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病める「福音と社会」
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記録によると、2023年2月18日に以下のような投稿が「福音と司会」の編集者の山内継祐氏にメールで送られていた。彼はその受理を確認している。
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福音と社会
「LGBTQについて思う事」
谷口神父の記事を膝を打ちながら読んだ。今までこのような、LGBTQ運動に対する真実を、真っ向から切り込む意見をキリスト教関係者が述べるのを見た事がなかったからだ。
私は個人的に興味があり、以前よりNHK等で時々放送しているLGBTQについての番組を観ていた。基本的に番組ではLGBTQの当事者達について好意的かつマジョリティである視聴者達に彼らの生きづらさや、理解を求めるものがほとんどである。その中でローズと名乗るトランスジェンダーの当事者が、結婚して20年以上も経ってから女装に目覚め、戸惑う妻を尻目に、金髪に真っ赤な口紅を塗り、ミニスカートで出歩く姿があった。そして自分の女物の下着を妻に洗わせ、身の回りの世話をさせている姿に非常に違和感を覚えた。また別の番組では、自分を男だと思う高校生の少女が、性別移行の処置を受け、詰襟の制服を身につけて一旦は望む通りな自分になったはずだった。その後やはり違ったと元に戻ろうとするも、一旦ホルモン治療を受けた身体はバランスを崩し、鬱病にもなり正常な社会生活は送れない姿を写していた。
さらにここ最近流行りのSDGSの波に乗り脚光を浴びるLGBTQ運動について、一部の女性達が抵抗しているのをネット上で頻繁に見かけるようになった。彼らの主張はLGBTQの中でも主にT、トランスジェンダーについてである。なぜならトランス女性は女性ですという事で、女性自認の身体男性を、女性スペースにいれるべきという論調が高まってきたからだ。始めは私もはるな愛や、佐藤かよのような一般女性よりも可愛いらしいトランス女性をイメージしていたので、その問題性に気づけなかった。だが、海外からの情報も含めネット上に散見されるのは女性スペースに侵入する事に異常な執着を見せる、悍(おぞ)ましいモンスターのような男達の姿であった。その中にはトランスを名乗るオートガイネフィリア(自己女性化偏愛性倒錯症)の変態達も多く含まれ、目を覆うばかりの悍しい事実が広がっていたのである。
書きたくもないが、彼らは女性トイレに侵入し、隣の個室から聞こえる女性の排尿の音に興奮し、女子トイレ内で女性用下着を身につけたあられも無い姿を自撮りし、自慢気にSNSに投稿しているのだった。またスザンヌみさきというトランスジェンダーのYoutuberが、女湯に入り、全くの男目線で女湯で見た光景を嬉々としてレポートする動画が炎上したばかりである。
また今日も、心は女性と偽り、部下に性暴力を行った男が逮捕された。
このような連中が女性スペースに侵入してきたらどうなるか。ただでさえ性犯罪の多い現状で、何が起こるか容易に想像がつく。
ほとんどの女性は幼少期から、一部の異常な男達から何らかの性被害を受けてきたからだ。そして性自認が認められた先にある危険性に気づいた市井の女性達が大勢声を上げ始めた。
ところが活動家達は彼女達にTERFのレッテルを貼り、トランスこそ守るべき一番の弱者とし、実際に危険に晒される女性と子供は無視し、女性達の口をヒステリックに塞ごうとしているのである。まさに朝田理論、お話にならない状況だ。
女性達が危惧しているのは性犯罪だけではない。言葉巧みに洗脳を行い、思春期にありがちな自分探しに悩める子供達をトランスに導くようなやり方だ。
そして時流に乗りトランスする事で脚光を浴びたい、承認欲求を満たしたい若者や、一部発達障害の若者も取り込みまるで最先端の活動のように持て囃されている。一時の気の迷いで、取り返しのつかない身体になり、ハイヤー氏の様に脱トランス活動に転換する若者も増えている。
