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私の「インドの旅」総集編 (7)遠藤批判
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(1)導入
(2)インカルチュレーションのイデオロギー
(3)自然宗教発生のメカニズム
(4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神
(5)「超自然宗教」の「自然宗教」化
(6)神々の凋落
a)自然宗教の凋落
b) キリスト教の凋落
c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体
(7)遠藤批判
(8)田川批判
(9)絵に描いた餅は食えない
(10)超自然宗教の復権
若き日の遠藤周作
(7)遠藤批判
去る11月6日と11日に
NHK心の時代 ~宗教・人生~
遠藤周作没後25年
遺作「深い河」をたどる(前編・後編)
という番組を私は見た。
遠藤周作というカトリック作家の没25周年記念にNHKが作成した番組である。
NHKは、放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設置された総務省所管の放送事業者で、実質的には日本の政権与党に忖度する国営放送局ということが出来るだろう。
今回の特集番組は、周到な構成と金のかかった映像の素晴らしいもので、さすがはNHKならではの出来映えであった。
若松英輔(批評家、随筆家)と山根道公(日本の近代文学研究者)の対談を軸に展開する番組は、対談場所として遠藤ゆかりの—そして、私にとっては学生時代の懐かしい日々の祈りの場であった—上智大学の古い木造洋館二階の和風チャペル「クルトゥールハイム」を使っている。
若松英輔 山根道公
もし、この番組に問題があるとすれば、それは、対談者の話が遠藤周作流のキリスト教理解、つまり、キリスト教の日本固有の精神文化・風土への土着化という特異な「イデオロギー」の全面的肯定と、キリスト教の本来の教えを知らない日本の一般市民に、「キリスト教とは遠藤が小説の中で展開したような世界なのだ」、という偏見を植え付けてしまう危険性だと言えよう。
天下の公器であるNHKがそういうキリスト教の正統信仰から遠く離れた解釈を敢えて取り上げるということは、結果的にキリスト教に対する誤った理解をNHKの暖簾の力で広く世に浸透させる効果を生むことになるのではないかと私は危惧する。
だから、誰かが「それは違うよ!」という批判的意見を述べて、カトリックの正統信仰は別のところにある、ということを世に知らしめなければならないと思った。
遠藤が時流に乗って「カトリック作家」として世の脚光を浴びたのは事実だが、彼が信仰の真面目さと伝統の重さに配慮することなく、自分の心の赴くままになんでも自由に書き放ったことや、カトリックの伝統神学の立場からも、まじめな聖書学や歴史研究の立場からもとても容認され得ないようなことを乱暴に書き連ねたことについては、厳しく批判され糺されなければならないだろう。
私はすでに、2021年7月17日の「田川建三の遠藤周作批判」というブログを書いている。ここでは、その記述を反芻し、要約しながら、あらためて問題点を明らかにしたいと思う。
田川建三
私より4才年上の田川建三は、東京大学宗教史学科から、同大学院博士課程3年目にストラスブール大学に留学し、そこで宗教学博士号を取得した碩学である。田川の遠藤批判は、私の厳しい遠藤評価に、論理的かつ聖書学的な裏付けを与えてくれて実に胸がすく思いがする。
田川は先ず、遠藤のイエス像を、「ずぶの素人がいわば出版資本の要請に応えて書き流したものに過ぎない」と切って捨てる。
そして、「それにしては既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまったし、そこに含まれた実に数多い欠陥は、それぞれ、イエス伝を描くという行為にまつわる諸問題を典型的に示しているので、取り上げて論じる意味は十分にあろうかとおもわれる。」と付け加えている。
私がNHKの先の「心の時代~宗教・人生~遠藤周作没後25年」の特別番組を見て危惧するところは、まさに田川が言うように、「既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまっている」点に関わっている。
つまり、NHKが遠藤周作の描くキリスト教観を肯定し、礼賛する2名を対談者として選ぶことによって、遠藤の実に欠陥の多いイメージをNHKの権威を持って肯定し、さらに広く喧伝する結果を招いているということだ。
日本のカトリックの教会は、ここに重大な問題が潜んでいることを指摘し、正統なキリスト教の教えを擁護し主張しなければならない立場にありながら、現実には、教会の指導部自体が既に遠藤流のキリスト教観に深刻に汚染されていて、NHKの果している役割の危険性を指摘し正統信仰を擁護する機能がすっかり麻痺しているのではないかと危惧される。
田川は聖書学者の緻密な分析に基づいて、私の力ではとてもなし得ないほど深く、適格に、遠藤の作品の問題点を指摘しているので、田川による遠藤批判をもう少し辿ってみよう。
田川は「作家が良く知らないことに関して知ったような顔をして口を出し、しかも、作家の書くことが不当に多く評価されすぎる今の日本においては、作家の書きなぐる無責任な著述が人々の『知識』の内容を形作ってしまう、という世相に対して、一つの警鐘をならしておく必要があろうかと思われ。」(P.171)(注)と指摘する。
さらに、「実際『イエスの生涯』は駄作である。『キリストの誕生』には例の遠藤周作特有の甘ったるい『弱者の論理』があちらこちらの頁に散りばめられている。(P.172)」と続く。そして、
(人は)イエス像を描くときには、自分の期待する理想的な人間像を思い入れたり、無自覚のうちに自分の未熟な思いをそのまま投影してしまう。それは、自分の現在のあり様を何らかの意味で肯定してくれる権威で、直接的にお前はそのままでいいのだぞ、と肯定してくれる場合もあるし、お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、「だめ」な自分は「だめ」なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない。(内容のない自己卑下は、一般に日本人がやたらと好む奇妙な道徳である)。しかも、「自分はだめだ」と言い立てることによって、その「だめな自分」を肯定することができるのだから、二重の自己満悦に耽ることができる。遠藤の「弱者の論理」は、世のなかにはそういう自己満足に耽りたがる人間が大勢いるから、その分だけよく売れることになる。(P.274)
「イエスの生涯」は歴史記述の力量がまるでないのに歴史記述に手を出したから、イデオロギーのみがむき出しに露出してしまった。しかし、遠藤はイデオロギーで勝負できるような著者ではない。遠藤周作はただ彼のセンチメンタルな「負け犬」の信条に原始キリスト教の歴史を引き付けて「解釈」することができればそれでよかった。「犬のように」、「弱さ」「惨めさ」「ふかい自己嫌悪」、「生涯は無意味」、「恥ずかしさに震えんばかり」――遠藤ブシの得意の語り口である。 (「キリストの生涯」P. 27)
「普通、人は自己嫌悪していることにはふれたがらない。ところが、遠藤の書くものを読んでいると、『弱さ』『惨めさ』『空しさ』の『自己嫌悪』がやたらと大量にどの頁にも出てくる。こんなに嬉しそうに自慢げに語られる自己嫌悪が自己嫌悪であるはずがない。弟子たちは『イエスの受難の意味、その惨めな死の謎を解き明かそうと、もがき苦しんだ』あげく、イエスの死の意味付けに到達した」と言うのが遠藤の結論であるが、これも田川には「絵空事に思える」。 しかし、「遠藤ブシが歴史記述に支えられない間違いだらけであることを知らずにこの本を通俗本として読めば、(人は)遠藤ブシまでも歴史記述の一環なのではないかと思い違いしてしまう。」(P.198)
遠藤は自分の遠藤ブシを学問的スタイルと歴史記述の体裁で展開し、「お前の『弱さ』はそのままでいいのだと現実における居直りをすすめてくれる宗教的愛の場を説く。そこには現代日本人の生活の、ゆがんではいるが執拗な、現実に居直りたい日本人の心に共鳴する心地よい響きがある。それは、ゆがんだ社会の現実に何の変更も加えさすまいとする現実の力にとって、大いに役立つ。」(P.201)
「遠藤は、いかにも歴史的知識があるかの如くに学問的スタイルで、断言的に正反対の間違いを言い張って、知られている事実を捻じ曲げてまで作り話をする。それを、歴史記述のスタイル、しかも断定的な文体で書いている。知らないくせに、よく調べて知っているかの如き文体で書くのは正しくない。」(P.202)
