縄文時代の暦について何故検討がされていないのかの疑問
進まないその原因は、古代史の現状にあるものかと考える。
漏刻は,中国から数百年の制作/運用の実績のあるノウハウも一緒に伝来してきたと考えられるという。660年の運用開始なので,第2回遣唐使(653⇒654)若しくは第3回遣唐使(653⇒655)での伝来が時期的にも合致するとする。
実際の初期寺院と宮の創建時代と方位一覧からもそれは分るという。
つまり漏刻や天文は唐から直接伝来していると考えられ、暦は冊封の問題がでてくるので,唐と冊封関係にある周辺国から入手したのだろうというので新羅からなのだろうか。
引用--- このように天文の知識を持って考えれば明白なことが,現在も「漏刻台」と「占星台」が別物と認識され謎として残されているのは,天文家の研究が無いために,漏刻台の復元図に安易に「屋根」がついているからである。漏刻台に屋根を付けた時点で占星台とは別物になるのである。水落遺跡で発掘されたのは柱の穴だけなので「屋根」をつける根拠はない。このことからも,天文家による古代の天文暦法の研究は行われていないことが分かる。---中略--- 古代日本の天文学が天文学者により研究されていないからである。そういう意味で,日本古代の天文学の研究基盤が無い学会が古代の天文遺産を選別して認定するのも問題がある ---終わり
記録の残されている古代史でもこの状況にあるそうなので、縄文時代に関してはなかなか難しそう。
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瞻星台 「贍星臺」は「星に満ちた楼」
慶州瞻星台(けいしゅうせんせいだい)は、韓国では「新羅時代に建造された東洋最古の天文台遺跡」と言われている。
しかしこの施設は東洋最古の天文台と云うには余りにも役不足のようだ。
「瞻星臺」であれば「星見楼」という意味となるが、「贍星臺」は「星に満ちた楼」という意味となり、「星の観測」までの拡大解釈はできないという。
施設面から見ても、大きさから見て、天文観測施設を置くには、余りにも小さすぎるという。
(「目」は眼に通じているが、「貝」は財に通じている。) 視覚的にも楼から「星」を見上げるという感覚ではなく、星にかこまれた「楼」を地上から見上げるという雰囲気であるという。
朝日新聞社刊『完訳 三国遺事』(1976)p.104-105の原文には「贍(瞻?)星臺」としてあり、後代に贍が瞻に読み替えられた可能性がある。
『三国遺事』には「瞻星臺」としか記載されていない近代の刊行本もあるが、「瞻⇒贍」方向への変化は可能性が少ないと思われるという。
ということから最古の天文台は今のところ 瞻星台 これでは無さそうと思う。
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古代日本の解けていない謎とされる「漏刻台と占星台」
1. はじめに
古代日本の天文暦法の研究への招待で説明したように,日本では古代の天文暦法の研究は行われていない。ここではそのことが分かる古代の水時計である漏刻が置かれた漏刻台と天武天皇の占星台の関係について考察する。
2. 漏刻台の復元図
古代の水時計である漏刻は人工的な時計であるので,時刻の基準となる星の観測による天体時計と一致させる必要がある。そのため漏刻が置かれ屋舎の屋上には天文観測ができる場所が必要である。しかし,以下の飛鳥時代の漏刻台と平安京の漏刻が置かれた鐘楼の復元図には「屋根」がある。日時計で調整したとする論文もあるが,日時計が日本の文献に現れるのは花園天皇宸記の元亨四年(1324)十一月四日に出てくる「度圭」(土圭)が日時計であれば最初である。中国でも時刻を測ることができる日時計が現れるのは宋の時代である。古代の漏刻台の研究は考古学や歴史学の立場からの研究しか行われていないので,漏刻台に「屋根」がある。
図1 飛鳥の漏刻台の復元図 図2 平安京の陰陽寮鐘楼の復元図
平安時代の漏刻が置かれた陰陽寮鐘楼は桓武天皇の遷都の時からあり,天文の設備が置かれていたことは次の『中右記』の記事で分かる。
