隆起線文(隆線文とも)土器段階は土器の使用が普及した段階で、
前段階に比べると全国的に出土例が増え、やっと土器の量も増えます。という
何故そのようになったのか、その理由
この時期には、狩猟方法の画期、弓矢狩猟技術の開発があり、それが全国的に広がっている。
そのベースには後期旧石器時代からの物流の全国的広がりが既に存在していた
環状ブロックに始まる社会的組織
環状ブロック遺跡 分布
温暖化が始まり、大型動物がいなくなり、
小型動物を対象にする尖頭器、有舌尖頭器、投げやり猟へと変りそれでも食糧確保は難しかったのだろう
そこに敏捷な動物を捕らえるための新技術の弓矢が開発され、弓の弦、石鏃、矢柄開発が進んだ
この時期には既に無文土器作成の技術が存在していた、この用途はまだよく分らなかったので、このセラミックの先端技術が、弓矢の開発の画期を記念するために利用され、隆起線文土器が供献土器として造られたのでは無いか。
弓矢の開発の前段として、投げ槍猟が始まっていたようだ、それは有舌尖頭器という石器が作られて使われていたことからである。
それは石鏃が開発される前の石器のようで、それまでの槍先とされる尖頭器よりははるかに小型になっていたが、石鏃より大分大きいものだった。尖頭器、有舌尖頭器、石鏃と形も変り、大きさも小さくなる。
尖頭器 有舌尖頭器 石鏃
最初は投げ槍によりそれまでと違う狩猟が始まり、ここから弓矢の開発に至ったものかも知れない。
隆帯文土器はこれに当たるものかも知れない。例えば投げ槍に紐を付けて、手元に戻すようなことをしていたのだろうか。また固定式の弓のような使い方を始めていたのかも知れない。それでも大変な狩猟方法の進歩だったのでは無いか。
隆帯線文土器
ここから隆起線文土器
この時期に土器は増えたとは言うものの、それでもまだ日常煮炊きに使用するほど大量に作られていたものでは無さそうである。しかし無文土器にはこのような増加の例はなく、土器の使用がある程度定着、増加したことが窺える。と言うところのようだ。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
尖底の深鉢で、全面に細い粘土を水平に何段も巡らせています。底部付近は粘土紐が縦方向に貼り付けられています。口縁部には、爪で粘土をつまみ上げひねった波状の装飾があります。
土器出現期の無文土器(史跡 大平山元遺跡出土)の次の段階に位置づけられ、15,700年前頃~13,200年前頃と考えられます。
従来いわれてきた縄文時代草創期は、土器の使用とその普及、弓矢の出現、定住化など縄文時代の特徴が次第に明確になる時期でもあります。隆起線文(隆線文とも)土器段階は土器の使用が普及した段階で、前段階に比べると全国的に出土例が増えます。しかしながら口縁部から底部まで連続する事例は少なく、本品は貴重な例です。
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ナイフ形石器は日本列島で発達した石器で、日本では後期旧石器時代晩期の両刃の槍先形尖頭器と区別し、その片刃の利器をナイフ形石器と称した。狩猟を用途とするナイフ形石器で、突き槍・投げ槍として使われた。やがて2万3千年前頃からより強度な角錐状石器が登場する。朝鮮半島、全羅北道任実郡(イムシル=グン)でも出土している。強靭な獣皮を貫く槍先が誕生した。
従来型のナイフ形石器は、次第に小型化し投げ槍用とされた。それが更に小型化され組み合わせ槍の側刃器となる細石器が替え刃となる投げ槍が工夫されると衰退・消滅した。
関東地方の投げ槍は、ナイフ形石器が画期となり浸透したが、より強靭な角錐状石器となり、ついで2万年前頃、木の葉形の槍先尖頭器となり、次第に大型化し主に突き槍として縄文時代を迎える。
細石器はより有効な弓矢の伝来により、取って代わられた。九州や北海道では弓矢の伝播が遅れ細石器文化が長く続いた。
氷河期の厳しい後期旧石器時代、植物採集資源に乏しく、その主な生業は、多くを狩猟に頼らざるを得なく、狩猟具を進歩させ続けてきた。その厳しい品質と使い易さを条件とする石器石材需要に応えられたのが、信州中部地方の黒曜石原産地であった。旺盛な需要に応えられる産出量を有する原産地と産直供給の需要地へのルート、その交易条件を決められる仲介者がいた。しかも物々交換の流通網が整備されていた。