「遠藤は福音書の文章を自分の気に入ったものだけは無批判にそのまま歴史の事実とみなして引用する。しかし遠藤は、福音書の引用であると言いながら、全然正反対の意味に内容を変えたりする。これは、他人の文章に言及する著者の最小限のモラルに違反している。著作権によって保護されている現代の同業者であろうと、福音書の著者であろうと、同じことなのだ。」(P.206-7)
「何故遠藤がおよそ初歩的な文章の読み違いをやらかしたかというと、そもそも文章に書いてあることを読もうとしなかったからである。この著作の全体がほとんど読まずに読んだふりをしている思い入れ、に満ちているのだ。」(P.207)
田川は続いてもう一つだけ、いかに遠藤が福音書の記述を平気で作り変えるか、という実例を挙げる。それはこう始まる。「『エマオの旅人』という話がある。レンブラントが絵にしたので、キリスト教徒でない日本の読者にもよく知られていよう。」(中略)「遠藤はこれをそのまま歴史的事実とみなす。ところが遠藤は素朴に史実として信じているかの如きスタイルで書きながら、肝心なところで、ルカ福音書のテクストとはおよそ異なる我田引水をやらかしている。」(P.210)「この話のどこにも、二人の弟子が『イエスを裏切り、自責の念と絶望とに苦しんでいた』(『生涯』P.39)などと言うことは書いていない。」(P.210)
長い記述を要約すると、福音書によれば、「義人イエスをユダヤ教当局(とローマの官憲)が死刑に処した」のに、遠藤の描く弟子たちにとっては、イエスの十字架とは、「自分たちがイエスを裏切った『卑劣な』事件、ひたすら自責の念に駆れるばかりの事件」であり、「イエスの直弟子がイエスを殺したかのごとくである。」それはまさに、「事柄の責任者を追及することなく、一億総ざんげ的に自責の念に駆られる、まさに日本体制多数派の心情である。だからイエスの復活とは、お前たちは『卑劣』であっても赦してやるよ、というおなじみの遠藤ブシの宣言に収斂されてしまう。」それは「自分たちの卑劣な裏切りに(イエスが)怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応える」(P.248)ことなのだそうだ。一億総懺悔は、責任の所在をあいまいにし、そして、懺悔したものがみな赦されて、元のもくあみに終わる。遠藤の「弱者の論理」は一見、弱い人間のための思想のようでありながら、実は日本ファシズムの体質を戦後にもそのまま保存した日本国民の思想体質が、そのままイエス記述に名を借りて表現されているのである。」(P.211)
ルカの福音書のキリストは「苦難を受けたのち、栄光にはいる」が、それは決して遠藤の言う如く、イエスが永遠の「同伴者」としていつでも自分達の「卑劣さ」を「いいよ、いいよ」と言って赦してくれる、などというけち臭いことではない。近代日本人文学者好みの、ただじめじめと、「自分の卑劣さに対する自責の念」などにとじこもるのとわけが違う(本当は自責の念ではなく、それでいいのだよと自ら赦す居直りの念なのだが)。(P.212)
しかし、「全体としてマルコの描くイエスは、生き生きと自信に満ちて活動する一人の人間の姿であり、じめじめと『無力』に居直って、無力こそ本物の『愛』だ、などとうそぶく退廃した人間の姿ではない」。(P.220)
田川は「これだけ正反対の像を提供しつつ、しかもそれを福音書を資料とした歴史記述であるかの如きスタイルで書くのは詐欺である。」と言い切っている。(P.220)
残る問題は、どうして遠藤のこういう『愛の無力さ』のイデオロギーが現代日本では俗受けするか、ということである。こういう退廃した思想がはやるのは、現代日本の大衆社会の病的状態の一つの兆候であろう。
どこが間違っているかというと、我々の毎日の生活も、一つ間違えば病気や飢えの危機に転落しかねないこと(コロナ騒ぎを観よ!)、また、我々の毎日の平穏な生活が、地球の半分の人々に常に病気と飢えの中に生きることを強いる抑圧の構造に支えられているという現実を捉えることができなくなっているということだ。食って寝る生活はけち臭い目先の『現実』として抽象化され、それとは別に『精神的』な側面が意味ありげに尊重される。そこに現代の日本人の精神生活の歪んだ病的な状態がある。そして、この状態は広く蔓延しているので、誰も自分は歪んで病的だとは思わない。こういう病的な精神状態にうまく乗って俗受けしたのが遠藤周作の『弱者の論理』なのだ。」(P.224)
要約すると、[遠藤の書いていることは福音書の記述そのものとも、またその背景にある歴史的事実ともおよそ合致しない、しばしば正反対の無茶苦茶] (P.224)だということになる。
田川は遠藤の「イエスの生涯」と、「キリストの誕生」を中心に遠藤批判を展開している。田川が「宗教とは何か」で上の遠藤周作批判を書いたときには、遠藤の最期の長編小説とされる「深い河」はまだ出版されていなかった。
田川がもし「深い河」を読んだ上で遠藤批判を書いていたら、それはもっと辛辣なものになっていたであろう。私はそれを読んだし、その映画も見たが、それは、遠藤が半ば燃え尽きて小説家としての力量も二流、三流作家のレベルに落ちてしまったか、と目を疑う駄作になっている。遠藤の中に未消化のまま残っていた幾つかの素材の脈絡のない陳列と、カトリック作家の知名度にものを言わせて、キリスト教の中に何とか「輪廻転生」の概念をどさくさに紛れて強引に持ち込もうとした意味不明の駄作であると言って切って捨てれば足りるだろう。自然宗教の「輪廻」と、キリスト教の「復活」という超自然宗教に固有な概念とは、遠藤が釈迦力に頑張ってもどうにもならない対立概念なのだ。
遠藤は少年時代にたまたまカトリックの洗礼を受けたことを売りにして、文壇に「カトリック流行作家」として躍り出たが、死ぬまでイエスが誰であったか、イエスの死と復活の本当の意味が何であったかを深く理解することなく逝ったことを明白に告白した確かな証拠として「深い河」を残して死んで行ったといえば、実態を正確にとらえたことになるだろう。
これで、長かった私の「インドの旅」シリーズも、ようやく終わりを迎えられる目途が立ったのではないかと思う。
今年も「万物の贖い主」イエス・キリストの 降誕祭 が近づいた。
しかし、銀座のクラブのママは、クリスマスは赤頭巾に白髭のサンタクロースを祝う稼ぎ時のお祭りだと信じているように、遠藤の描くキリスト教は女々しい転びや棄教を礼賛する典型的自然宗教の一つとして日本人に刷り込まれた思想であり、「沈黙」がスコセージ監督のハリウッド版になって世界中を駆け巡ると、ローマの進歩派の神父たちやカトリックインテリたちに、斬新なキリスト教解釈としてもてはやされる危険な効果を遺憾なく発揮している。世俗主義はキリスト教の多くの祝日を商業主義のチャンスに転嫁していくが、さすがにキリスト教最大の祭りである 復活祭 にだけは手が付けられないでいるらしい。それは、キリストの「死者の中からの復活」の教えだけは、何とこじつけようとも、自然宗教化を寄せ付けない「超自然宗教」の本質部分が硬く露出した史実だからに違いない。
(注)(P.○○)は田川建三著「宗教とは何か」の引用ページを指す。
文中の文字の色分けは、筆者(私)のランダムなアクセント付けです。
(つづく)
返信をありがとうございます。
人とその人のこと(事・言)が尊いということから引用はできるだけ正確にしようと思うようになりました。押田成人神父さまのことに触れて、そのように思うようになったと思います。
「岩下神父の生涯 小林 珍雄(先生)著 大空社(昭和六十三年)」(中央出版社から昭和三十六年に発行されたものの復刻本)を少し読みました。その中にある、パリ・ルーヴァン・ロンドン・ローマ、の、ベルギーにて、に、「・・・。
要するに当時から神は岩下師にとって、もう単なる哲学者の神ではなく、活ける神、ことに罪をにくみ之を罰する義の神、怒りの神として師に影響していたのであるが、マテオ神父に会った頃から、愛の神、全慈の神の姿をありありととってきたことがわかるのである。」、とあります。cf. p. 104. このことから、「オンライン伝道会『活ける神』19 新しい契約 話し手 大阪ハリストス正教会 長司祭 ゲオルギイ 松島 雄一」のことばを思い起こしました。これまで聞き流してきた前半のことばが大変重いことだと感じます。岩下神父さまは、「導かれるまゝに」、に、次のように書いておられるそうです。