トランス旋風が巻き起こる海外では主にトランス女性による問題が次々起きているが、リベラルのファシスト達により無視され、逆に差別者として糾弾されている。LGBTQ に対する批判はすべてヘイトとし吊し上げる異常性は谷口神父の記事にある通りである。
またトランス女性を容認する事で被害を受けるのは主に女性達と子供だが、被害の対象にならない男性がトランス女性を擁護し、声を上げる女性達の声を塞ごうとする様子はまるで正義を装った新手の女性迫害の惨状だ。彼らは被害を恐れる女性達に石を投げる前に、加害者である男性に向って加害を無くすよう訴えるべきである。トランス差別をするなと言うのなら、まず加害者をなくせと言いたい。女性からすれば、実態が不明な「心は女性」と言う身体男性を信用できるわけがないのだ。
奇しくも先日のグラミー賞では、人気歌手でゲイのサム・スミスとトランス女性のキム・ペトラスが大ヒット中の曲「Unholy 」を歌い、サタンそのもののパフォーマンスを披露した。
LGBTQを擁護するリベラルなクリスチャン達は、トランスジェンダーの不都合な現実から目を逸らさず、自分達が推進するその活動の先にあるものをしっかりと見るべきである。
リベラルなクリスチャン達の善意と正義感を利用して、サタンは狡猾に神に背くよう誘導しているのである。
増田圭子
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実際は、約束に反して、この投稿記事は「福音と社会」(Vol.326)には掲載されていなかった。
私は不審に思って、編集者山内継祐氏になぜ載らなかったのかを問い合わせたところ、彼からは、直接投稿者に面会して原稿の変更(追加)を依頼して了承されたのに、その変更記事が届かなかったので掲載しなかったから、という返事だった。
しかし、その釈明は事実に符合しない。 ストレートに言えば 真っ赤 な嘘である。
なぜなら、投稿者は―以下のやり取りを見てもわかる通り―いったんは検討を約束したかもしれないが、その後の展開を見て、最初の投稿内容の変更の必要性を感じなくなって、元のまま掲載することを求め、それを編集者は了解していたからだ。(以下はそのやり取り):
From: john19xxxx@gmail.com
Sent: Saturday, March 25, 2023 2:54 PM
To: フリープレス 山内 <hkeisuke@freepress.co.jp>
Subject:
山内さま
増田圭子さんから、以下の文の転送依頼がありました。
山内様
先日はありがとうございました。 (投稿者が編集者の要求で面会に応じたときのこと。カッコ内谷口加筆)
あれから、LGBT に寄り添う一文を考えていました。 (編集者に求められた加筆のこと)
この2週間で刻一刻と事態は変化し、
とうとうパパ様(教皇)も、トランスイデオロギーは危険だと声明を出しました。
https://twitter.com/2022meimei3/status/1634714757101129728?s=46&t=Y710t4T7y4Ii7tqfnT7Juw
今までこの問題に関心のなかった、一般男性たちも注目し始め、もはや以前のようなLGBT 擁護の声は、だんだんと小さくなり、むしろおかしなイデオロギーに反対する声の方が大きくなっています。
福音と社会の編集部に届く批判も、減ってきているのではないでしょうか?
ここ最近では、トランスジェンダーのよだかれん氏が、トランスジェンダーを女性スペースから排除するなと発言し、大勢の女性たちから非難をされていました。180センチもある大男が、このように軽々しく発言することは、まさにトランス女性は男であるという証明でしかありません。
LGBT当事者たちからも、続々とLGBT 法案は不要で、むしろ社会の分断を生むだけだという声が上がっています。
ですので、もう一部の活動家達に忖度する意味はなくなってきたと考えます。
先日校正をして下さったそのままの文章で、掲載していただけないでしょうか?
