金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

東洋最古の天文台 その2 「贍星臺」

瞻星台  「贍星臺」は「星に満ちた楼」
 慶州瞻星台(けいしゅうせんせいだい)は、韓国では「新羅時代に建造された東洋最古の天文台遺跡」と言われている。
しかしこの施設は東洋最古の天文台と云うには余りにも役不足のようだ。

「瞻星臺」であれば「星見楼」という意味となるが、「贍星臺」は「星に満ちた楼」という意味となり、「星の観測」までの拡大解釈はできないという。
施設面から見ても、大きさから見て、天文観測施設を置くには、余りにも小さすぎるという。
(「目」は眼に通じているが、「貝」は財に通じている。) 視覚的にも楼から「星」を見上げるという感覚ではなく、星にかこまれた「楼」を地上から見上げるという雰囲気であるという。
 朝日新聞社刊『完訳 三国遺事』(1976)p.104-105の原文には「贍(瞻?)星臺」としてあり、後代に贍が瞻に読み替えられた可能性がある。
『三国遺事』には「瞻星臺」としか記載されていない近代の刊行本もあるが、「瞻⇒贍」方向への変化は可能性が少ないと思われるという。
ということから最古の天文台は今のところ 瞻星台 「贍星臺」これでは無さそうと思う。

引用ーーーーーー
13. 「占星臺」と新羅の「贍(瞻x)星臺」について

 天武天皇の「占星臺」と新羅の「贍(瞻x)星臺」について考える。
 「瞻星臺」の記録は朝鮮の正史である『三国史記』(1145完成)には無く、それよりもさらに140年後の『三国遺事』(一然編,1280年代完)の善徳女王16年(647)の記録に「錬石築贍星臺」(石をみがいて贍星臺を築く。朝日新聞社刊『完訳 三国遺事』(1976)p.104-105の原文。)とあるのみで、漢字も「瞻」の字が違う。「贍」は「たりる/ゆたか」という意味。[漢字海 2版p1359] 「瞻」は「見る」という意味。[漢字海 2版p991] なので、「瞻星臺」であれば「星見楼」という意味となるが、「贍星臺」は「星に満ちた楼」という意味となり、「星の観測」までの拡大解釈はできない。(「目」は眼に通じているが、「貝」は財に通じている。) 視覚的にも楼から「星」を見上げるという感覚ではなく、星にかこまれた「楼」を地上から見上げるという雰囲気である。 朝日新聞社刊『完訳 三国遺事』(1976)p.104-105の原文には「贍(瞻?)星臺」としてあり、後代に贍が瞻に読み替えられた可能性がある。『三国遺事』には「瞻星臺」としか記載されていない近代の刊行本もあるが、「瞻⇒贍」方向への変化は可能性が少ないと思われる。【注1】 したがって、「贍(瞻x)星臺」を星見台と解釈し、「占星臺」も星見台には変わりないとして、単純に同一施設と考えるのにはそもそも根拠が無い。
 天武天皇の「占星臺」(675)についてはこの「贍星臺」を読み替えた「瞻星臺」が日本に伝わったものとする説がある。それを最初に唱えたのは和田雄治で、現地を訪れ、その結果報告として天文月報(明治43年2月号)に「慶州瞻星臺の記」を発表している。しかし、天文台とした和田自身「瞻星臺に於て観測したる事項は如何、又之に使用したる機器は如何、是れ最も余輩に興味ある問題なりと雖も惜しむらくは一も之を記したる者無し、・・・」と「瞻星臺」での天文観測について何の記録もないことを認めている。にもかかわらず、「日本に於いて始て天文臺を設けたるは慶州瞻星臺より二十九年後にあり、制度通に「天武天皇白鳳三年正月庚戌始興占星臺」とあり、而して白鳳三年は新羅文武王の十五年(世紀675年)なり、「瞻」と「占」とを対照するも我国の天文臺は新羅より輸入されたること殆ど疑いの存ずるの余地なしと謂うべし、況んや欽明推古の両朝既に暦法の傳來あるに於いてをや。」として、年代の近さや暦法の伝来から天文台も朝鮮から伝来を類推しているだけである。また、和田は「瞻星臺」が歴史書には「贍星臺」と書かれていたのは知らなかったのだろう。
 その後この説には疑問が出されたが確証何も無く、現在でも「瞻星臺」の文化的背景や目的/用途には韓国でも結論が出ていない。そもそも「星見楼」ではないのだから、当然といえば当然である。少なくとも「瞻星臺」での天文観測機器を使用した観測は否定されているようである。また、新羅での漏刻の設置は日本より遅い718年(斉藤国治(1995)p.269)なので、天文観測の技術的必要性も善徳女王時代には無い。