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後期旧石器時代( 紀元前3万5000年-1万3000年頃 )
約4~3万年前にかけて世界最古とされる磨製石器(局部磨製石斧)が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器の使用が見られます。
ナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使用されていました。約2万年前にはシベリアからきた細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まり、しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ形石器文化が併存した時代が続き、約1万5千年前ごろにはナイフ型石器は姿を消し細石刃が列島全体に広まります。
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15000年を遡る後期旧石器時代の土器は日本の古本州島に集中しており、
アムール地域のオシポフカ文化(15000~11700BP)の土器、石器は本州の縄文文化との関連性の強さが指摘されています。
オシポフカ文化を縄文文化圏に含めて考える必要があるかもしれません。
遼河文明の櫛目文土器は8200年前から普及しましたが、
北東アジア櫛目文土器文化圏に見られる尖底や円筒型の土器様式は日本の縄文時代草創期(15000~11700BP)、早期(11700~7300BP)を象徴する器形でもあり、
狩猟採集交易ネットワーク文化である東夷社会という環日本海地域に共通する文化圏全体を「縄文文化圏」として考察していく必要もあるでしょう。
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後期旧石器時代、そして縄文時代草創期を含む更新世の考古学的研究は、
17000箇所の遺跡がある日本が圧倒的に先行しています。
その研究成果は世界に誇るべきものです。
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38000年前の日本列島には、
世界最古級の磨製石器(アジアの伝統的な技法を使った局部磨製石斧)、
世界最古の集落(環状ブロック遺跡群)、
世界最古の罠猟(落とし穴)、
世界最古の海洋航海の証拠(神津島黒曜石の本州搬入)、
世界最古のゾウ解体の証拠(野尻湖遺跡)、
など、人類が初めて文化的な活動を開始した痕跡が見られ、
日本列島には世界の後期旧石器時代遺跡の大半を占める14500箇所の遺跡がこれまでに発見されています。
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縄文時代も早期、草創期と遡り、現在は縄文時代の開始を16500年前と考えるようになっています。
38000年前の日本列島人は、
最大で7~80人の集落(季節的な野営地とする説が一般的)を形成(環状ブロック遺跡)し、
鋭利な黒曜石の石器でナウマンゾウを解体、
落とし穴(世界最古の罠猟)で獲物を捕え、
太平洋の黒潮を超えて神津島へ航海するなど広範な交易ネットワークを構築していました。
狩猟民の交易ネットワークについては、10万年前のアフリカで既に存在していたとする説が近年提唱されており、当時の狩猟民が、かつて考えられていたような原始的な生活を送っていたわけではないと考える研究者が世界的に増えています。
ヨーロッパを基準にした後期旧石器時代(クロマニヨン人に代表される現代人的行動の開始)と、同時代の日本列島の文化を同列に扱うことには賛否があり、38000年前から始まる日本列島の後期旧石器時代を「岩宿時代」と呼ぼう、という提唱がされるようになりました。