「『その時霊父は半ば私の方に向き直って、自分がこれから説教するのは、何も新しいことではない。神様が私たちを ー あなたも私もお互同志、一切の罪悪とみじめさをこめて ー まづ愛して下さった。自ら人間となって十字架の死に至るまで愛してくださった。だから私達は一切を措いて、その愛にむくいねばならぬ、またむくいずにはおられぬ。たゞそれだけである。詮ずるところこれがキリスト教で、これ以外には何もないのである・・・』・・・」。
「導かれるまゝに」は、「声・五三三、五三五号(大正九年)に掲載されたそうです。岩下神父さまは誤解されているようにますます感じるようになりました。また、稲垣先生は、トマス・アクィナスは誤解されているように思う、と仰っておられます。cf. 「稲垣良典(先生)トマス・アクィナスに学ぶ 制作 一般財団法人森永エンゼル財団 撮影協力 カトリック福岡黙想の家」
神様は「産めよ、増えよ、地に身てよ!」と言われますが、悪魔は、平凡なサラリーマンは、生涯に5億円稼ぐが、一人の子供を大学まで行かせるためには、2000万円かかるとか、3000蔓延かかるとか言います。それを聞いて、人は、子供は一人か二人しか育てられないと計算します。その結果、日本の女性は生涯に平均1.2人しか子供を産みません。東京都ではその数は1を割り込んでいます。
子宝を拒み、欲しいだけ子供を「つくる」という計算は悪魔から来ます。
返信をありがとうございます。わたしは数学の研究をしてきましたので、原典を読むということにそれほど抵抗がないのかもしれません(大変しんどいことですが)。それから、神父さまが上にあげられた方々とは自然に出会ったように感じます。岩下神父さまの「カトリックの信仰」が筑摩書房から復刊されたときに、サンパウロ書店で手に取って少し眺めましたが、どうせ読んでもわからないだろう、と思ってもとに戻しました。押田神父さまの「漁師の告白」も初めて手にしたときには、よくわからず、わたしの眺め方が逆だったことに気がつかされるまでに少なくとも数年間はかかったと思います。神父さまのこのブログに対してもその中心にあることの大切さに気がついたのは比較的最近です。そのことと神父さまが大変な目にあったことには深いかかわりがあることも今は少しはわかるような気がします。日本語の子宝に恵まれる、ということばは以前はよく聞きましたが、最近は子供を作る、というような大変思いあがった言葉も普通に使われているように思います。数年前にようやく気がつかされたことですが、人は人の力だけでは何一つ作れないはずです。食べ物でも、光、土、土の中の生き物、雨水、雲、風等、人は何一つ作れず、すべて向こうから頂いているはずです。社会学において人口の推移をもとにして何らかの結論を導くということが行われているようですが、人が人口を人の都合に合わせて制御できるという考えは思い上がりのような気がします。「自然」ということばは大変重いように感じます。
私はとても雑な人間なので、原典にわたって深く読み込む地道な探求の力も忍耐も持ちませんが、戦争責任の問題には深い関心があります。
わたし(新米信徒)は、13/04/2023 に 1970 年の大阪万博について遠藤周作氏とのつながりで、コメントを書かせていただきましたが、「カトリック教会の戦争責任 西山俊彦(神父さま) サンパウロ (2000) 」
の、10 教会が謝罪するための要件は?、の、一、「戦争責任」を結果する世俗的体制への埋没、の、(2) 資本主義体制への埋没、に、「教会は『共産主義の撲滅』には鋭意励んできました。それは『無神論』であり、『神を冒涜するもの』という理由からですが、その理由が正当だったかどうか、また、共産主義が歓迎されたのは教会が社会正義に十分努力してこなかった
からではなかったか、などの問題はさておき、それでは『資本主義の悪弊』に対して、少なくとも『共産主義の排撃』同様の熱意をもって糾弾してきたかとなると、答えは明らかに否となります。・・・」、とあります。cf. pp. 163-164. 神父さまと出会った頃に、"mammōna" の恐ろしさについて教えていただいたことが思い出されます。この書の、7, 8, 9 は、ローマ教皇庁の「満州帝国承認」に関することですが、そこでたびたび、「田口芳五郎(枢機卿さま)『満州帝国とカトリック教会』(カトリック中央出版部、一九三五年)」が引用されています。例えば、「『カトリック的国際法は、どこまでも自然法的国際法である。こうした根本精神によって、ローマ教皇庁は上述せる如く事実上満州国を承認した。』・・・(26 ページ)」
、と引用されています。cf. p. 121. しかしながら、承認についての異論が、ある宣教会関係者から西山神父さまに寄せられたそうです。cf. pp. 181-182. 田口枢機卿さまのことは、「★ 泰阜村「カルメル会修道院」縁起 (そのー3)2024-01-03 00:00:01 | 私的なブログ」 にあることを覚えています。一年程前に、プロテスタント教会との関りから、偶然、1970 年の大阪万博のキリスト教館の制作責任者の一人が遠藤周作氏であること、また万博へのキリスト教館の出展を巡り、日本キリスト教団内で流血を伴う内部抗争が起こったことを知りました。さらに、万博会期末直前に、ロックマン財団の支援を受けて出版された「新改訳聖書」は、その出版の数年後に、ロックマン財団と著作権についての争いを生んだことも知りました。また、ハンセン病のことから岩下壮一神父さまと出会い、ローマ教皇庁の満州国の承認のことを知りました。さらに、岩下神父さまは北支に視察に赴かれ(私人として、だそうですが)、そこで病を得、神山復生(こうやまふくせい)病院へ帰られた後、永眠されたことを知りました。どろどろとした多くのことに短期間に出会いました。このようなことを書かせていただいたことは、以前に引用いたしました 「稲垣良典(先生)トマス・アクィナスに学ぶ 制作 一般財団法人森永エンゼル財団 撮影協力 カトリック福岡黙想の家」において稲垣先生がはなされたことと「カトリックの信仰 岩下壮一(神父さま) ちくま学芸文庫(2015)」の、解説 稲垣良典(先生)、II 岩下壮一の思想 (I) 哲学思想、に引用され、解説されている「自然的秩序と超自然的秩序」(「中世哲学思想史研究」岩波書店、一九四二年、四〇九ー四三八頁。」が思い起こされたからです。
「カリストス・ウェア主教 論集 1 カリストス・ウェア主教 『私たちはどのように救われるのか』・・・正教の伝統における『救い』の理解 翻訳 司祭 ゲオルギイ 松島雄一 日本ハリストス正教会 西日本主教教区 (2003)」の、救いと社会、に、「・・・。正教はその真髄を最も発揮する時には常に、搾取される者たち、苦しむ者たちに創造的な共感を示してきました。しかしあまりにもしばしば、この共感は極端に個人的な形のものでした。
実際に抑圧される者の個人的苦痛を和らげることには努力を惜しまない一方で、正教は通常この抑圧を生む不正な社会構造を変えることにはほとんど関心を示しませんでした。飢えた者にパンを施すことはしても、どうして彼らはパンを手に入れられないのかと問うことを怠ってきました。・・・。
正教会はこの類の過ちに赦しを乞わねばなりません。」 cf. p. 40. 神父さまがよく知っておられる共同体は ecclēsia のありかたの多様性を表しているように感じます。日本正教会の site にある、正教会聖歌、祈祷文(歌詞)の 3. 大連祷、に、
「輔:我が国の天皇および国を司る者の為に主に祈らん。
詠:主憐れめよ。」
とあります。初めて聖体礼儀を視聴して以来心に残る祈祷です。「教会の祈り」の共同祈願にも類似の祈願はしばしばあります。岩下神父さまの著書「信仰の遺産」から教えられることは多いように感じます。
「★ 私の「インドの旅」総集編(7)遠藤批判
2021-12-11 00:00:01 | ★ インドの旅から」に、コメント (19/08/2023) を書かせていただきました。"Ego sum" にかかわることを書いています。 今度は、イエス様が水の上を歩くところを読みました。Mt 14:27 の訳は、
ラゲ訳 (1910年版)
「イエズス直に言(ことば)を出(いだ)して、頼もしかれ、我なるぞ、怖るること勿れ、と曰ひしかば、 」
日本正敎會翻譯 我主イイスス ハリストスノ新約 一千九百一年 東京 正敎會本會印行 (オフセット再版 二〇一四年) マトフェイニ因ル聖福音
「然(シカ)レドモイイスス直チニ彼等ニ語リテ曰(イ)ヘリ、心ヲ安(ヤス)ンゼヨ、
是(コ)レ我ナリ、懼(オソ)ルル勿(ナカ)レ。」
(この訳文のイイススの右に傍線があります)
Nova Vulgata
"Statimque Iesus locutus est eis dicens: “ Habete fiduciam, ego sum; nolite timere! ”. "
イエス様のことばの部分をおきかえてみました。信を成せ、あ(吾)ぞ;あや(怪)しかることと思ふな!