 天武天皇の「占星臺」は読み替えた「瞻星臺」とは違い陰陽道という文化的背景も明確であるため、(読み替え後の)星見を見るための楼台であることだけの理由で同一視はできない。もし新羅から「瞻星臺」が伝来したとすれば、天武天皇の「占星臺」は最低限同じ様式の「石造の楼」でなければならないが、日本にはそのような実物はもちろん記録もない。また「瞻星臺」を天文台と見た場合あまりにもその様式は合理性が無く使用形態も不便である。天武天皇の時代であれば星見台は「漏刻臺」の露天の屋上の方が時計も備えており合理的で機能的にも十分である。またこの「漏刻臺」は飛鳥の水落遺跡の場所で660年には稼働しており新羅の漏刻の導入より58年早い。なので、飛鳥の「漏刻臺」より15年も遅れて新羅の「瞻星臺」を導入する理由はまったくない。
水落遺跡の水時計建物の復元想定図の不備(屋根)

   Shinobu Takesako よりお借りしました

 水落遺跡の水時計建物(漏刻臺)の想定図には2階は壁のない吹き抜けにしているのにもかかわらず全域に「屋根」がついている。この「屋根」は発掘結果をもとにした再現図では無い。[文献6 p.18]の「水時計建物の想定図」の説明にも、『もし天体観測をおこなうものであったならば、もっと開放的なものであったと考えられる。』としている。【注2】この「屋根」は強度を考えた設計になっている建物の構造から考えても不必要である。「枕草子 156段」の漏刻鐘楼の記述を参考にすべきである。この「屋根」は発掘では不明の「『漏刻臺』での天文観測」を、無意識ながら、明確に否定してしまった点で問題があり重要である。いまだに「占星臺の瞻星臺起源説」が生き延びている一つの理由である。(例えばNHKの歴史秘話ヒストリア 平安京ダークサイド 陰陽師・安倍晴明のヒミツ(2017/08/04) 37分あたりで何の説明も無しに新羅の「瞻星臺」の絵を使って天武天皇の占星台としてとんでもな時代考証である。) 古代の天文台の形態については北京に残る古観象台も参考にできる。ここでは観測機器が露天の雨ざらしで置かれている。青銅でつくられているので鉄より錆びにくい。 

[飛鳥村・水落遺跡現地説明板より]
 下右図は水落遺跡(660年頃)をもとにした屋根なしの場合の漏刻臺(占星臺)の概略図。このような楼が既に天智天皇の時代にあった。また下図右は後の時代の陰陽寮の記述である約300年後の枕草子の時司の記述、約500年後の中右記の漏刻が置かれていた鐘楼の記述とも矛盾はない。多くの天文記録が記録が残っている平安時代でさえ、天文観測は都の中心、内裏の前の陰陽寮で行われていたことを再認識するべき。また、近世でも渋川春海は貞享年間に安倍(土御門)泰邦の梅小路の庭先で渾天儀を使い星の位置を観測した。丘の上の見晴らしの良い場所に占星台を建てて天文観測が行われたとするのは光害を避ける必要のある近代の天文台をベースにした誤った考えである。