『焼亡之興、火起醤司小屋、焼陰陽寮、(中略) 陰陽寮鐘楼皆焼損、但於渾天図漏刻等具者今取出也、往代之器物此時滅亡、尤為大歎者、抑陰陽寮鐘楼、昔桓武天皇遷都被作渡也、其後今逢火災、至今年三百三十七年、今日焼了(以下略)』【中右記・大治2年(1127)2月(14)】
この鐘楼には外階段があり,屋上が露天になっており,それが地上からも見えていたことが次の『枕草子』でわかる。なお記事の時代は長徳元年(995)7月頃と推定されている。したがって,図2の復元図はこの目撃者の証言を顧慮しておらず間違いである。この鐘楼に図2のような屋根があれば,下から見上げて「天女とまではは言えないけれど,空より降りてきたようだ」という表現は浮かばないし,屋根があれば,滑って落ちてしまう。女性たちは屋上にいたのである。たぶんこれを考えた人たちには,古代の陰陽寮がどういうことをするのかも知らずに,ただ鐘楼(鐘つき台)を描いたのだろう。
『時司などはただかたはらにて、鼓の音も例のには似ずぞ聞こゆるを、ゆかしがりて、若き人々二十人ばかり、そなたに行きて、階より高き屋に登りたるを、これより見上ぐれば、ある限り薄鈍色の裳、唐衣、同じ色のひとえがさね、紅の袴を着て登りたるは、いと天女などこそえ言ふまじけれど、空よりおりたるにやと見ゆる。同じ若きなれど、おしあげたる人はえまじらで、うらやましげに見上げたるも、いとをかし。』【枕草子 156段】(角川ソフィア文庫)
古代の天文台がこのように屋内に漏刻を置き,屋外の上り階段で屋上に登り,星を観測する構造であったことは,以下の北京の古観象台と同じである。これは,飛鳥時代に漏刻が伝来した時に,屋舎の構造や,時刻を調整する技術や機器がシステムとして一緒に唐から伝来したからである。例えば,初めて造られた漏刻台の基壇が塔と同じく頑丈な構造で造られているのも,中国側からの指定無しには考えられない。
図3 北京古観象台屋上への階段 図4 北京古観象台屋上と観測機器
平城京でも飛鳥の漏刻臺と同規模の鐘楼跡の可能性がある基壇が見つかっている。(奈文研(2008)p.117参照。)
3. 漏刻台と占星台のまとめ
これらのことをまとめると,天智天皇が建てた,漏刻が置かれた飛鳥の漏刻台は,唐の天文台の仕様にしたがい,最初から屋上に露天の観測スペースをもった図5の右の構造であったと想像できる。これが,遷都の度に移設されたわけである。したがって,天武天皇の時代にも飛鳥に漏刻台があり,その呼び名が「占星台」だったに過ぎないと考えられる。
新羅の「贍星臺」が伝わったとする説もあるが,天智天皇の時代(660)にすでにこのような観測台があったのに,わざわざ観測スペースもほぼ無い(16分の1)「贍星臺」のマネを天武天皇の時代(675)にする必要の無いことは誰でも分かるだろう。また,漏刻についても朝鮮半島に伝わったのは8世紀であり,漏刻は日本には中国から直接伝来している。したがって,占星台の新羅からの伝来は,もともと何の根拠もないが,水落遺跡の発見により完全に否定されているのである。
このように天文の知識を持って考えれば明白なことが,現在も「漏刻台」と「占星台」が別物と認識され謎として残されているのは,天文家の研究が無いために,漏刻台の復元図に安易に「屋根」がついているからでである。漏刻台に屋根を付けた時点で占星台とは別物になるのである。水落遺跡で発掘されたのは柱の穴だけなので「屋根」をつける根拠はない。このことからも,天文家による古代の天文暦法の研究は行われていないことが分かる。
図はお借りしました
天武天皇の占星台跡が見つからないのは,残っていたとしても漏刻台の土台しか無いからである。水落遺跡では,中国側の指示で塔なみの頑丈な基壇が造られ,それが残っていたので発見されたが,他の建物と同様の簡易な土台に替えたとすれば,識別するのは困難だろう。いずれにしても飛鳥京内にあった。実際,漏刻の運用だけであれば頑丈な土台は必要ない。頑丈な土台は屋上に置いた天文観測機器の誤差を抑える目的だったと考えられる。中国側から,中国の石造りの司天台と同等の性能を求められたと思われる。