fīdūcia は、子供のように信じることが強いように感じました。
timeō は、闇に関わっている可能性があるようです。フランス語であれば、ténèbre に. いろいろおきかえてみた後、「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教 イラリオン・アルフェエフ [著] 修道司祭ニコライ 小野成信 [訳] 教友社(2021)」 の、水上を歩く(復活祭期第二週間の土曜日、イオアン 6 章 14-27 節)を読みました。そして、Mt 14 章全体を読み、あらためておきかえてみました。nōlō には passive はないようで、自由意志の強さを感じます。間違いを多く含んでいるでしょうが、わたしにとって何を意味するのか、と問うた際の、わたしの信仰の弱さがはっきりとあらわれているようです。イエス様のわたしへの有り難いことばでもあります。まず、(神の存在を)信じなければならない、という岩下神父様のことばにも、またキコ先生の証言にも結びついているように思います。
「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教 イラリオン・アルフェエフ [著] 修道司祭 ニコライ小野成信 [訳] 教友社(2021)」 の、聖枝週間の学び、の、イイススの叫び(マトフェイ 27 章 45-50 節)に、次のようにあります。
「・・・。十字架に釘打たれたイイススは、自らの父に、かって預言者・聖詠者ダワィドの口から歌われた、絶望的な叫びを送っています。この叫びの中に、究極の苛烈さによって、神に見捨てられたという気持ちから起こる、人の痛みが表れているのです。神の沈黙、神がいないように見えてしまうことは、人が受けるかもしれない試練の中で最も厳しいものです。このような状態にあって、人は生きる意思をまったく失ってしまいます。生きる意思こそが、身体的・精神的痛みを克服するのを助けてくれるのです。
この神の沈黙を、どのように説明したらよいのでしょうか。
・・・。
神として、イイススは常に、自らの父と共にあります。人としても、彼は神・父と分かれず、一致しています。しかし、イイススは、苦難の杯を自由意志で自ら受け、これを杯の底まで飲み干さなければないないのです。そして、人の苦難の底とはすなわち、神に見捨てられることなのです。・・・」 cf. p.120.
ミサに与ることについて教えらたように感じます。また、Nova Vulgata ではしばしば passive による表現が用いられています。わたしは長い間、文の表現としての active と passive を対比させて見ていました。しかし、上のことばに出会って、人に対しては、本当は active と passive は不可分であるように
感じました。キコ先生の「覚え書き」のことばに触れたことも大きいと思います。信仰と行いは分けることができない、ということも思い起こされます。正教会の松島司祭に教えていただきました。cf. 「オンライン伝道会『活ける神』19 新しい契約」(YouTube に upload されています)。
10/03/2024 のコメントに引用いたしました麻意さんの本に、
「ママ、神様はなぜ麻意を病気にしたんだろうね。ずっと昔、イエス様が人間の所にいたころに生まれていればよかったな。そしたら、イエス様にさわってもらって、病気がなおったの
にね」、とあります。cf. p. 192. 幼い方は真っ直ぐでこたえました。また泣きました。理屈はふっとぶように感じます。
府主教 イラリオン・アルフェエフによる上記の本のことばに触れると、いつも、理屈を押し付けられるのではなく、問いかけられているように感じて、不思議な気がします。
以前に、「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋 171 アントニー・M・コニアリス [著] 松島雄一 [訳] Finding God in time of Sorrow and Despair By Fr. Anthony M. Coniaris ヨベル YOBEL, Inc. (2017)」、に出会いました。時々、元気なときに読んでいましたが、寝込んだときにまた読んでみて、不思議な本だと感じました。多くの処方箋のことばは、それほど長くはありませんが、流れがあるように感じます(まだ一部しか読んでいませんが)。
「108 聖人たちだって落ちこみは免れない」、に、ダビデ王の落ちこみと詩篇のことがあり、また詩篇 42 のいくつかの節が引用されています。詩篇のこと、とくに詩篇 42 はその他の処方箋にもよく引用されています。「133 放棄」には、結核で長期間苦しんだ時の作家のキャサリン・マーシャルのことばがあります。
「・・・何もかも一切を受け取るほかないという点にまで来てしまった。『求めることにはもううんざり・・・』、その思いが重荷となって祈ろうとする私を押しつぶしました。『疲れ果てた、もうすっかり終わって
しまった。神さま、なさりたいままに、お決めください』。
涙が溢れ出た・・・。
・・・
『それはまるで天の窓を開くボタンを押してしまったかのようだった。天から力がまるで発電機から流れ出す電流のように、落ちてきた。・・・。二、三時間たつと、キリストが今ここに生きているという臨在感の
中で、主が私からあらゆる疑いをぬぐい去り、人生を革命的に
変えてしまったと感じた。その瞬間から私は回復し始めた』。」 cf. pp. 226-227. キコ先生のことを思い起こしました。また、詩編の息吹と似たものを感じます。
訳者前書きには、「本書の著者コニアリス神父(1926 年生まれ)は、ギリシャ正教会アメリカ大主教区の、名誉退職した (1993) した司祭です。・・・、人々の『悲嘆』(グリーフ)についての研究、著作、カウセリングなどによるサポートも、長年神父がたずさわった仕事でした。 」、とあります。また、
「・・・この書に限っては、正教を伝道しようなどとは少しも
意図していません。」、ともあります。cf. p. 3.
「51 私たちを通じて、神に赦してもらおう」には、小さな花のテレーズの、
「『主よ、私は自分ではこの姉妹を、あなたが愛するようには愛せません。でも、あなたなら、私の内で、また私を通じて彼女を愛せます』。」、という祈りとその祈りに対することばがあります。cf. 98.
訳者前書きには、少しづつあまり深刻になりすぎないようにして、読んでみてください、とい意味のことばがあります。わたしの感想ですが、それなりに落ち込んでいるときに読むと、立ち上がろう(支えていただこう)とする何かを受け取ることもあるように感じます。
上に引用させていただきました麻意さんの本に対するある方の review を読みました。その方も小児がんを発症し、無菌室のベッドの上で苦しみに耐えながら麻意さんの本を一ページずつ読み進めていったそうです。また、病気の「仲間」、「友」ということばを用いられています。最後に、「麻意ちゃん、ありがとう。」、とあります。押田成人神父様が仰る「ことことば」だと感じます。何かが全然違うと思います。いつもいつも長文をすみません。
「麻意(まい)ね、死ぬのがこわいの 死を問い生を見つめた少女 石黒美佐子 立風書房(1993)」 に、以前出会い、
少しずつ読んでいます。この本は、四歳のときに白血病を発症して幼くして帰天された娘さんのことをお母様が書かれたものです。長い間心の準備ができずに読むことができませんでした。
麻意さんは聖路加(るか)国際病院に転院され治療を受けられたそうです。麻意さんがいた個室は、お風呂を間にはさんで隣の個室とドアを開けて行き来することができたそうです。隣室の方は、二人部屋のとき、一緒の方だったそうです。
「二人は、たいていこのドアを開け放しておきました。開けておけば、二人とも自分のベッドから、おたがいの顔が見え、話しができるのです。そして、ベッドから下りては、おたがいの部屋を行ったり来たりしています。」 cf. p. 136.
