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友への手紙
ー インドの旅から ー
第5信 他山の石
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私のブログ人生最後のテーマと大言壮語した「創造と進化」がしばらく置き去りになって、いささか焦っているが、この「友への手紙」の続きを待つ、と言う声も届いていて・・・。
さて、第5信はサイゴンを後にしてシンガポールに向かう船の中で、ベトナムの現実を見て感じたことを纏めたものだが、戦争のその後の展開を知らない時に書いた記述には、おのずから限界があった。その点だけは留意して以下をお読みください。
第5信 他山の石
K君、きみは確かベトナムのカトリックが多数派の仏教徒と争っている姿を見て、自分はそのような宗教抗争の一方の側に立つことには抵抗を感じる、と言っていたと思う。
ぼくはベトナムの街を歩き回りながら、きみのことを考えていた。確かに、戦争の一方の当事者として人殺しに加担しているようなキリスト教を、自分の信ずべき宗教として受け容れるわけにはいかないと言う気持ちは良く理解できる。だから、ベトナム戦争の現実を残念に思う。また、こんな現象的なことで躓いているきみを、宗教の奥深い本質を見ていないと責めるつもりもない。およそ躓きと言うものは、個人的なものにしろ、歴史的なそれにしろ、みんなそういった性質のものだから。
そこで、他山の石と言ってはいささか大げさかも知れないが、同じカトリックの片割われとして、この戦争から学んだことを通してぼく自身の生き方を正すことで、君を躓かせたことに対する謝罪にかえなければと思った。
インドシナ半島の国々は、もともと仏教の盛んな土地柄だったが、キリスト教の組織的宣教活動は、その国の植民地化とともに始まったと思われる。
ところが、ひとたびベトナムが植民地化されると、フランス語に秀で、ついでに英語もおぼえ、西欧風の習慣を身につけた人間が、植民地政府内で高位高職を占めるようになるのは、自然の成り行きだっただろう。そして、こうした趨勢を目ざとくとらえ、それにうまく適応していったのがカトリック教会によるミッション教育ではなかっただろうか。かく言うぼくも日本のミッションスクールの産物だ。
近代的魅力にあふれた教育にひかれて途上国のブルジョア層が子弟をその手の学校に送り込んでいった。ところが、ベトナムは回教圏でもヒンズー教の世界でもなく仏教の国であったから、エリートの青年たちの多くは、西欧の技術文明とともに宗教までも受け入れることに大きな抵抗を感じなかったに違いない。やがて彼らは社会的エリートとして、貧しい同胞たちを指導することになる。こうして、ベトナムにおけるキリスト教的ミッションは一見華やかな成功を収めたかに見受けられた。
では、ベトナムでの実際の結果はどうだっただろうか。要職の大部分は姻戚関係で占められ、賄賂が横行し、しかもその多くがカトリックや親カトリック的人物の仕業となって、多数を占める仏教徒農民との間に溝が生じて行った。
そして、この溝のこちら側では自分たちの特権を護り、さらに拡大するために、格差に目をそむけ、疎外された人々の叫びに耳を閉ざし、自分たちの生み出した矛盾に対する良心の呵責をごまかすために、場当たり的な慈善事業出お茶を濁す。西欧の民主主義に結ばれたカトリックの陣営だ。
それに対し、あちら側では、若い革命の闘士たちが、植民地支配からの解放と仏教と結ばれたマルクス主義革命による理想社会の実現を約束しながら、民族解放の戦いに邁進する。
この際、西欧の文明的価値をもたらしたキリスト教を、それに付帯した弊害の故に全否定しても問題の解決にはならない。べトコンの民族主義的な革命運動は、植民地政策に対する反発からか、愛国心をかき立てる理想を掲げながら、現段階では貧しさからは抜け出せず、飢えは続き、祖国統一を大儀とする戦いは泥沼化して出口が見えない。
南の政権内部でも、腐敗した指導部を倒しより矛盾の少ない指導者を立てるためのクーデターが、現実には、軍内部で頭角を現した若い将校が、成功すれば権力の座に着けるし、失敗しても、どさくさに紛れて財貨をかき集めて逃げ出せばいいと、いずれにしても損のない略奪行為を正当化する大義名分と化していた。国を愛してのことではないのだ。その間に、国力は衰え、民心は乱れ、ますます泥沼化が進んでいく。
