けを合わせるために曜日が設定されたはずなのに、曜日はタダの記号となり、月齢を再現していない。カレンダーで月曜日の月齢はと聞かれても、答えられない。
初めから月齢を示そうなどとは考えていなかったからではないか。
何故こんなことになってしまったのか、
カレンダー作成の原理を持っていないからでは無いのか
それは縄文時代に作られたカレンダーを、原理も知らずに聞きかじりで、適当にそれらしく
作っていたからなのでは無いか。
古代文明に於いて、チャイナを含めて、西アジアより西では、太陽年さえも正確に観測した記録は無い。
もちろん観測方法も手段も持つて居なかったようだ。
それに対して、縄文時代には太陽直接観測のため石棒を設置して基準点を永久に正確に保つことが出来た。
シュメールでは春分を当時の星座でカペラの現れる時期と聞き覚えて、それを基準に暦を作っていた
エジプトでは日の出前にシリウスの見えた時を起点に暦を作っていた
基本となる太陽年の日数さえ、また基本となる太陽暦の計算を行ったという様な記録も皆目ないようだ
四季と季節の始まりも、どのようにして決めていたのかも分らない
これでは太陽と月の周期を合わせて、曜日で月齢を再現しようなどということは想像することも出来ていなかったのではないか。
カレンダーの起源は何処にあるのか
月と太陽の周期を合わせる方法を持っていたのだろうか
メトン周期は何時発見していたのか
西アジアより西でカレンダーを作るための原理はどこにあり、どのようになっているのか
カレンダーは何時から作られるようになっていたのか
曜日は何のために作られたのか
カレンダーで月齢が何故分らないのか
一年は12ヶ月なのに何故月の周期を無視しているのか
太陽暦の二十四節気の暦は何のために作られたものなのか
西アジアより西に八節の暦、冬至夏至、春分秋分、立春立夏、立秋立冬のような四季の始まりを
知るための考え方はあるのか
図 縄文時代の太陽観測点
太陽と月の周期をシンクロさせるためには二十四節気の暦を作ることがはじめの一歩である。
これが出来ればあとは月のこよみの月齢を、立春の日の太陽に合わせて列べて行けば良いだけである。
二十四節気の暦は、15日刻みで、月のこよみの15日の刻み、上弦と下弦の月に合わせることが出来る。
一太陽年の日数を石ころでカウントして、その数を/1/2として残る石ころを脇に置いて、182/2、91/2として
45日まで行き、45/3とすれば15日刻みの暦が出来る。
これは縄文時代には小数点以下の計算は出来なかったものとして、計算すれば簡単に作ることが出来る。
360度の始まり24時間もこれから想定できる。
この計算は数を知らなくても、計算を知らなくても出来るものである
ただし最後の数字は算数を知らなくては出来無いように思う。
365/2 182 、182/2 91、91/2 45
ここまでは数も算数も何も知らなくても出来てしまう
問題はここからで、太陽は45日刻みのこよみが出来るところまでは簡単に行ける
これは季節で言えば、春夏秋冬の四季とそれぞれの季節の始まりの時点を示すことが出来る
後のチャイナ風に記せば、二十四節気の暦で言えば、四季と立春、立夏、立秋、立冬である。
月のこよみの30日または15日の刻みの暦と太陽の刻み 45日をシンクロさせるには算数の知識が必要となる
現代人であればそれは簡単に計算することが出来る。
45/3 15日 たったこれだけのことである。これで月のこよみと刻みが同じになる。
図 縄文時代のカレンダー 2024.08- 想定
カレンダーは15日刻み、これを基本の刻みとして、太陽暦を基準として作ることが出来る。
都合よく使える暦とするには、月齢を月火水木金土海として、それに日として新月と満月とを加えるだけで出来上がる。
30/2 15、15/2 7、から 半月を 7+7+1 15日として曜日に当てはめる。
これが元々のカレンダーの仕組みである
図 土器はメディアであり、カレンダー開発の歴史も土器に書かれている 太陽暦開発の歴史は突起数で、数字で書かれている。2 4 6 8 12 3 5 7 の数列が示している。
金生遺跡の時期には金生遺跡太陽暦観測用の天文台が作られた。
毎年立春と立秋にはその日の月齢を観測して、半年ごとの暦が作られ、日本列島内に伝わっていたものと考えている。列島内には石棒を持つ遺跡がありこれは、この太陽暦を共有する集合表象では無いのか
図 縄文時代のカレンダー開発の歴史
このカレンダーのことを世界の古代文明ではこれを聞きつけて、原理は知らずに利用していたのでは無いでしょうか。月のこよみは何処でも観測できますが、太陽暦の直接観測は縄文時代の石棒なしには行えないでしょう。
二十四節気の暦の算出なしに太陽と月の周期をシンクロさせたカレンダーは作れないはず
この暦の維持には毎年の観測が欠かせません。何故なら月のこよみと同じように、一太陽年は365日からズレるから。
二十四節気の暦の観測点である茅が岳のピークからの日の出と、笠無山のピークからの日の出は
現在観測しても縄文時代からほぼ変わっていないようです
現代のカレンダーでは立春、立秋などの日付は毎年変動していますが、縄文時代に設定されていた山のピークからの日の出を見る限り、その日、立春と立秋の日の出る位置は縄文時代以来、変わっていないことが分かります。石棒で設定された観測位置でも縄文時代以来その観測日の変化は見えません。
星を基準としたのでは、地軸の摺動が北極星の位置を2-3万年で変えてしまいますが、太陽と地球のような光年で計るような距離で無い場合は、それは問題にならないようです。縄文時代にはこの事を数千年の長期の観測から知っていて星の観測をこよみには利用しなかったものと考えます。