谷口神父様の書評が炎上した時とは状況が違ってきているのです。パパ様の声明を受けた今、むしろ正平協議会、カトリック新聞が谷口神父様に謝罪するべき事態になってきています。
どうかご一考いただけないでしょうか。
増田圭子
以上です。(谷口)
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それに対して、編集者は以下のように返信しています。
From: hkeisuke <hkeisuke@freepress.co.jp>
Sent: Saturday, March 25, 2023 7:32 PM
To: john19xxxx@gmail.com
Subject: お取り次ぎへの感謝とご相談
谷口神父さま
増田さんのお便りを転送していただき、ありがとうございます。
増田さんお申し出の趣旨、了解しました。カトリック社研内での私の立場に変化がない限り、次号に掲載させていただきます。
そこでお願いなのですが、私が増田さんの原稿に赤入れした「整理稿」の現物を、増田さんご自身にお目通しいただくため、お預けしたままになっています。再度赤入れすることも可能ですが、増田さんのお手元にある整理稿との間に食い違いが生じるといけませんので、コピーをお取りになった上で、小生宛に現物を返送していただけないでしょうか。整理稿の内容のまま掲載します。
今月中に落手すれば、次号締切に間に合いますので、この旨を増田さんにお伝えいただければ幸いです。
山内継祐 拝
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それを受けてなされた最後の交信は:
From: john19xxxx@gmail.com <john19xxxx@gmail.com>
Sent: Tuesday, March 28, 2023 12:58 PM
To: 'hkeisuke' <hkeisuke@freepress.co.jp>
Subject: RE: お取り次ぎへの感謝とご相談
山内さま
ふりがな「たけだけしい」を「おぞましい」に訂正するように伝えたと連絡したら、すぐ折り返しに「ありがとうございました」という返事がありました。(いずれもラインのSMSです。)
谷口
さらに、
From: hkeisuke <hkeisuke@freepress.co.jp>
Sent: Tuesday, March 28, 2023 4:49 PM
To: john19xxxx@gmail.com
Subject: RE: お取り次ぎへの感謝とご相談
谷口さま
ルビ訂正の件、承知しました。
山内
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これが、326号発行前の最後の交信でした。編集者は投稿者に対して、3月末の時点では、この投稿が掲載されることを、ジャーナリストのプライドと道義と「首」に賭けて確約したことになっています。
それなのに、普段は発行と同時に関係者に贈られるはずのサンプル誌が私にも投稿者にも届かなかったので、はてな?と思って請求したら、数日後、私宛に2冊とどきました。
その驚きの結果は 不掲載「ボツ!」でした。
編集者山内氏は「福音と社会」Vol.325のP.106の【編集部から】に「カトリック司祭・谷口幸紀執筆者の「書評」について、(中略)多様な意見が寄せられています。それらは(中略)誌上でご紹介してまいります。」と記している。それなのに、増田さんの投稿だけはなぜ載せられなかったのかの説明がない。
自分の投稿は「ボツ」にされて、その代わりに掲載されたほかの投稿を見て、彼女の反応は、普段冷静な彼女らしくもなくやや取り乱して(?)いるかの感もありますが、まず、彼女の気持ちを聞いてあげて下さい:
今、「福音と社会」を読み怒りに震えています
なんですかあれ
真実を見ずに、活動家の一方的な主張を鵜呑みにし、
谷口神父様を悪者に仕立て上げるあれじゃあ、
元々私の文なんて載せる気なかったんじゃないですか
山内さんには心底失望しました
「福音と社会」にも
無知な大馬鹿たちがまんまとサタンの片棒担いで、正義ヅラとは
欧米は問題山積で、バックラッシュがおきているのに、
周回遅れでなにトンマな記事のせてるんでしょうね
いずれ自分たちのしたことを恥じるようになりますよ
あれじゃ、パパ様(ローマ教皇)の声明も目に入ってないんでしょうね
今の時代ネットを見ていない、ってこういうことです
主要なメディアはすでにサタンに取り込まれていますからね
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どうです!この小気味よい威勢の良さ!ふだん冷静で控えめな彼女、大爆発です‼
事前に本人の了承を求めたら、「恥ずかしい、これは神父様だけに書いたのだから」と同意はキット得られそうにないので、敢えて彼女に無断で暴露します!(ごめんなさ~い(+_+)!) (ブログがアップされた後、それを読んだ彼女の同意とサポートが得られました!)