このような部屋のつくりは研究の成果からきているのであろうか、と思いました。麻意さんは、この隣室の方から「アニメバイブル」を借りて読まれた
そうです。病院チャペルの先生(チャプレン)と話しをされ、チャペルのバルコニーに車椅子で行かれ、エリザベス・サンダース・ホーム創設者の沢田美喜女史の逝去記念式を見られたそうです(調べると、澤田となっていました)。その後に、「いえすさま の おはなし ぶん・いしもり のぶお え・やの しげこ 女子パウロ会(昭和 48 年)」 をさっそく売店で見つけて読まれたそうです。これまで幼い方が読む信仰の本のことを考えたことがなかったことを反省させられ、また、さし絵をかかれた矢野滋子さんが聖パウロ女子修道女会の修道女の方であることを最近知り、この本の古書を注文し、今日届きました。本文はすべてひらがなです。この古書には、二つの言葉が、より簡単な言葉に手書きで書き直されていました。
石森延男さんによるあとがきには、大変苦労して本の構成を
考えたとあります。ひとつだけ引用いたします。
「どうしてもイエスの復活を信じなければ、イエスを書くことは、もはや無意味にひとしくなると考えるからです。」 cf. p. 79. 本文には、「いきかえった」、とあります。シスター ピエランジェラ 矢野滋子 は、2018 年に帰天されたそうです。Laudate の「どうしてシスターに?」に、シスターの「宣言」ということについてのことばを読むことができます。扉絵は、子供たちに囲まれたイエス様の絵で何色も使われています。この本に出合えたことは、麻意さんのおかげです。麻意さんのことはつらいことですが、白血病治療の研究は進んでいっているようです。麻意さんはご家族とともに洗礼を受けられたそうです。お母さまは、麻意さんの看護のため教職を辞し、麻意さんの帰天後は、病児の教化指導にあたられている、と本にあります。
また、この一連の記事にある「御復活」のことに帰ってきました。神父様に出会えたことには大変感謝していますが、わたしの自由意志にもよっているはずです。
「正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方 主教カリストス・ウェア [著](大阪ハリストス正教会 長司祭 ゲオルギイ) 松島雄一 [訳] The Orthodox Way Bishop Kallistos Ware 新教出版社(2021)」の、第四章 人としての神、の、ハリストス復活、に、
「・・・。ここでも、正教はその意味を極限において理解する。私たちは聖使徒パウロの『もしハリストスがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい』(I コリント 15・14)という言葉を繰り返し宣言する。復活がペテンであったなら、私たちはどうやってクリスチャンであり続けられるだろうか。ハリストスを人となった神としてでなく、たんに預言者、教師、義人として考えることが不適当であるのと同様、主の復活を、ハリストスの 『霊(スピリット)』 が残された弟子たちの間に何らかの形で宿ったことと説明してしまうのも不十分だ。『真の神よりの真の神』ではない者は、また死と復活によって死を征服しなかった者は、私たちの救いと希望ではあり得ない。私たち正教徒は、ハリストスの人としての体が再びその人としての魂に結合され、空っぽの墓が残されたという意味で、真正なる死者よりの復活があったと信じる。・・・」 cf. 132.
訳者まえがきに、「その他、日本正教会訳ではプネウマ (spirit) は神゜(しん)、プシケー (soul) は霊(たましい)であるが、それぞれ霊(れい)と魂(たましい)と一般的な訳をあてた。」、とあります。cf. vii.
このことに類似していると思われることは、"CATECHISMUS CATHOLICAE ECCLESIAE" の
PARS PRIMA, SECTIO SECUNDA:, CAPUT SECUNDUM:, Articulus 5:, Paragraphus 2:, II. Resurrectio – Sanctissimae Trinitatis opus(御復活 ー 至聖三者の御業としての)650 に教父たちの眺め方としてあるようです。この注 579) (日本語訳は 注 577))には、教父ニッサの聖グレゴリオ (Sanctus Gregorius Nyssenus) 等の文献が挙げられています。Sanctissimae は、辞書によると最上級の形容詞のようですので
至聖としました。至聖で検索すると、日本正教会の訳がでてきましたので、上のようにおきかえてみました。カテキズムの日本語訳は、「聖三位」です。
「信仰の遺産 岩下壮一著 岩波文庫 (2015) 編者 吉満義彦先生」の、キリストを信じうるか、の、四、に、
「・・・。この熱情は彼等を駆って、カルヴァン (10) 的見解の誇張に陥らしめたのである。『一切に一切を働き給う神』という古き包括的なカトリック観念は、宗教改革者等によって『一切にひとり働き給う神』なる観念にまで枉曲された。一切に於いて働き給うのは神のみであって、神ならぬものの神との協力は愚か、合意さえ認められなくなった。神と神ならぬものとの質的差異は絶対且つ無限であって、『有の類似性 (11)』 (analogia entis) さえ否定される。神と人との間には何等相通ずるものは存在せぬ。従ってこの立論の形而上学的結論としては、当然『托身』 (incarnation) さえ否定されねばならぬのである。神にして人なるキリストと謂うが如きは本質的矛盾である。言は肉とは成り得ない。即ちキリスト教の自己否定である
神学である。・・・」 cf. p. 43.
(10) と (11) は、山本芳久先生による注解です。
最後に、「私にとって神とは 遠藤周作 光文社文庫 (1988)」 においてたびたび「理念」という言葉がでてきます。キリストの御復活は「イエスの理念」からきたそうです。cf. p. 86. また、見直すべき東方教会 (cf. pp. 125-127)、という項目がありますが、(遠藤氏が仰るところの)日本人の感覚に合ったキリスト教を打ち立てることへの一つの言い訳にとられても仕方がない文章だと感じます。また、ニケア公会議(第一全地公会)に対して誤認しておられるように思います。cf. p. 126. 自分にとって都合の良い様々な権威者
の「理念」には素直に従い、それらの理念を形だけ引用しておられるようです。この書の表題にある「私」の理念がこの書の中心にあるように見受けられます。
神父様がこのブログに書かれた「私の『インドの旅』 総集編 (7) 遠藤批判 (11/12/2021) 」
と「私の「インドの旅」総集編 (9)田川批判-1 (10/01/2022)」 の記事を読み返しました。
遠藤周作氏そして田川健三先生にとって、福音書の 「わたしはある・わたしである」はどうなっているのだろうかと思い、
Mt 14:24-33 を読みました。Nova Vulgata の訳では、
14:25 に "supra mare" (多くの訳は、湖の上を)があり、maria は mare の複数形であることを思い出しました。バルバロ神父の訳 (1980) は、「海の上を」。今、気がつきましたが、古語では、塩海(しほうみ)と水海(みづうみ)があります。ガリラヤ湖を、古くは海と言うこともあったようです。
14:26 に "“ Phantasma est ”, et prae timore clamaverunt. " とあり、14:27 に ", ego sum" とあり、14:33 に " “ Vere Filius Dei es! ”." とあります。"sum" が多いように感じます。 この "“ Vere Filius Dei es! ”." は、 聖マタイによる福音書では、初めて弟子達がイエス様のことを神の子である、と言う場面のように思います。無知故に、間違っているかもしれませんが。14:26 の恐れることを経て、14:33 に続くことは大切なこと(必然)であると感じます。わたしに強烈な衝動がおこったときは、初めに恐れを感じました。キコ氏は「たくさんの涙が流れた。」と書いています。「キコ・アルグエヨ著 ケリグマ 福音の告知 フリープレス (2013)」 p. 26 から引用。
Mt 28:8 に "cum timore et magno gaudio" とあり、"timore" があります。
Mt 28:17 には "et videntes eum adoraverunt;" とあります。
