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福音書の中の自然宗教的要素
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キリストの写真
聖骸布に残されたキリスト本人の顔
また、変なことを言う、などと思わないでください。最初に断っておきますが、キリスト教 が天地万物の創造主であり、自然を超越して永遠に存在しておられる唯一の神を信じる「超自然宗教」であることは言うまでもありません。
それは、疑いもなく真実であり、もちろん私自身もそれを固く信じています。
しかし、福音書を読んでいると、おや?ここには自然宗教のことが書かれているのではないか、と思わせる箇所があちこちに顔をのぞかせているのが気がかりです。
早速一つの例を引きましょう。
マタイの福音書の20章には、「ヤコブとヨハネの母の願い」というくだりがあります。
「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください。」・・・すると、「他の十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」
これって、今の衆議院選挙の時期に実にふさわしいテーマではありませんか。誰が王座に着くか?つまり誰が総理大臣の地位に登るかは、代議士たちの最大の関心事だったでしょう。今回は、結果的に石破がなりましたが、決まる直前までは、高市がなるか?小泉になるか?自分にとって今だれ誰に擦り寄っていくのが一番の得策か、と皆真剣に考えていたに違いありません。
お目当ての候補が総理、総裁になった暁には、自分もきっと大臣の要職につけるだろう、しかし外れたまた当分は冷や飯喰らいと、皆が地位と権力と金の欲にまみれて必死で皮算用していたに違いありません。
イエス・キリストの弟子たちも、似たような野心に駆られてイエスの後についていただろうことは、出しゃばりの母親に抜け駆けをされた他の十人の者が皆「これを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」と言うくだりから見え見えです。
昔風に言えば右大臣、左大臣。今風には幹事長、政調会長、外務大臣、財務大臣、防衛大臣、等々。誰もがいいポストを求めてせめぎ合っているのです。
そこへ、息子の出世を願って母親が出てくるあたりは、ママゴンと言うか、マザコンと言うか、世の中は今も昔も全く変わりありません。そして、それに腹を立てたということは、ほかの10人の弟子たちも五十歩百歩の同じ穴のムジナであることを白状しているようなものです。
このような話から、超自然宗教の創始者であるキリストに召し出されたのに、付き従った12人の弟子たちは皆、多かれ少なかれイエス・キリストをこの世の権力者、覇者としてのメシアになるべき人だと当て込んで、ひたすら世俗的な野心と下心で付き従っていたに違いないことが透けて見えます。これこそ現生ご利益をあてにした自然宗教的メンタリティーでなくて何でしょうか。
イエスが5つのパンと2匹の魚を5000人に食べさせた奇跡
イエスが5000人の群衆に5つのパンと2匹の魚を分けて皆を満足させた奇跡譚の後でも、イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(ヨハネ6、26)と図星の言葉を吐かれましたが、これなども、イエスの人気が現生ご利益求める群衆心理から生まれたものであることを鋭く見抜いておられたことを物語っています。
続いて浮かんでくるのが、次の場面です。(マルコ8.31-37)
「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」
と聖書にあります。それはそうでしょう、ペトロがイエスをいさめるのは無理もありません。なぜって、我が主イエスには、これから立派にメシアとしての華々しいキャリアーを上り詰めて権力の座に着いてもらわねば、付き従った甲斐がない。その暁には、自分も相応の地位に就き、偉くなって多くの利権に与るはずではないか。その主が長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、多くの苦しみを受けて殺されてしまうなんてとんでもない話です。イエスには是非とも有力者たちから全面的支持を集めて頂点に上り詰めてもらわなければならない。あてにしたご利益がふいになるなんて考えたくもない、というのが弟子たちの本音です。
だから、イエスをいさめたペトロにしてみれば、当前のことを言ったまでのことではなかったでしょうか。
それなのに、イエスはペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と一蹴して言われた。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と。しかし、この言葉は当時の弟子たちの理解力をはるかに超えていたのです。
ここに、イエスの説く魂の救いの道としての 超自然宗教 と、現世利益を求める弟子たちの思惑の 自然宗教 との決定的すれ違いが歴然と現れています。
そう考えると、イエスが振り返って弟子たちを見ながら、「ペトロを叱って『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と言われたくだりは、ペトロの 自然宗教 的な考え方を厳しく咎められた言葉として理解することができます。
さらに決定的なのは、夜のゲッセマネの園で繰り広げっれたイエスの捕縛劇の場面でしょう(マルコ14.43-50)。
接吻でイエスを売ったユダ
さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
それを見た弟子たちは皆、イエスの道連れになって十字架に架けられてはたまらないと、イエスを見捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。
彼らは、夢と野望を抱いて3年間イエスと寝食を共にしましたが、イエスがあっけなく捕らえられ、犯罪者として十字架に処刑され悲惨な死を遂げたのを見て、自分たちの期待が当て外れに終わったことを悟り、失意に打ちひしがれて故郷のガリレアに帰り、みんな元の貧しい漁師の生活に戻ってしまったのです。
すべてはとんだ当て外れに終わってしまった。逃げ遅れて捕まり、巻き添えを喰らって一緒に十字架につけられる危険を辛くも逃れて生き延びたことをせめてもの幸いと、胸をなでおろしたことでしょう。まさに一巻の終わりです。歴史には、無数の新興宗教の教祖が現れ、弟子を集め、しばらく大衆を惹きつけ、やがてまた消え去り、忘れられていきました。イエスの宗教もその一つとして教祖イエスの大失敗の死で終わり、消滅するはずではなかったでしょうか。
それにしても、もし本当にこれで話が終わりだったとしたら、キリスト教が超自然宗教として確立され、2000年余りの歴史の荒波に耐えて、いま現在、世界の大宗教として実在している事実をどう説明すればいいのでしょうか。一体何があったのでしょうか。この問いに答えを出さなければ、今の世にまだキリスト教が生きながらえている事実をどう理解すればいいのからないではありませんか。
(つづく)
私もそう思っています。
私の書いていることは、そのことと少しも矛盾していません。
私が問いたいのは、カトリックの一般信徒の信仰の在り方が、この世のいろいろな神仏を拝む宗教と50歩100歩でどこが違うか、どこがキリスト教らしい特性を輝かしているのか。
こんなままではキリスト教ならではの良さがほとんど見えてこないではないか、と猛省を促したいのです。