古天文学の斉藤国治著「日本・中国・朝鮮 古代の時刻制度」(1995)p.248も,日本書紀の天文記録から斉明・天智・天武の時代よりもっとずっと以前から,天文観測は行われており,水落遺跡も楼上で天体観測が行われていたことは大いに可能性があるとしている。そうであれば,楼閣の屋根の一部は露台になっていたにちがいない。そして,占星台に漏刻が設置されたと考えるのは,自然の理であるとする。さらに,水落遺跡時代は天智天皇時代ではなく,のちの天武天皇の「占星台」の時代あたりの作りだとしたいともするが,天智天皇の時代の遺構であることは発掘成果で証明されている。
また,斉藤国治著「古天文学の道」(1990)p.176では,江戸時代の渋川景佑の漏刻の実験の失敗を検証して、「近世に行われたこれら実験が、このありさまであり、古代の漏刻が近世の漏刻よりも格段に優秀に作られていたとは考えられないとすると、これを使った古代の時刻もあまり正確であったとは思えない。」としている。これも天文学者の西洋天文学流入以降の江戸時代を科学のはじまりとする考えにもとづいている。現代であっても,複数段の漏刻を何のノウハウも持たずに作り運用することはできない。天智天皇の漏刻は,中国から数百年の制作/運用の実績のあるノウハウも一緒に伝来してきたと考えられる。
660年の運用開始なので,第2回遣唐使(653⇒654)若しくは第3回遣唐使(653⇒655)での伝来が時期的にも合致する。半島に漏刻が伝来したのは8世紀である。
飛鳥時代の天文には推古朝の百済人や天武天皇がすぐに登場するが,実際には漏刻や天文は唐から直接伝来しているのである。暦は冊封の問題がでてくるので,唐と冊封関係にある周辺国から入手したのだろう。
漏刻の排出する水量は排出口と水槽の高さのルートに比例するので,例えば銭湯の浴槽のような大きな水槽の1段の漏刻であれば,細い排出口(口径1mm以下)から,時間当たり一定の水量が排出される。したがって,苦労なく正確な水時計が作れる。またこれが基準時計となるので,小型の数段の漏刻となっても正確に校正できる。実際の運用時には天体観測により時刻が校正される。また,運用にも水の水質や温度管理等も必要である。漏刻のノウハウを何も持たない近世の天文方が失敗したのはある意味当然なのである。
同様のことが方位測量にもいえる,古代の都城は数十分の誤差で真北に向けて造営されているが,京都の二条城は磁針を使ったために3°も真北からずれている。平安京の道に沿って建てていれば真北に近かったのである。また都城造営に用いられた古代の方位測定法は現在でも不明とされている。古代には「科学はなかった」とされているが,このように古代の技術力は高かったのである。
図5 新羅の贍星臺と漏刻台の比較
4. 陰陽寮と天文観測の初まりについて
天武天皇4年(675)の占星台設置に並んで,暦と天文をつかさどる陰陽寮が同年に置かれたと説明される場合があり,日本における天文の始まりとされることもある。しかし,これも根拠が無く間違いなのである。これの根拠とされるのが,日本書紀の次の文である。
『天武天皇4年(675)正月朔 大学寮諸学生。陰陽寮。外薬寮。及舎衛女。堕羅女。百済王善光。新羅仕丁等。捧薬及珍異等物進。』【日本書紀】
この記事は見れば分かるように,正月の祝賀行事に陰陽寮が出席した記事であり,陰陽寮を設置したというものではない。陰陽寮は天文の他に,漏刻や宮殿の測量等も扱う部署である。例えば漏刻は天智天皇10年(671)に設置されており,表1のように正方位の宮殿は遅くとも皇極天皇(第35代皇極天皇在位642~645)の時代から造営されている。これらのことにより,日本における天文観測は天武天皇以前に初まっていたのは明白なのである。
このように占星台と陰陽寮の設置を天文の始まりとするのには何の根拠も無い。逆に,日本の天文記録を検討した,谷川清隆/相馬充(2008)p.52は日本の天文観測が推古紀(在位593~628)の途中から始まったとしている。しかし,表1の宮殿の方位一覧をみると,推古天皇の次の舒明天皇の飛鳥岡本宮(630)はまだ正方位で造営されていない。即ち,天皇が北(北極星)に背を向けて南面する天子南面思想とその天文観測(測量)技術はまだ伝来していないことになる。