               Shinobu Takesako よりお借りしました

 ここで、新羅の「贍(瞻x)星臺」と較べてみると、「贍(瞻x)星臺」は高さは9.1mだが上部の直径は2.85mで、「漏刻臺」の柱の間隔(1間)分しかない。従って「贍(瞻x)星臺」の上部に四角形に梁を渡したとしても天智天皇の「漏刻臺」の屋上の1/16の広さしかないことになる。このことからも天武天皇が天体観測のために「贍(瞻x)星臺」と同様な建造物を建てる合理性はないことが分かる。
結論
 1)そもそも「瞻星臺」は当て字であり、本来は「贍星臺」で「星見楼」ではない。天文観測が行われた確証も無い。
 2)天武天皇の「占星臺」と新羅の「瞻(瞻x)星臺」に関係性は無い。関係性を示す物証は皆無であり合理的な説明もできない。
 3)天智天皇の時代から存在した「漏刻臺」には漏刻の校正用の天文観測の設備もスペースもあったと考えられる。
 4)天武天皇は 「漏刻臺」と天文設備を大津から飛鳥へ移設したときに「占星臺」と改名し建て直しただけである。
 5)この時期唐との関係も良くないので天武初期に「占星臺」の天文設備を新しく唐から輸入することは無理。

【注1】
 朝日新聞社刊 金富軾訳『完訳 三国遺事』朝日新聞社(1976)p.18は崔南善『増補三国遺事』及び李丙寿の『原本并訳注・三国遺事』を原文にしているとする。筆者の入手した崔南善『増補三国遺事』(民衆書館,1946初版,1976第7版)p.59と李丙寿最近の本『原文訳注・三国遺事』(明文堂,1987初版)p.46の両本の原文では但し書きなしに「錬石築贍星臺」とあり、「目」では無く「貝」となっている。李丙寿(1987)[前書]p.4は①安順庵手澤版、②正徳板(1512)、③崔南善・増補本、④朝鮮史学会本のすべてを参考にしているとしているので、単なる誤記の可能性は低いと考えられる。逆に(瞻?)を注記した金富軾氏がおおきな違いに気づいたことになるが、さらに原本までは遡っていないので(?)としたと思われる。
【注2】国立飛鳥資料館編 「飛鳥の水時計」飛鳥資料館図録第11冊(1983) p.18より以下引用
 『以上のことから考えうることは、第一に、建物がかなりの高さを持つということである。しかし、高いといっても、往座や柱痕跡から、柱は本径で40cmを越えないので、五重塔や、50mに及んだといわれる復原出雲大社のような並みはずれた高さにはならないであろう。したがって、その規模は2層、具体的には、建物の高さは9mほどが限度であろう。この条件からは下層に水時計を置き、上層に鐘ばかりでなく、水運渾象などを置くようなことも可能である。第二に、屋根は瓦葺でないことは確かであるから、板葺や草葺に類すると考えられる。その形式は平面からは宝形造が思いうかぶが、決定的ではない。第三に、外壁や柱間装置にいたってはまったく想像の域を出ないが、たとえば下層に漏刻を置いているのであれば保温や防塵のために、柱筋通り二重の壁体による厳重な閉鎖性が要請されるであろうし、一方、上層が鐘楼や、あるいは、天体観測の場であればなおのこと、これとは逆に開放的であることが必要になってくる。この点では、後の『延喜式』にみられる漏刻台の幔の記載などが思いうかぶ。
 なお、時を知らせる鐘、鼓に関しては、直接、その形状を記録した史料に乏しい。ただ、鐘については、『廷喜式』の「陰陽寮式」に鐘の撞木の寸法が記されている。それによると、長さは1丈6尺(約4.8m)、周囲の長さ3尺(約0.9m)、つまり、太さ30cmほどの長大な撞木である。これに対応する鐘も、撞座が30cm以上もある巨大なものであったと推測される。「民に時を知らしむる」ための鐘も、やはり、これと同様にかなりの大きさを必要としたであろう。また、鐘は吊すものという考えからすると、現存する寺院の鐘楼の形態も、水時計建物の復原に、何らかのヒントを与えるのかもしれない。
 本図録にかかげた復原図も、あくまでその一案にすぎない。ひるがえって、『日本書紀』において、水時計は「楼」でも「殿」でもなく「臺」に置かれたと記されていること、そして、現存する歴史的な天文観測施設は、中国では屋内でなく露出して置かれていることなどを考えあわせると、中国歴史博物館にある復原された北宋の水運渾天儀のような形式、あるいは絵図に残る江戸時代の天文台のような形式の建築も、上記の構造的な条件に矛盾せず、あながち復原像として否定し去ることはできないかも知れない。水時計の建物がどのようなものであったのか、ここに古代への夢がまたひとつ新たに加わった。』