石刃【せきじん】技法が中東(レバント)からユーラシアステップを経て36500年以上前の日本列島に伝わってきたのは、ほぼ間違いないのですが、
局部磨製石斧は、オーストラリアを含む環太平洋地域、アジアに古くから見られる在来の技法が用いられており、
ナイフ形石器のように日本列島で独自に開発された技術もありました。
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旧石器時代から石器の用途に応じて多種類の石材を使い分けていた。石斧の製作地として知られる神奈川県の尾崎遺跡は西丹沢の山間部にあったが、現在は丹沢湖の湖底に沈んでいる。
酒匂川上流の河内川(こうちがわ)の河床から良質の凝灰岩や結晶片岩を採集して磨製石斧や打製石斧を製作していた。
これらの石材の分布範囲は、河内川沿岸部の集落だけでなく、1つの土器形式圏から隣接する土器形式圏にまで及んでいた。
一方、石槍や石鏃などの利器にとって最も優れた石材で、かつ原産地が限定される黒曜石やサヌカイトは、既に広域に亘る物流網が敷かれていた。旧石器時代から遥か東海の海上にある神津島・恩馳島から、長野県の八ヶ岳東麓の野辺山で営まれていた矢出川遺跡にまで運ばれていた。
近年の発掘調査で上水内郡信濃町の野尻湖遺跡群の後期旧石器時代(約3.5万~1.2万年前)を通して、和田峠産のみならず、青森・秋田産や神津島産の黒曜石が、持ち込まれていた事実が明らかになった。長野県埋蔵文化財センターが発掘した石器1点が、神津島産であることが沼津工業高等専門学校の望月明彦教授 の分析によって判明した。実に300kmの遠隔地である。直接的な物流ではなく、交易を重ね漸くたどり着いたといった広域的な流通を想定したい。
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後期旧石器時代(約4万年前~1万5000年前=注)の初めごろの遺跡から、関東地方を中心に「環状ブロック群」と呼ばれる遺構が見つかっている。石器が集中する地点をブロックという。そのブロックが円形を描き、直径10メートルほどから、大きなものは50メートル以上に及ぶ。下触牛伏(しもふれうしぶせ)遺跡(群馬県伊勢崎市)で初めて確認され、現在全国で約100カ所が知られる。
研究者は何らかの集落跡と考えている。例えば、下触牛伏遺跡に詳しい小菅将夫・岩宿博物館学芸員は同遺跡には20個の石器ブロックがあり、一つを1家族4、5人として70~80人から100人の集落を想定する。はるか後の縄文時代の一般的な集落よりずっと大規模だ。
しかも、環状ブロック群からは、必ず「局部磨製石斧(ませいせきふ)」という刃先の一部を磨いた特異な石おのが出てくる。世界の考古学の通説では、磨製石器は新石器時代の指標である。それが日本では後期旧石器時代の、それも初めごろから存在するのだ。
長野県貫ノ木遺跡出土の砥石(といし)
この砥石の状況からみれば、相当に長期間使い込んでいることがわかる。磨製石斧が木を切る道具なら後半期に衰退する理由が説明できないし、また衰退後に、どのようにして木を切ったのかも定かではない。ただ、打撃をくわえて石器をつくるのと対の構造にあるような感じはする。研磨は押して引き戻すという工程が必要で、繰り返すことにより徐々に形態が変化する。反対に、打撃による加工は一度に力を与え剥離させることにより、大きく形が変化する。縄文時代の石斧は刃になる部分をコツコツと叩いて(敲打、こうだ)大まかに形を整えたあとで研磨する。その意味で、打撃と研磨の中間に位置する。どうも旧石器時代の磨製石斧は結果として登場したように思われる。
海外にこんな環状ブロック群はない。旧石器時代の磨製石斧はオーストラリアにもあるが、集落はない。これではどうみても、日本列島が当時の地球の最先端ではないか。それだけに、なぜこんな「進歩した文化」があるのか議論が尽きない。
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相沢忠洋(あいざわただひろ) 1929年生-1989年没。
独学で考古学を学び、赤城山麓の遺跡を調査し、岩宿遺跡を発見した。