事ここに及んで、編集者の山内氏はなおおめおめとその職にとどまっていられるのでしょうか?それとも、もう辞表は叩きつけて、きっちり落とし前を着けていたら、それはそれであっぱれですが。
彼は、「ほかにいろいろ当たってみな断られた。これについてカトリックで書けるのはあなたぐらいしかいない」、と言って持ち上げて、「書いたら大反響になるよ」と言ったら、「それこそ望むところだ」と言わんばかりの余裕を見せていた編集者だったのに。
それが、「カトリック新聞」も、「カトリック正義と平和協議会」も、どうやら編集者のバックである「JOC」もそろってあちら側に回してしまって、「福音と社会」の管理者との板挟みになって、弱気にも生き残りをかけて日和ってしまったのでしょうかね。そんな彼を見たくなかったな。
いうまでもなく、「カトリック新聞」も「正義と平和協議会」もカトリック司教団のもとにある。今や、日本のカトリック司教団はフランシスコ教皇の教えから離反してしまったのだろうか。もしそうなら、すっかり病んでいるというほかはない。
教皇様はそのような傾向を憂い、厳しく警鐘を鳴らしておられるのに・・・。
まあ、いずれにしても、「福音と社会」なんて、御大層なタイトルを語ってはいるが、私のドタ感で測れば発行部数1000部にも満たない、したがって、定期購読者はその7掛けに満たない泡沫出版物に過ぎない(推定が間違っていたら、お叱り下さい、訂正にはやぶさかではない)。日本のカトリック教会そのものが信徒数40万人のミニ宗教団体だ。
そんな小さな世界の中で、不掲載は怪しからん、ボツにされて悔しい、などとコップの中の嵐を呼んでも、けち臭い話ではありませんか。それより、そのボツのおかげでこのブログに取り上げられ、発行部数の何倍もの社会の良識ある人々の目に事実が届く結果になったのだから、かえって良かったのではないか。「瓢箪から駒」というべきか。
「福音と社会」には、編集者の上司に発行人がいるようだが、その発行人はVol.326 の表紙裏に「読者様へのお詫び」という一文を乗せている。
「お詫び」しなけれればならない事態を直接招いたのは編集者だろう。しかし、その人物の上司には同等の共同責任がある。政界や普通の企業なら、責任者の処分をもって、お詫びの落とし前をつけるか、その上司が身を引くのが筋というものではないか。しかし、今、屋台骨の山之内氏を切ったら、次号からの発行を続けることが出来ないから、その解雇は同時に「福音と社会」誌の廃刊を意味する。
編集者は発行人のその弱みを利用して、ジャーナリスト魂を燃やして、約束通りに増田さんの投稿記事を載せることもできたのではないか。しかし、増田さんの記事を没にすることによって、発行人は「福音と社会」の廃刊を免れ、編集者は―本意か不本意か―首がつながったというズブズブの馴れ合いということか。
私は、編集者がかつて「カトリックグラフ」を編集していた時、「金大中の KCIA による拉致事件」を大手の「アサヒグラフ」や「毎日グラフ」を出し抜いて、政府の緘口令にも逆らって、単独スクープしたときの歴史的快挙のことを今鮮明に思い出す。ヤクザのような KCIA に怒鳴りこまれて震え上がった発行人「生母の騎士」修道会は、編集責任者山内氏を即時解雇し、「グラフ」誌は廃刊にした。その後の彼の目の醒めるような身の処し方を、今、敬愛の情をこめて思い出している。あなたは解雇されても、親の土地と家のすべての私財をなげうって、破産するまで「カトリックグラフ」を一人で出し続けた。あの時の山内氏のカッコよさはどこに行ってしまったのか。
ブルータス、お前もか?と言いたい。「福音と社会」という日本のカトリックの一郭がまた一つ、LGBT を背後から操っているサタンの軍門に下って去勢されてしまった。この転落の後遺症には重いものがある。
上記の「読者の便り」の一つを読みました。便りを離れて、一つのことだけ書きます。「同性愛」という三文字の漢字からなる言葉があります。これは抽象化された概念だと思います。わたしは大学四年生のときに、L. Visconti の "Death in Venice" を観て感銘を受けました。冒頭の青色の filter をかけてつくられたと思われる海辺の景色、沈みゆく Venice(すみませんでした、Venice が沈まないように頑張っている方、願っている方)、ギリシャ由来の美を思わせる少年 Tadzio、海辺の景色、マーラーの交響曲 et cetera. 当時、わたしは、めぐまれ過ぎていて、理念的・観念的な世界で生きいくことができたと思います。随分後に、Visconti や Tomas Mann の性癖を知りました。また、Tadzio のモデルとされる少年の写真も見ましたし、どうやらその方は、Tomas Mann から何度も見られていたことすら知らず、後から、その事実を知ったこと(推定)を知りました。上の三文字の漢字からなる言葉には様々なことがあるように思います。感情、行為、行為をなす人、願望をもつ人、わたしにはよくわからない世界で、これぐらいしか思いつきません。昔を思い出すと、運動クラブの何人かの先輩に尊敬の念を持っていたことはあります。年が一つしか違わないにもかかわらず、しっかりしていて、後輩をよく引っ張ってくれていたと思います。これは広義の同性愛に含まれるのでしょうか? 理念・観念によっていくら考えても、頭の遊戯に終わることと思います。