ーーーーー

2001/01/19

<韓国文化>新羅伽耶の不思議⑩
新羅・伽耶の不思議 ⑩  韓 永大
 独自の暦・年号を使用    現存最古の天文台・瞻星台

 古代にあっては、暦は現代人以上に日常生活に深く関わり、かつ国家間の授付は冊封への臣従関係を規定するなど、国力の象徴として利用された。こうした時代、統一新羅(668年)直前の少なくとも1世紀の間、新羅が自国の暦を用いていた可能性があり、さらに独自の年号も使用していた。このことは中国諸王朝の暦あるいは年号を使用していた高句麗、百済とは異なる点であり、新羅文化の独自性を物語る重要な点だ。
++++そうなのか

 そこで歴史に登場するが、現存世界最古の天文台といわれる瞻星台(せんせいだい、善徳女王時代の632|647年築造)だ。総計365枚の花崗岩切石が暦年の日数と一致するばかりか、安定した構築法でその姿が今日に残されていることは、驚嘆そのものである。

 唐の介入まで新羅年号存続

 三国史記には、28代眞徳女王2年(648年)、唐の太宗が新羅の独自年号使用をとがめるのに対し、新羅が「中国王朝から暦が頻たれず、それゆえ法興王(514|540年)以来、独自の年号を使用してきた」との記事がある。

 そのことから新羅が中国の暦を用いず、年号も法興王23年(536年)以来649年迄、新羅の公年号(建元、開国、太昌、鴻済、建福、仁平、太和)を使っていたことが分かる。この唐の介入直後、650年に唐の年号「永徴」に改元、以後新羅年号は途絶えた。
++++そうなのか

 一方、高句麗や百済には三国史記に現れた公年号はなく、金石文から高句麗の永楽(好太王)と延寿(その子・長寿王)の年号が知られている。

 新羅文化の謎解く瞻星台

 三国史記の日蝕や彗星などの天文記事には、高句麗の高度の天文学を含めて、新羅の瞻星台独自の天文記事はない。このことから、瞻星台が天文台ではないのではないかとの説があるが、一連の事実からして瞻星台が天文台とする通説には、合理的根拠がある。

 奈良・明日香村の亀虎(キトラ)古墳(7世紀末|8世紀初)の精密な星座図(星縮図)は、調査の結果、北緯38―39度上の高句麗・平壌付近から見た正座群と判明(1998年)したが、このような詳しい天文記事は三国史記に反映されていない。理由は不明だが、瞻星台の場合も詳しい記録はないが、天文観測があったことはこの石造遺構が証言している。

 祭祀日はローマ式表記
 北方性の顕著な新羅文化だが、しかしあくまで中国の漢字文化圏の国だ。漢字の新羅式利用(吏読=りとう)や新羅年号の中国式干支との併用など、中国文化を受容し、発展している。

 唐以前、百済の元嘉暦(宋・梁)、高句麗の玄始暦(北魏)に対し、新羅がどこの暦を使っていたかは不明だ。北方遊牧民、羌(きょう)族の子孫は今日でも独自の暦を使用しているが、当時の新羅にも独自の暦があった可能性が強い。

 新羅の暦の一部を反映していると思われる祭祀日が三国史記にある。新羅では先祖供養と五穀豊穣を願って、年6回祭祀したとあり、「正月2日、5日、5月5日、7月上旬、8月1日、15日」がそれである。

 国家の重要行事である祭祀日付が中国や日本の干支式(例えば日本の「初午」)でなく、ローマ暦式の何月何日という表記になっている。これは干支式とは全く発想を異にする現代的な西洋式表記で、かつては新羅ではこのような使用法が生活に広く行き渡っていた可能性を想像させる。こうしたことや新羅の年号から推して、新羅には独自の暦があったとの根拠を見出すのである。                     (おわり)
 <筆者紹介>
 ハン・ヨンデ 1939年岩手県生まれ。在日2世。韓国美術研究家。上智大学英文科卒。著書に「朝鮮美の探求者たち」(未来社)、訳書に「朝鮮美術史」(A・エッカルト著、明石書店)。


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