岩宿遺跡では、発掘によって二つの石器文化が確認された。
下層のものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである(写真)。
上層の岩宿Ⅱ石器文化は切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。 岩宿遺跡の地層は岩宿ドームとして保存され、見学できる。また、出土石器は明治大学博物館および岩宿博物館に展示されている。相澤忠洋の業績は、相澤忠洋記念館で知ることができる。
局部磨製石斧 主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する。
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また縄文土器を縄文時代の先進性の表れと誤解している人によく見かけますが、世界最古のセラミック(陶器)は縄文土器ではなくチェコで発掘されたドルニ・ヴェストニッツェのヴィーナスと言われる紀元前29000-25000年のものとされる裸婦の人形(土偶)です。つまり、縄文土器以前から世界の人類はセラミックの技術を持っていたということです。
考古学の世界では、土器の発明は主に「定住生活」に密接してると考えられています。ようするに、以前から土器の作り方は人類は知ってたけ移動採取の生活には割れ物は邪魔だったから、あえて作らなかったが定住生活に入ると土器を利用していたと考えられているわけです。ドルニ・ヴェストニッツェのヴィーナスが紀元前29000-25000年ということを考えると、そお遠くない未来に縄文土器より古い土器が世界のどこかで発掘されても驚きません。
なお、「煮炊き」という行為は土器がなくてもできる。焚火の傍に皮や木製の器に水を張ればお湯は沸くし、または熱した石を放り込めば直ぐに水は沸騰します。熱した石が水に投入された結果で割れたと思われる割れ石は後期旧石器時代の遺跡で多く見られることから、現代、最古と思われる土器より前から人類は煮炊きを行っていたと思われます。
つまり、土器の生産は人類史にとってさして重要なものではありません。ただの定住生活への移行で発生した結果です。
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史跡「墨古沢遺跡」(すみふるさわいせき)(酒々井町)
所在地
印旛郡酒々井町墨字小谷津1381-1ほか
概要
日本列島の後期旧石器文化前半期を特徴づける約3万4千年前の環状ブロック群である。
環状ブロック群は、石器製作跡であるブロックが多数集まり、大きく円を描いて分布することを定義とする大型集落の一形態で、ブロック周囲には焚き火跡とみられる炭化物集中部も分布している。
墨古沢遺跡の環状ブロック群はおよそ南北70m×東西60mの範囲に及び、日本最大級の規模であることが判明した。石器組成は台形様(だいけいよう)石器、ナイフ形石器、削器(さっき)、彫刻刀形(ちょうこくとうがた)石器、楔形(くさびがた)石器、石錐(せきすい)、局部磨製石斧調整剥片(きょくぶませいせきふちょうせいはくへん)、敲石(たたきいし)、石核(せっかく)、剥片(はくへん)などからなり、狩猟具を含む石器製作等の作業が行われたことを示す。
また、使用石材は群馬県域のガラス質黒色安山岩が7割以上を占め、また信州、神津島、高原山産の黒曜石や、主に北関東からもたらされたと考えられる玉髄(ぎょくずい)、トロトロ石、流紋岩(りゅうもんがん)などがあり、人々が広域を移動し、更に遠方の集団とも交流を行っていたことが分かる。遺跡周辺の古環境情報も豊富であり、人々が豊富な湧水に集まる動物資源を目的に集まって営んだ集落と推定される。
墨古沢遺跡からは旧石器時代の人々の移動や交流、生業活動や集団関係について知ることができ、後期旧石器時代はじめの人類社会の在り方を知る上で重要である。
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1期 :隆起線文以前の土器群