最後に、この映画のかなりの部分は、主人公の "Gustav von Aschenbach" の意識がつくりあげた世界からなるように、2 年程前に映画を見直して、感じました。
たびたびすみません。
わたし(新米信徒)が上に引用した「心に残る映画紹介ージャン・リュック・ゴダールの存在と”実像”」の評者を書くことを忘れていました。評者は、
「長坂寿久」さんです。それから、「ホイヴェルス」神父様が正しい綴りです。申し訳ございませんでした。
上に少し引用した、谷口神父様のこのブログにあるホイヴェルス神父様のことばは、「デオ・グラチアス 神に感謝したてまつる! ホイヴェルス著 =時間の流れに=」on 28/11/2022, にあります。
「1リットルの涙 難病と闘い続ける少女 亜也の日記 木藤亜也 エフエー出版(一九八六)」の、 21 歳 ー 生命ある限り、にある、亜也さんがマジックペンで日記に書かれた「感謝の気持ちはどういうふうに示せばいいのだろう」と最後の頁にある「ありがとう」は、カルメル会の修道女の方々の声を聴かなければ、決してホイヴェルス神父様の言わんとしていることがわからないのと同じように、亜也さんの書かれた文字を見なければ、伝わってこないと思います。どのように意識や理屈を働かしても!昨日の少女のことばは真っ直ぐでした。
わたし(新米信徒)が昨日 02/05/2023 に書いたことの最後の "Maria" について少し補足します。Maria は、
Nova Vulgata
LIBER GENESIS
1:10 "Et vocavit Deus aridam Terram congregationesque aquarum appellavit Maria. Et vidit Deus quod esset bonum."
の "Maria" をおもって書きました。日本語訳は、ふつう、「海」だと思います。
福音と社会 Vol. 325 の「心に残る映画紹介ージャン・リュック・ゴダールの存在と”実像”」を偶然読みました。この記事は、「自殺ほう助(安楽死)を受けた」と報じられたゴダールへの追悼の思いを込めて書かれたそうです。わたしが読む限りでは、安楽死については触れられていないと思います。福音と社会に関連した内容と思われることは、「ミソジニー=misogyny」についての著者の見解です。この雑誌は、著者にかなりの自由を与えているように感じます。映画の記事ですから写真がつくことは自然なことのように感じます。"Pierrot Le Fou" のカラーの写真もあります。この映画は、大学 3 年生のときに観て、わたしの心があらわれているように感じて驚きました。簡単に述べると、過ぎ去る (passes) ということですが、映画の最後に Arthur Rimbaud の "L'ÉTERNITÉ" が引用され、海と太陽と光の瞬きが強調されています。著者はゴダールの映画から難解さと混乱を感じていた、と書いておられます。というようなことを考えながら、道を歩いていて、ホイヴェスル神父様の "Deo Gratias" の記事にある、カルメル会の修道女の方々の見えない向こうから聞こえてくる "Deo Gratias" に思いがいたったほぼその時に、横断歩道を母親の方と一緒にわたっている小学校低学年の少女の姿が目につきました。腕を 45度ぐらいに斜めに上げて、車が止まっていることに、「ありがとう」、と言っていました。わたしはうなだれて、また少女から教えられたと思い、「こと」から離れてはいけないと反省させられました。上の映画は、友人の部屋に勝手に上がらせてもらい、勝手に見ていましたが、最後の「永遠」の場面の近くで、友人が帰ってきて、ものすごく怒られました。その後に、「卒業」や「寅さん」のいくつかの作品をいっしょに観てくれて、このようなものを観なければいけない、と忠告を受けました。友とはありがたいものです。いま、「偶然」ということと「聖母」が深く結びついていることに気づかされました。Maria は(神の恵みの)海です。また、私的な長文をすみません。