adoraverunt に相当することばの訳は、例えば、Douay-Rheims は "adored", Knox Bible は "fell down to worship" , KJV は "worshipped". バルバロ神父様による訳 (1980) と新共同訳聖書 (1987) は、「ひれ伏した」、ラゲ訳 (1910) は、「禮拝(れいはい)せり」。これらの訳からは畏れることを感じます。水海の上を歩く場面も、最後のイエス様との再会の場面も言葉で表現できることを越えているように感じます。
上記の「田川批判」にある田川先生の「人は何のためにいきるか」、という問いについてですが、わたし(新米信徒)がこのブログに書いたコメント (12/08/2023) で引用した「1リットルの涙 難病と闘い続ける少女 亜也の日記 木藤亜也(さん)エフエー出版(1986)」に、 「20 歳ー病気に負けない」の p. 194 に、本人の手書きで 「わたしは何のために生きているの」 があります。そして、「後十年したら・・・、考えるのがとてもこわい。でも今を懸命に生きるしかないのだ。生きていくことだけで、精いっぱいのわたし。」、とあります。
亜也さんと聖書の出会いは、16 歳のときのようで、上記の本の 「16 歳ー苦悩の始まり」の p. 78 に、「聖書を読んだ。イエスさまの御言葉(おことば)を感情的に受け止めると・・・冷静に考えると・・・(ごめんなさい、神さま。わたしは信仰がありません。敬虔なクリスチャンになることは、甚だ難しい)。
そうです。足を地面につけて冷静に、理性的に考えてみます。」、とあります。
東日本大震災が起こった際に、ベネディクト 16 世が被災した少女から受けた問いかけに、神様の実在と神様の愛を前提として、わかりません、と答えておられたと思います。この「わからない」、ということは、すべての人の救いにもかかわっていて、神様への畏れにもつながってるように感じます。おろかものの感想です。また長文をすみません。
わたし(新米信徒)が、19/04/2023 に、上のコメントに「日本万国博覧会 (1970)」について少し書きました。そして、神父様から 20/04/2023 に、
「・・・。教会と戦争の関係とは?教会の戦争加担責任のことでしょうか?カトリックはちゃんと司教団の公式声明として戦績告白をしていないとか?」
をいただきました。この返事は心に残っています。
「教会法」について少し調べていて、全くの偶然ですが、「満州国」の Vatican による承認について初めて知りました。私の無知、無関心がゆえ、これまで知りませんでした。そして、
「国立公文館 アジア歴史資料センター」の、『アジ歴ニューズレター 第29号 2019年6月28日発行』にある、『2.今日の資料-「満洲国」をめぐる国際関係―満洲国承認問題と外国公館の設置 <アジア歴史資料センター研究員 大野太幹>』」に偶然出会いました。
そこには、(大日本帝国が)「最初に満洲国を承認しました。その後、国際連盟総会で満洲国の正当性が否定された後、最初に満洲国を承認したと考えられているのはバチカン(ローマ教皇庁)です。バチカンは1934年2月20日に吉林駐在司教ガスペーを満洲国におけるローマ教皇庁代表に任命し、その旨を1934年4月18日にガスペーより外交部大臣・謝介石宛の書簡によって伝えました (※注1) 。【画像①】 」、とあります。
全くの偶然ですが、岩下壮一神父様に関わる本を最近少し読んでいたので、「人間の分際 神父・岩下壮一(様)小坂井 澄 聖母の騎士社 (1996)」の第 12 章「最後の旅」のことが浮かびました。もう一度読み返すと、「東京大司教土井辰雄から、神父岩下壮一が北支(中国北部)教会事情視察打診を受けたのは、昭和十五年八月である。」、「しかし、壮一は辞退を表明した。『わたしの任ではありません』というのだ。・・・。壮一に翻意をうながそうとした興亜院の係官あての返書で、壮一が明らかにしたのは、公の教会代表という立場をとりたくないこと、これに伴い、教会なり興亜院なりに費用を負担してもらいたくないことであった。・・・」結局、この形で岩下神父様は、視察任務を受諾されたようです。
話が長くなりましたが、今の日本の司教団の公式声明において「満州国」の承認問題は含まれているのかどうか、いずれ時間ができたら調べてみようと思います。いつも長文をすみません。
返信をありがとうございます。
参考になりました。
わたしがドイツで与った礼拝は、どちらかというと静的であったように記憶しています。ただし、オルガンの演奏は、迫力がありました。牧師先生は、女性の方で、黒いガウンのようなものを着ておられたように思います。わたしに、話しかけてこられましたが、聖書 (Luthertext) を買うことができることを告げた後、すぐに、さっそうと教会の外にある階段を下りて行かれたと記憶しています。カトリック教会と併せて、信徒(信者)の方からはだれからも声をかけられませんでした。むしろ、プロテスタント教会では、教会の外の広場で、わたしの方から声をかけて、若い人(30代以下ぐらい)は来ないのですか、と聞いたぐらいです。そうです、という返事をいただき、何か話しました。カトリック教会の朝のミサの信徒は、全員女性でした。一人を除いて、年配の方々だったように思います。一人だけ若い方が毎日来ておられ、わたしが暫く通った後に、わたしに微笑んでくださり、その後、自転車に乗って行かれました。手をつないだ集いには、若い人がある程度いたように思います。何の集いだったのか?
踊りについてですが、YouTube で見ることができる "Dzodze" のアフリカの伝統的なミサは、踊りと一体という感じで、生命の躍動に圧倒されます。また、YouTube にある "Holy Mass in the Zaire Rite, with Pope Francis on the 1st Sunday of Advent 1 December 2019 HD" を見ると、喜びということを感じ、また Roma の Mass と調和しているように感じます。以前見たときは、圧倒されました。
ベラカについては調べてみます。
「刈り入れは多いが、働く人は少ない」は重いことばです。幸田司教様は、FEBC のある番組で、柵に囲まれた牧場の羊のような考え方に疑問を呈しておられたと思います。最近調べましたが、家畜化される前の羊の原種は、精悍な感じで、別物だと思います。神様の前では、牧場の今の羊かもしれませんが、世の中では、羊の原種たれと、勝手に思っています。
「教会」を「協会」と変換間違いを見落としました。
お許しください。
私の経験でもドイツでは教会の建物の外見だけからはカトリックの教会かプロテスタントの教会かの区別はつきにくいです。特に古い建物はいずれも同じゴシックの建物です。
プロテスタントの協会では主の祈りの時に両隣の人と手をつなぐことが多いように思いました。カトリックでは各人が両手を開いて天を仰いで唱えるものだと思っています。
ミサ後の祭壇の周りで踊るのはカトリック教会では新求道共同体(Neokathecumenal)だけではないでしょうか。これは、ユダヤ用のベラカに倣ったものだと思います。プロテスタントの協会でどうしているか知りません。
FEBCの存在は知りませんでした。ネットでちょっと検索しての印象は、真面目な取り組みのようですね。「刈り入れは多いが、働く人は少ない」は特に今の時代に当てはまるように思います。
ドイツでのことをもう少し書くことをお許しください。仕事場と滞在先のアパートを、大きな美しい公園を歩いて通っていました。あるとき、仕事場から帰っている時に、パイプオルガンのような音が聞こえてきたので、その方向に進むと、古い教会(プロテスタントの)があり、その中からオルガンの音が聞こえてきました。ドアは開きませんでした。翌日に、また、行ってみると、今度はドアが開いていて、シスターと思われる方々がおられたので、尋ねると、パイプオルガンによる演奏会が夜あるとのことで、演奏会に行きました。今見ると、教会の中は、素人目には、カトリック教会の聖堂に近いように見えます。その一方で、ある朝のミサに与った後に、司祭の方から、近くの大聖堂で何か(よくわかりません。9 時か 10 時頃だったと思います)があるので、そのことに誘われて、行きました。最後に、輪になって手をつないだことは覚えています。何も知らない者が向こうにいれば、このような交錯を経験するのでしょうか。
次の論文に出会いました。
「戦後ドイツにおけるプロテスタント教会とユダヤ教の対話
―ヴッパータールの事例から―
著者 加納 和寛
雑誌名 一神教世界.
巻 5. ページ 49-68.
発行年 2014-03-31.