それが伝来したのは,表1から630年から643年頃と推定される。即ち,第一回遣唐使船(出発630-帰国632)でそれらは伝来したと推定される。この船には遣隋使船で隋に渡った留学生も帰国している。したがって,日本の天文の歴史は第一回遣唐使船の帰国に始まると推定される。これ以前の日本書紀にある天文関係の記録は赤気(オーロラ,620)と推古天皇の日食(628)の2件のみであることもその傍証となる。
したがって,この約40年も後に設置された漏刻は,当然天文観測で校正されていたことになり,漏刻台に屋根は無かった。これにより漏刻台は星の観測台(天武天皇が後に名付けた占星台)でもあったことになる。
さらに,最古の中国星図である『格子月進図』の星座名の避諱【虎賁(李淵の祖父の名が李虎)⇒武賁,天淵(太宗の父の名が李淵)⇒天泉】から推定される作成年代である唐・太宗から高宗の時代(618~649)とこの天文技術の伝来時期(632)は一致するのである。したがって,『格子月進図』はこの時観測用の星図として伝来したと考えられる。2020年3月に日本天文学会は『キトラ古墳天井壁画』を天文遺産として認定したが,それより「天文学的価値」がある『格子月進図』が放置されているのも,古代日本の天文学が天文学者により研究されていないからである。そういう意味で,日本古代の天文学の研究基盤が無い学会が古代の天文遺産を選別して認定するのも問題がある。
このように,天文を軸に考えると,古代史の謎とされることも,連動して解けてくるのである。不思議なことに,この天文からみた研究がこれまでなされていなかった。また,この時代の天文技術は半島経由ではなく,直接中国から伝来していることも分かる。これは半島に平城京,平安京のような正方位の方形の都城が無いことからも言える。
表1 初期寺院と宮の創建時代と方位一覧
史跡 創建年代等 天皇名(創健者) 正方位 偏位 数値(真北からの角度) 方位の出典
豊浦宮 592 推古 X 酒井龍一(2011)p.17
飛鳥寺 593 (蘇我馬子) △ 西 1度33分44秒以上 奈文研(1997-11)p.55
四天王寺 593 (聖徳太子) △ 西 約3.5度 現在位置での筆者の概略測定
小墾田宮 603 推古 X(?) 酒井龍一(2011)p.17
太子道(筋違道) ? ? X 西 約20度 柏原市文化財課(2019)
法隆寺 607 (聖徳太子) X 西 約22度 柏原市文化財課(2019)
飛鳥岡本宮 630 舒明 X 西 約20度 酒井龍一(2011)p.21
百済宮(百済大寺) 640 舒明 (○) 酒井龍一(2011)p.17
飛鳥板葺宮 643 皇極 ○ 酒井龍一(2011)p.17
前期難波宮 652 孝徳 ○ 東 23分39秒 宇野隆夫(2010)p.4
難波大道 (653以降?) (孝徳 or 斉明) ○ 東 26分11秒 宇野隆夫(2010)p.45
大和3古道 (654頃?) (斉明?) ○ 西 25分(下ツ道) 須股孝信(1994)p.321
後飛鳥岡本宮 656 斉明 ○ 酒井龍一(2011)p.17
近江大津宮 667 天智 ○ 西 約1.5度 宇野隆夫(2010)p.49 図6
飛鳥浄御原宮 672 天武 ○ 酒井龍一(2011)p.17
大宰府条坊 (684) 天武 ○ 東 (大宰府政庁Ⅱ期(中軸線)と同等) 井上信正(2009)p.20
藤原京 694 持統 ○ 西 41分51秒*1±24分 小澤毅(2016)p.11
平城京 710 元明 ○ 西 19分36秒*1±4分55秒 小澤毅(2016)p.11
大宰府政庁Ⅱ期(中軸線) (713頃) 元明 ○ 東 18分20秒*2 井上信正(2009)p.19
後期難波宮 726 聖武 ○ 東 16分14秒*3 李陽浩(2005)p.93
恭仁京 740 聖武 ○ 西 約1度 宇野隆夫(2010)p.49 図6
長岡京 784 桓武 ○ 西 7分 宇野隆夫(2010)p.45
平安京 794 桓武 ○ 西 22分55秒±48秒 宇野隆夫(2010)p.43
*1 方眼紙(直角座標)の補正西偏6分を筆者が加えた。
*2 筆者が大宰府政庁における直角座標の補正16分04秒(西偏)を加えた。
*3 筆者が難波宮大極殿における直角座標の補正16分17秒(西偏)を加えた。