立ち遅れた植民地からの解放と近代化は、過去の日本の「明治維新」などとは比較にならないほど難しい事業のように見受けられる。キリシタン弾圧と鎖国で植民地化を免れた日本の場合は稀有の成功例と見た方がいいのかもしれない。
いま、ベトナム戦争の背後にある東西の冷戦構造について話を広げるつもりはない。しかし、言えるのは、ベトナムにおける今日までのカトリック教会のありかたを全面的に肯定できないのはもちろんだが、革命を美化する政治運動も、そのまま賛成することはとても出来ないということだろう。
むしろ、ベトナムの現実に向き合う道はただ一つ、ぼくたち自身がキリスト教の原点に立ち返って、ベトナムの現状の矛盾や葛藤をぼくたち自身の生き方の中にも起こり得る問題として受け止め、彼らとともに苦悩することでなければならないと思う。
えらく話が抽象的になってしまったけれど、ぼくが今ここに出した一般論は、今の日本にもそのまま当てはまるように思う。
ベトナム問題と比べて、今の日本の問題は、もっと内側に鬱屈したものであり、形をとって表れにくいものであるために、それに対処するのがより困難であることかもしれない。さらに、日本の教会が歴史の流れの中で開花させうる花と、それが結びうる果実の豊かさを思うとき、自分たちの怠慢と罪のためにその可能性を現実化できなかった時の損失に対する責任がより深刻だと言う点を忘れてはならないと思う。
ぼくたちに与えられた可能性が大きければ大きいほど、暗闇の勢力の妬みも深く、そのやり口も巧妙になるに違いない。だから、ぼくたちもそれだけに注意深く、また、自己に対してより厳しくなければならないだろう。
具体的問題については、日本に帰ってからゆっくりと話し合うことにしよう。
学生会の皆さんによろしく。早く目的のインドからの第一報を書きたいと思っています。
なんと青臭い、気負った文章かと、今読み返して、恥ずかしくて穴があったら入りたい。しかし、これが今から55年前、25才の大学院生の正味の姿だったのだ。
今、私たちはベトナム戦争がどのような結末を迎えたかを知っている。しかし、この便りを書いていた私と、当時の世界はまだそれを想像することも出来なかった。
私が訪れたころ、ベトナムとアメリカは互いに憎しみ会い、殺し合っていた。それが今では、片や資本主義の大国、片や共産党一党独裁制の小国でありながら、経済的だけでなく軍事面でも友好関係を結び、親密なパートナーになっている。トランプと習近平との厳しい対立とは対照的な関係だ。誰が、あの時、このような展開を予測し得ただろう。
あの頃の私は、自分がカトリック信者であることを過剰に意識し、カトリック教会の当時の姿に不満を抱き、教会の改革と刷新を求めてめくら滅法もがいていた。日本の社会が欲望の赴くままに経済的繁栄を追い求めている中で、それに引きずられて金銭崇拝と世俗主義の坂道を共に転落していく聖職者と信徒の姿を憂い、キリスト教の信仰だけが日本の社会を救えるかのような思い上がった錯覚に酔っていた自分がそこにいた。
あれから55年。今の私はどうだろうか。日本のカトリック教会は世間の風潮に対して何ら効果的抵抗を示すこともなく、ただひたすら押し流されて衰退の一途をたどっている。世界のカトリック教会は、直近の6代の教皇が一貫して第2バチカン公会議の改革を推進しようと強いイニシャティブを取っているにも拘らず、全体としては1965年に幕を閉じた公会議をいまだに受け止めかねているし、日本の教会に至っては、その改革の波はまだ届いてさえいない。
司祭になるためにローマに渡り、公会議の生きた成果を持ち帰って日本の教会の中に広めようと大志を抱いてはみたものの、帰国後のあらゆる試みは、公会議に背を向けた日本の教会指導部の厚い壁に阻まれて、一つ残らず失敗と挫折に終わってしまった。
いまは、日暮れて道遠しの感を深くする毎日だ。これも私の不徳の致すところ、私の罪の結果として、甘んじて受けなければならないのか。
このままでは日本のカトリック教会に未来はない。
しかし、起死回生の道がないわけではない!
次はシンガポールから