権利 同志社大学一神教学際研究センター(CISMOR) 」
わたしは、全く理解できていませんが、歴史を刻んだゲマルケ教会(ラインラント州教会所属)では、今、不思議な形で、いくつかの派のプロテスタント教会とシナゴーグが共存しているようです。p. 63 には、
「改革派」の姿勢についても言及されています。この論文が出版された後のことはわかりませんが、カトリック教会も、"City-Kirche" という形で関わっているかもしれません。日本FEBC は、大切な放送だと思います。
万博の問題から、上に引用した論文とさらにもう一つの論文を読み、教会(カトリック教会)とその信者とのつながりについて、うわべだけですが学ばされました。不思議な経験です。わたしと神様だけではなく、「教会」があり、「聖伝」があることを思わされました。Vulgate, Nova Vulgata も大切だと思います。ただし、初めにプロテスタント教会と出会ったので、その出会いから頂いたことは、わたしに刻まれていると思います。また、長い間自覚できていませんでしたが、若い時にドイツに滞在した折にも、初めにプロテスタント教会と出会い、その後にカトリック教会に出会っていました。当時は、「キリストの教会」しか知らずに、滞在先のアパートの前で遊んでいる子供の母親の方に、近くの教会を教えてただき、その教会がプロテスタント教会でした(あとから知ったことです)。礼拝の後に、牧師先生と少し話して、Die Bibel Luthertext (1984) を購入しました(すべての固有名詞は、後から知ったことです)。今も参照しています。その後に、朝、散歩していると、讃美歌のような歌(聖歌)が聞こえてきたので、進んでいくと、建物があり、その中に入って、ミサが終わった後に、神父様に、わたしも加わってよいかどうか尋ね、よいとのことで、しばらく、毎朝、ミサに与りました
(讃美歌以外のすべての固有名詞は後から知ったことです)。本当にほとんど何も知らなかったわたしが、ドイツで続けてミサに与るようになったことを考えると、わたしにはカトリック教会の信仰が合っているのだと思います。日本のカトリック教会のミサに与ったのは、この随分後のことです。このような経験をしているので、ルーテル派やそれに近い流れの教会の礼拝にはそれほど抵抗はないように感じますし、「キリストの教会」の対話が進むことを切に願います。日本 FEBC にも大変お世話になってきました。
遠藤周作氏は、第二バチカン公会議を経たカトリック教会とのつながりをどのように考えておられたのだろうか、と思います。私的な長文をすみません。
返信をありがとうございます。
ラテン語はまだまだだめですが、読むことに限れば、慣れてくると、その素朴さからかもしれませんが、例えば、英語よりも自然に感じることが多いように思います。
わたしの愚かさと無知であることから感じることからかもしれませんが、上記の論文やプロテスタント教会の何人かの牧師先生が「説明される『愛』」とカトリック教会が教える「愛」とはかなり異なるように思います。以前から少しづつ感じていました。
単純で素朴な疑問ですが、「聖書のみ」の立場では、新約聖書が一応出来上がる前(聖典を決める難しいことはありますが)までは、初期教会の人は、「神様(イエス様)」を、「隣人」を「愛する」ことはできなかったのでしょうか。聖伝は、逆のことを伝えているように思います。どれほど多くの人が神様へのおもいを貫き通して、殉教されたことでしょう。「聖書」という書物を持たず、素朴な生活をしていた日本人が、宣教師の方からイエス様の教えに触れ、知恵の光を受けて、どれほど多く殉教されたことでしょう。わたしのような愚かなものには、とてもできないように思います。わたしは、Nova Vulgata 他数冊の聖書という書物を持っていて、主の日に、身の危険を顧みず、ミサに与り、御聖体を拝領することができるにももかかわらず。 わたしが愚かであるためかもしれません。
Nova Vulgata では、imperative ではなく、subjunctive が多いことに気がつかされたときは、大変驚かされました。自由意志に結びついているように感じます。
わたし(新米信徒)が上に書いたこと、Expo' 70 に対して、福音派の諸教会は推進派だったようですが(?)、次の論文に偶然出会いました。
「キリスト教世界観からの日本神学の再構成
稲垣和久:東京基督教大学紀要
巻 24 pp. 140-164 発行年 2014-03」
おろかで無知な者ですが、論文を眺めていると、次のことに目がとまりました。以下に引用します(長文をすみません)。
p. 152 「・・・。神認識についても似たようなことが言える。頭(かしら)なるキリスト、体なる教会という比喩は実に興味深い。まさに教会という身体性、有機体を通して神は人にコミュニケートし、同時に、それを通し人は神を十全に認識できるということである。『神とはなんぞや』という哲学的問いを出すまでもなく、神認識には体なる教会の働きが必要である。そして教会は大地に、地域に根を張っているのであり、市民社会への通路になっている、またそうでなければならない。そうでないと被造世界、特に人間世界に働きかける神を十全に認識できない。・・・」「・・・『制度としての教会』は文字通り自分たちで伝統に従って決めた信仰告白やルール(制度)に従う共同体だが、『有機体としての教会』は必要に応じてできた共同体であり、聖霊の働きに従ってより自由に信じる者の賜物の中に働いてできてくる。・・・」
p. 153 (3) 伝道(ケリュグマ)と奉仕(ディアコニア)の関係
「宣教は伝道と奉仕の両方を含む。有機体としての教会という概念を導入して、さまざまな賜物をもった信徒が派遣されて、伝道以外の証しと世への奉仕に従事することの重要性も強調したい。ではこれらの実践は伝道とは無関係なのか。そうでは
ない、伝道以前にまずは人々との交流によってよく思われること、人々から信頼を得ることが大切だ(使徒の働き 2 章 47 節)。これはプレ・エヴァンジェリズム(伝道の道備え)と呼ばれる。このような考えから、現在、福音派教会では地域をケアできるチャーチを目ざす
という意味で、ケア・チャーチ・プロジェクトという取り組みが始まっている。筆者がこの取組みをしてきた経験から、世の福祉問題への意識の高い『制度としての教会』を以下のように三類型に分けてみた。
① 派遣型 ② 事業型 ③ 伝道型
ただし、いずれの場合も、ここでの教会とは、今日の教会の平均的描像とは異なって、多くの若者も集っていて、生き生きとした信仰者を育てる聖霊に生かされた教会である。他者への奉仕を教えるだけでなく、自らソーシャル・キャピタル(社
会関係資本)として福祉への関心を示している場合である。その上で、・・・」
わたしの愚かさを棚に上げて書きますが、教えられることがあるように感じます。ただし、
例えば、「人々との交流によってよく思われること、」は、何を意味しているかよくわかりません。バルバロ神父(様)(1980) 使徒言録 2:47 「・・・、すべての人の人望をうけた。・・・」、のことでしょうか。また、「神を十全に認識できる」ことは、受け入れることができません。そのため、初めに「偶然(わたしの自由意志を含む)」、と書きました。
私はイタリア語で: Dio Mammona は、LGBTQ の世界でも支配的です。
若いころの思い出です。
あるとても親しくしていた親戚の女の子が、鳩同士がつつきあって弱いのをいじめているのを見て、思わず身をよじって目を背けました。
後で思ったことですが、もしかして当時、彼女は実の兄から(性的)暴力を受けていたのではないかと推理してしまいました。
神様お許しください!
1970 年の万博の跡地の管理者を調べると、
「日本万国博覧会記念協会 (認可法人) 」(注釈:日本万国博覧会記念協会法 昭和四六年六月一日)-> 「日本万国博覧会記念機構」(平成 14 年) -> 「日本万国博覧会記念機構(独立行政法人)」(平成 15 年)
(注釈:日本万国博覧会記念機構(独立行政法人) 廃止 法律案 平成二十五年四月五日 内閣総理大臣 安倍晋三 国会に提出。)-> 大阪府 (平成 26年 4 月 1 日 大阪府に承継)
2025 年 日本国際博覧会(予定)。
ど素人には複雑な流れで、間違いがあるかもしれません。一応、各法律は見ることができました。
Mt 6:24 "...; non potestis Deo servire et mammonae."
を思い出します。神父様から本当のこととして教えられたことです。
今日、昼食にコロッケ等を建物の外で食べていました。数羽の鳩が寄ってきたので、コロッケから落ちるパン粉を(人が作った)地べたの上に落ちるように(ズボンの上に落ちないように)工夫して食べていると、鳩が争いながら地べたのパン粉を食べていました。普段わたしが見る鳩は、争わずに、たんたんと地べたにあるものを食べています。大変考えさせられました。
上記において、わたし(新米信徒)が引用したことにいくつの間違いがありますので、訂正します。すみません。
(i) "la tua Chiesa pellegrina sulla terra:" (Italiano)
sulla terra に訂正。これは、イタリア語によるミサの典礼文からの引用です。
(ii) (153) p. 56
「プロテスタント ローマ・カトリック,バチカンが共同で出展したが,」
ローマ・カトリック,バチカン,の「,」の脱落を訂正。
(iii) (153) p. 56
『教団紛争』
(iv) 翻訳 新改訳聖書刊行会
発行 翻訳を翻訳に訂正。
以上です。
返信をありがとうございます。
次の論文
「『教会』と『社会』の対立
一一日本万国博キリスト教館出展問題を中心に一一
川 口 葉 子 雑誌名 論集 巻 39 発行年 2012 -12-31 」
を読むかぎりでは、戦後、戦争に対して、「日本基督教団」の内部で混乱が起こっていたようです。以下、上記の論文の一部を引用しますが、
"Ecclesiam tuam, peregrinantem in terra, "(でたらめなおきかえですが、地をめぐっている、御身の教会を、)
「地上を旅するあなたの教会を、」 "la tua Chiesa pellegrina sullaterra:(Italiano) " であることと深くつながっているように感じます(素人の感想です)。
(153) p. 56
「1970年に大阪・吹田で開催された日本万国博覧会にキリスト教館が出展された。キリスト教館はプロテスタント ローマ・カトリックバチカンが共同で出展したが,その出展の賛否をめぐってプロテスタントの最大教団である日本基督教団において大きな反博運動が起こり,「教団紛争」と呼ばれる教団混乱期
の大きな要因となる。」
(157)-(158) pp. 52-51
「プロデューサーとして遠藤周作,阪田寛夫,三浦朱門が内容を取り仕切り,「目と手一人間の発見一」というテーマのもと,会期中に 232万人の入場者を集め 375万部の聖書が配布された。『日本万国博キリスト教館委員会 1970:23』
キリスト教館の構想、は 1967年 3月頃から NCC (日本キリスト教協議会),大阪キリスト教連合会を中心に検討がなされ, 1968年 1月にカトリック司教協議会が共同出展を決定しまた68年12月にバチカン市国が正式参加を決定した。68年3月には NCC第21回総会を経て,キリスト教館中央委員会が組織された。出展を推進する理由としては,それまでの万博にキリスト教館がずっと出展されており,エキュメニカルな意義を感じたこと,また何千万人が入場する万国博で伝道がおこなわれることへの期待といった素朴なものであった。それに加えて,万博協会から何か宗教的なものがほしいという要求もあったことが挙げられる。 」
初めに、プロテスタント教会に出会って、新改訳聖書(第 2 版 1978)を購入しました。その聖書には、次のようにあります。
聖書 新改訳 1970年 9 月 1 日
発行 翻訳 新改訳聖書刊行会
発行 日本聖書刊行会
新改訳聖書の翻訳は、ロックマン財団の財政援助により遂行できました。
発売 いのちのことば社
出版されたのは、1970 年の万博の会期末直前です。
「万博記念公園 太陽の塔 オフィシャルサイト」からの引用。
Expo '70 Commemorative Park
会期:1970年3月15日(日曜日)から9月13日(日曜日)までの開催 183日間
テーマ: 「人類の進歩と調和」 (Progress and Harmony for Mankind) 」
知らないことばかりです。
命がけで、と言えば大げさだと思われるかもしれませんが、イエス・キリストを信じ、神様を信じ、宣教を心掛ける神父にとっては、シックリこないものの言い方です。
教会と戦争の関係とは?教会の戦争加担責任のことでしょうか?カトリックはちゃんと司教団の公式声明として戦績告白をしていないとか?