日本列島における最古の土器は、現在のところ、青森県大平山元 Ⅰ遺跡(青森県立郷土館 1979,大平山元 Ⅰ遺跡
発掘調査団 1999)および茨城県後野遺跡(後野遺跡調査団 1976)で長者久保 ・神子柴石器群とともに出土した無文土器である。同石器群および類縁の尖頭器石器群に共伴して土器が出土した遺跡は、中部 ・関東 ・東北地方です
でに 10数箇所を数え、この時期には土器使用が開始されていたことを確認できる。神奈川県長堀北遺跡(大和市
教育委員会 1990)と勝坂遺跡(青木ほか 1993)では、削片系細石刃石器群と尖頭器からなる石器組成とともに土器
が出土してお り、関東の土器出現期にはまだ細石刃石器群が存続していたことを示す。
九州では、鹿児島県桐木遺跡で隆帯文土器(第 5文化層)よりも下層から細石刃石器群(第 4文化層)とともに出
土した土器片が最古期に位置づけられる(鹿児島県埋蔵文化財センター2004)。
同一層から出土した炭化物の 14C測定値は 13,550±50BP(PLD-1959)であり、これは土器自体の年代を直接示すものとはいえないが、大平山元 Ⅰ遺跡に匹敵する古さが示されている。
鹿児島県帖地遺跡(喜入町教育委員会 1999)で船野型細石刃核 とともに出土した土器も、九州最古期の一例であり、局部磨製石斧 ・木葉形槍先形尖頭器 ・石鏃が石器組成に含まれることから、長者久保 ・神子柴石器群の並行期と推定される。
鹿児島県加治屋固遺跡(鹿児島県教育委員会 1981)で細石刃石器群に共伴 した貼付文土器も南九州では最古期の一つに数えられているが、東日本との編年的対比は困難である。
これらの最古段階の土器群は断片的な出土例がほとんどで、型式 ・器形 ・容量等の特徴を明らかにするには至っていない。
大平山元 Ⅰ遺跡 ・後野遺跡の出土土器は、無文の深鉢と推定されるものである。
隆起線文以前の段階に比較的多い形態として、肥厚口縁に単純な文様を施文する一群がある。神奈川県寺尾遺跡第 Ⅰ文化層(神奈川県教育委員会 1980)出土例に代表される刺突文(寓紋)土器、東京都多摩ニュータウンNo.796遺跡(東京都埋蔵文化財センター1999)出土の斜格子目沈線文土器などがあり、これらの肥厚口縁系の中から次の隆起線文系土器が系統発生したとみる説もある(粟島 1988)。大塚達朗(1990・91)は斜格子目紋一宿紋-隆起線紋の変遷を論じている。
胎土に繊維を混入する例もある。
2期 :隆起線文系土器群
本州一円で有舌尖頭器が発達する段階になると、粘土紐の貼り付けとハの字形爪形文その他の刺突文で文様を
描く隆起線文系土器が出現、発達する。それとともに土器使用が普及する傾向が現れる。出土遺跡数が増加し、
なおかつ土器の出土量も1期に比べると増加してくる。たとえば神奈川県花見山遺跡では、新旧の型式を含んだ
合計ではあるが、約 120個体が識別 されている(横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター1995)。 1期にこの
ような例はなく、土器の使用がある程度定着、増加したことが窺える。
隆起線文系土器は、南は種子島から北は北海道まで日本列島の大部分に分布を拡大し、地域性も発現して多種
の型式を生み出す。
南九州と東海地方の一部に分布する隆帯文土器、中部 ・関東 ・東北地方に分布する微隆起線文土器などが最も特徴的である。造形上の型式が芽生え始め、系統的な型式変化が生じたのも、土器の製作 ・使用がある程度定着したことの反映であろう。
また、煮沸形態の基本形となる尖底深鉢が出現し定着していることから、それらは機能的にも改良、洗練されたことが窺える。器形や容量の分化も認められる。
土器使用の増加傾向は南九州において特に著しい。南九州には該期の遺跡が多く、多量の土器を出土する場合
がある。口径 30-40cmに及ぶ大形土器の存在も注目される。太い隆帯文を特徴とする独特な土器型式に加え、円
整形石斧 ・大形の石皿 ・煙道付き炉穴 ・石組炉などの文化要素が伴い、薩南諸島を含めた南九州に地域性の強い
土器文化が形成されていた(岡村 1997,児玉 2001)0