2013 12/3 野木神社
野木神社で毎年12月3日に行なわれるこの祭りは、奇祭といわれる御帰社祭です。
鎌倉時代に源頼朝から神田と神馬が献上されたときに、御出社祭や御帰社祭が始まりました。
12月3日の御帰社祭は、神領寒川郡の迫間田(はさまだ)、寒川(さんがわ)、中里、鏡、小袋、井岡、網戸(あじと)、下河原田(しもかわらだ)の8ヶ村を巡り歩く祭りで、俗に「提灯もみ」とか「七郷まわり」と呼ばれています。
今ではその規模も小さくなり、野木神社周辺と野渡地区に限られています。
この祭りは奇祭にふさわしく、地元の子どもや若者たちが、竹ざおの先につけた火のついた提灯を、掛け声を掛けあいながらぶつけあいます
平安最末期に常陸の国にいた源頼朝の叔父 源義広が、源頼朝に対抗して挙兵した時、下野国小山朝政は野木宮を深く信敬し、当宮に引篭もり、戦略計画を立て、義広軍を追討勝利し余党をも多数討ち取りました。源頼朝は、「鎌倉幕府開幕は、野木神社のご加護があったお陰」と、七つの村(七郷)を野木神社の神領として定め、野木神社の末社が七つの村に誕生したのです
七郷(しちごう)めぐり」
現在の小山市に編入されている七つの地区にある野木神社の末社を、神体の神鉾を奉じた一行が順次訪ねる神事です。11月27日に神主さんたちが馬を煌びやかに飾って、野木神社の七つの末社を1日1社ずつめぐり、7日後の12月3日に帰ってきます。七つの末社をめぐるので、「七郷(しちごう)めぐり」と呼ばれていました。当時から出発日を“おいで"、帰って来る日を“おかえり"と呼び、村の人(野木の人)が竹竿に提灯をつけてお供として一緒に回りました。12月3日の深夜から4日にかけて、日光街道で、七郷(しちごう)めぐりを終えた一行の御帰社(おかえり)を、提灯を手にした大勢の参拝客が出迎えます。
古く建仁年間(1201-03)に始まったと伝えられた七郷めぐりは、第二次世界大戦直後まで続けられました。この行列には、各村の精進潔斎した裸体の若者たちが篠竹に高張提灯をかざして供奉(ぐぶ)したが、行列が各村の末社で一泊して次の村に向かう時、村境で双方の村の若者たちが、行列の進退をめぐって激しくも揉み合いをし、裸体で揉み合うので裸揉みといわれました。
12月3日の深更から4日の早暁にかけての「おかえり」には、七郷(しちごう)めぐりを終えた行列の御帰社(おかえり)を待ち受けようと、神社の境内や野木から古河にかけての日光街道には、竿に提灯をつけて腰に鈴をつけた大勢の裸体の人々が近郷近在から参集しました。古河からも町内ごとに沿道に控え所を設けて出向き、この夜の沿道には、見世物や露天も立ち並び、農家も臨時に宿屋、汁粉屋、そばやとなって、詰め掛ける大勢の参詣人で賑いました。遊郭や料理屋が徹夜で営業し、宿屋では仮泊する参詣人をなるべく大勢泊めるために、幾度も入れ替えをし、店頭には飾り夜具を飾り立てるなど盛況でした。また、各町内では、会所の前に長竿の先端に赤い小さな提灯をつけて献灯しました。
季節柄、鍋釜も割れるというほどの寒さで、“おかえり"を待ち受ける人々は、この寒さをしのぐために、手に手に竿を持って揉み合い、暖をとったのです。この“おかえり"の夜の揉み合いが現在の提灯竿もみまつりの直接の原型であり、現在でもこの祭りを“おかえり"と呼ぶ人は多いのです
隣の古河市でも同じように提灯竿もみまつりが開催されています
野木神社で毎年12月3日に行なわれるこの祭りは、奇祭といわれる御帰社祭です。
鎌倉時代に源頼朝から神田と神馬が献上されたときに、御出社祭や御帰社祭が始まりました。
12月3日の御帰社祭は、神領寒川郡の迫間田(はさまだ)、寒川(さんがわ)、中里、鏡、小袋、井岡、網戸(あじと)、下河原田(しもかわらだ)の8ヶ村を巡り歩く祭りで、俗に「提灯もみ」とか「七郷まわり」と呼ばれています。
今ではその規模も小さくなり、野木神社周辺と野渡地区に限られています。
この祭りは奇祭にふさわしく、地元の子どもや若者たちが、竹ざおの先につけた火のついた提灯を、掛け声を掛けあいながらぶつけあいます
平安最末期に常陸の国にいた源頼朝の叔父 源義広が、源頼朝に対抗して挙兵した時、下野国小山朝政は野木宮を深く信敬し、当宮に引篭もり、戦略計画を立て、義広軍を追討勝利し余党をも多数討ち取りました。源頼朝は、「鎌倉幕府開幕は、野木神社のご加護があったお陰」と、七つの村(七郷)を野木神社の神領として定め、野木神社の末社が七つの村に誕生したのです
七郷(しちごう)めぐり」
現在の小山市に編入されている七つの地区にある野木神社の末社を、神体の神鉾を奉じた一行が順次訪ねる神事です。11月27日に神主さんたちが馬を煌びやかに飾って、野木神社の七つの末社を1日1社ずつめぐり、7日後の12月3日に帰ってきます。七つの末社をめぐるので、「七郷(しちごう)めぐり」と呼ばれていました。当時から出発日を“おいで"、帰って来る日を“おかえり"と呼び、村の人(野木の人)が竹竿に提灯をつけてお供として一緒に回りました。12月3日の深夜から4日にかけて、日光街道で、七郷(しちごう)めぐりを終えた一行の御帰社(おかえり)を、提灯を手にした大勢の参拝客が出迎えます。
古く建仁年間(1201-03)に始まったと伝えられた七郷めぐりは、第二次世界大戦直後まで続けられました。この行列には、各村の精進潔斎した裸体の若者たちが篠竹に高張提灯をかざして供奉(ぐぶ)したが、行列が各村の末社で一泊して次の村に向かう時、村境で双方の村の若者たちが、行列の進退をめぐって激しくも揉み合いをし、裸体で揉み合うので裸揉みといわれました。
12月3日の深更から4日の早暁にかけての「おかえり」には、七郷(しちごう)めぐりを終えた行列の御帰社(おかえり)を待ち受けようと、神社の境内や野木から古河にかけての日光街道には、竿に提灯をつけて腰に鈴をつけた大勢の裸体の人々が近郷近在から参集しました。古河からも町内ごとに沿道に控え所を設けて出向き、この夜の沿道には、見世物や露天も立ち並び、農家も臨時に宿屋、汁粉屋、そばやとなって、詰め掛ける大勢の参詣人で賑いました。遊郭や料理屋が徹夜で営業し、宿屋では仮泊する参詣人をなるべく大勢泊めるために、幾度も入れ替えをし、店頭には飾り夜具を飾り立てるなど盛況でした。また、各町内では、会所の前に長竿の先端に赤い小さな提灯をつけて献灯しました。
季節柄、鍋釜も割れるというほどの寒さで、“おかえり"を待ち受ける人々は、この寒さをしのぐために、手に手に竿を持って揉み合い、暖をとったのです。この“おかえり"の夜の揉み合いが現在の提灯竿もみまつりの直接の原型であり、現在でもこの祭りを“おかえり"と呼ぶ人は多いのです
隣の古河市でも同じように提灯竿もみまつりが開催されています
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