1970 年の万博のことを少し調べて、遠藤周作氏の実兄に偶然出会いました。
「日本マス・コミュニケーション学会・2010 年度秋季研究発表会・研究発表論文 日時:2010 年 10 月 30 日・ 31 日/ 会場:東京国際大学
プロデュースという思想
ー浅野翼の仕事を中心にー
The Way of Thinking to Produce Media Events
Focusing on The Works of Tsubasa Asano
長崎励朗 Reo nagasaki
京都大学大学院教育学研究科 Graduate School of Education Kyoto University」
上記の p. 4 の 「4. 大阪万博におけるプロデュース」に、「労音を 1963 年に退職してしばらくした頃、浅野翼は 1970 年に予定されていた大阪万博における電電公社(現 NTT) のパビリオン、電気通信のプロデュースを引きうけることになる。このような巨大企業のパビリオンを任されることになったのは彼の人脈によるところが大きい。当時電電公社の近畿局長だったのは作家、遠藤周作の実兄にあたる遠藤正介であったが、浅野翼は彼と親しく付き合いがあった。」
「私のイエス -日本人のための聖書入門- 遠藤周作 祥伝社 (昭和 51 年)」 に対する不信感から上のことを書きました。上記の本への不信感は、例えば、「VI 聖書最大の謎ー”復活の奇跡”」の p.151 に 「聖書のおもしろさというのは、・・・」、という「おもしろさ」という言葉(他人事のことば)にあります。わたしがこの書から感じることは、遠藤氏は自身の「頭」を使って自分で考えたことを(もしかすると無責任に)本として出版したのではなかろうか、ということです。この「無責任」ということは、大衆文化からわたしはよく感じます。また、わたしは子供の頃から(おそらく無責任に)創作された多くの大衆文化の作品に影響を受けてきたと思います。「万博」については、「万博学」という研究分野があるほど複雑であるようですが、1970 年の「キリスト教館」については、この「万博」の場を用いて、多くの人に、キリスト教(イエス様のこと)とこの地のこと(例えば、教会と戦争とのかかわり)、を知ってもらおうとしたようです。わたしは、「信仰」は、知ること、みえないものをみること、求道への道を歩むことが必要であるように感じます。わたしのことはたなに上げて書きました。
その時私は30歳。中世哲学の大学院生、博士課程、研究室の助手の身分を追われ、ドイツの銀行に職を得て最初の仕事が、大阪万博の会場内に臨時支店を開設した関西系の都市銀行4行の臨時支店を訪ねて、コメルツバンク発行のトラベラースチェック(旅行小切手)の見本を持ち込んで、あいさつ回りをしました。役得で万博をたっぷり見物しました。
キリスト教館なんて、ああ、そういえばそんなのもあったかな?程度で全く関心の外でした。
日本のカトリック作家がどんな動機でどんな意見を反映したかなど、全く関心の外でした。
いまだに何の感慨もありません。ごめんなさい。その程度の人間です。
わたしは、初めに、プロテスタント教会と出会ったので、以前にプロテスタント教会のことを少し調べて、1970 年の万博でのキリスト教館の出展問題に関する論文に出会いました。そのときは出会っただけでしたが、最近、そのことを少し調べ直して、川口葉子先生の東北大学から出版された 2012 年の論文に出会いました。そして、その論文から、上記のキリスト教館の総合演出家は、「遠藤周作,阪田寛夫,三浦朱門」の三氏であることを知りました。cf. p. 52. 全員作家です。そして、このことから、プロテスタントの教団は大きな傷を受けたことを知りました。神父様の世代の方にとっては常識であることかもしれませんが、わたしは全く知りませんでした。そのような時代と言ってしまえば、それまでですが、理念・観念の恐ろしさを感じます。天と地の両方を観なければ、ろくなことが起こらないように感じます。愚か者の感想です。
わたしにとって遠藤周作氏の作品はどうでもよいのですが、上のコメントを書いたので、次の論文を引用します。
「遠藤周作論〈劇〉を生成するトポス」長濵 拓磨 昭和文学研究 72 巻 (2016) pp. 75-86.
この論文の注釈 (3) on p. 84 に、眠狂四郎の構想の一端を与えたのは、実は遠藤周作氏で、「・・・。ということは、遠藤はフランス留学から帰国した昭和三十一年頃、『黒ミサの本など読みふけっていた』ということになる」、とあります。くだらないことを書いてすみません。
わたしの心にあることは、押田成人神父様が死を迎えたときのことです。「押田成人著作選集 3 いのちの流れのひびきあい 地下流の霊性」日本キリスト教団出版局 (2020) の「<エッセイ>神父さまの最後から 最後のお世話をさせていただいた者として心に浮かぶままに 聖体尼」 によると、押田神父様は、病からくる苦しみと最後までたたかわれて、生きぬかれた、とあります。また「霊的な本物とは?」に、押田神父様は、「カトリックでは、死ぬ時に、神さまのことほぎの中で死ねますように、という祈りを絶えず唱えるんです。」、とあります(初出 「ナーム」一九八五年一月号、54-57 頁)。わたしは、Ave Maria をおもいます。"..., nunc, et in hora mortis nostrae. Amen. "
また、Maria von Trapp さんは、著書 "The Story of the Trapp Family Singers Part II" に、ご主人が死を迎えたときに、そのことをご主人に伝え、「ゲオルク、いとしいゲオルク、神の手から死のバトンを受け取る覚悟はできているわね?」、と聞き、ゲオルク氏は、最後の力をふりしぼって、「はい」とマリアさんに答え、ヴァスナー神父様から御聖体を拝領された、とあります(サウンド・オブ・ミュージック アメリカ編 マリア・フォン・トラップ=著 谷口由美子訳 文渓堂 (1998))on p. 423.
およそ1年程たってまたこの記事に帰ってきました。再び、田村正和さん演じる「眠狂四郎」の第 11 話を観ました。この話は、中学生の時に読んだ「眠狂四郎無頼控」にある転びバテレンについての話がもとになっていると思われます(少し覚えていました)。そして柴田氏によるこの一群の小説は、遠藤氏の「沈黙」より出版が早いことに気がつきました。そして、internet 上の次の記事を見つけました。
「メメント ド ミニ
(汝の主を覚えよ)
主と共に歩む心の旅 ―私は私らしく― 」
「柴田錬三郎『眠狂四郎』と遠藤周作『沈黙』-切支丹物をめぐる二人の交流を中心として」 -日本クリスチャンペンクラブ関西ブロック例会 後編-
2018年06月21日
この記事によると、遠藤氏は、柴田錬三郎氏から相当影響を受けているようです。柴田氏は慶応大学での遠藤氏の先輩で、「三田文学」を通して関わりがあったそうです。話が出来すぎているようで、信じ難い気がします。
「バンカー、そして神父 放蕩息子の帰還」の第 6 章「復活」と「与える愛」についてを少し読みました。神父様の妹様のこと、神父様の妹様へのおもい、復活するということからくる信仰と希望と愛、を少しは感じることができたように思います。神父様が、商業主義と結びついているかのような遠藤周作氏の作品に嫌悪感を感じることは、自然なことのように思いました。