前回の【笠原十九司氏の著書『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』についての考察メモ】の補足として
『南京の真実』 P.317/12行目に、1938年6月8日に、ラーベによる、ヒトラーへの上申書(*1)の中で、天文学的数値に近い記述がある。
引用
《
中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人と見ています。遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日二百体以上は無理だったそうですが、私が南京を去った二月二十二日には、三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。
》
ラーベのこのテキストによると少なくとも南京攻城戦後から六ヵ月強余りの時間を経た内の情報で、ラーベが南京を去った2月22日から、【蒋介石側の国連での主張】での、2万人という数値から、五倍に当たる【民間人10万人】という情報を得ていた訳である。支那側の【主張】がどうして10倍にふくれあがったのか。
誰からの情報で、こうした認識に至ったのか。全く不明である。
1938年3月のチャイナ・フォーラム(*2)の情報が伝わったとしても、8万人であったことから、プラス2万と成っている。途中で誰かが、約10万と伝えたのか。情報の入手経路が不明である。このチャイナ・フォーラムの人物が如何なる情報を元に作成した資料か全く判らないが、数値としての情報が存在したことに間違いがない。前記事の内容での広田豊氏がこの情報のことを言っているかどうか判らない。
又、このラーベの5〜6万の犠牲者数が、紅卍字会の数値によるものであったなら、4万程度でありそれは兵民および戦死・不当殺害の区分は成されていない。スマイスの統計学手法を用いた分析報告書でも、市街調査での家族調査は3月9日から4月2日でスマイスの表4(*3)で見ると死者は3,400人。広大な農業エリアでは26,870人である(*4)。あわせても33,620人で、しかしこれも又日本軍による行為という統計学手法による推測値に過ぎない。これと揚子江岸に死亡し遺棄されたか敗残への推測も入れいていると言う事か。後の多くて2万のプラスは何処から来たか全く不明である。
その他の埋葬記録として高冠吾が命じて埋葬を処理をしたのが1938年10月で約3,000体あるが、これは情報元として入っていない。
つまり、ジョン・ラーベの見解は確実なデータを取れる立場でもないし、大凡の【憶測】による数値として考えられる。
(*1)『南京の真実』(ジョン・ラーベ著/エルヴィン・ヴィッケルト編/平野卿子訳/2000年/講談社)
(*2)亜細亜大学 東中野修道『南京大虐殺の徹底検証[20世紀最大の嘘南京大虐殺の徹底検証(後編)]』平成12年(2000年)1月23日 於・大阪国際平和センター(於:ピースおおさか)念法真教機関紙「鶯乃声」平成12年3月号より転載 東中野 修道 亜細亜大学教授(http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/13-2.html)
(*3)『War Damage in the Nanking Area December,1937 to March, 1938』 1938(昭和13)年7月発行 全73(73pages) 松尾一郎氏サイト中(http://www.history.gr.jp/nanking/books_wardamage.html) Table 4
(*4)同上 Table 25
スマイス南京市調査 表4
スマイス農業エリア調査 表25
スマイス調査マップ
安全区内より、各種秘匿武器:迫撃砲:弾丸発見との、国際安全区紳士協定やぶり
に対して、便イ兵摘発処刑:女性身体検査:強かんが、頻発したんでしょう。
元来、(神人共に許せざる通州残虐事件)に対しての、報復処刑:弔い作戦大義=近衛(暴戻シナ膺懲)声明 です。
元来 安全区内中国人皆殺し=鏖殺作戦遭った可能性です。
紙一重で、作戦回避? しかし、米宣教しらの、宣撫工作により、殺してないのに、大冤罪!!{彼ら!?}は、ハナから、そのつもりだったのか。調査研究必須。歴史認識修正学者奮闘必須!