小野賢二収集日記の当方分析リンク

2020年04月09日 13時07分32秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】

この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
手初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は原典を読まれることをお薦めする。
書籍に掲載の人物の内容を要約しつつ、分析を試みてみた結果としては、
【一般人】が【中規模】【小規模】で【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
一応、小野賢二収集という第13師団第104旅団山田支隊の第65連隊と山砲兵第19連隊の日記類の要約と、当方の若干の分析と感想を書いたブログ記事のリンクを次に提示する。ご参考にしてください。

【当方ブログの小野賢二収集日記類の分析記事】


1[斎藤次郎]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/fe316137662c2b70a3211d40bc16ffb1


2[堀越文男]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/bc9209e520cd38bbc825eef1a107abeb


3[遠藤重太郎]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/72d83349fdfe6bab040200b2e69dc429

4[伊藤喜八]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/cfc4f88e4de2c1af61259aff7436b24c

5[中野政夫]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/fe6253ff4966e27103a951a88c1bbb90

6[宮本省吾]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/98d5c2d3ee755dac6ee5cf108da8ca5e

7[杉内俊雄]陣中日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/baf8e93094ca9f6a30bd1bd67f40fd55

8[柳沼和也]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/af27c2c7c0358e4fac7ecb05c49e3470

9[新妻富雄]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/45a9da358d509af890e037e8b791dad0

10 大寺隆 陣中日記録
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/8e5e273c98c6552e90fa6c4ca34c53ea

11 [遠藤高明]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/de478e193b484d5068ca97c2e3d55d14

12 [本間正勝]戦斗日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/9b4938d4929956a1dd3221b74a10d371

13 天野三郎軍事郵便(手紙)
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/179021a45b53b6a7d49536b20c55b9f8

14 [大内利己]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/4d1e44e8cd0922bfd2e2379bc32f9cf7

15 [高橋光夫]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/a362c5942803a166795b5b29191d2607

16 [菅野嘉雄]陣中メモ
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/089a06e5321bb30cdc7d43e44864fb8b

17 [近藤栄四郎]出征日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/a4bb71cf3be79434a017c7680b202343

18 [黒須忠信]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/c3524ce167331797cf7a9f2713cad961

19 [目黒福治]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/993bf008fa257c360b1f3cc25f8ca637

1937年の南京攻略戦前後と【歴史修正主義】
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/79cbc4a5d6b5a427e306ce6a6b287e4a


エリザベス・ロフタス【記憶が語るフィクション】

2020年04月07日 22時26分33秒 | 日記

エリザベス・ロフタス【記憶が語るフィクション】

******* https://youtu.be/PB2OegI6wvI *******

 

字幕で【日本語】にすると、自動翻訳ではない翻訳者の方が約されたテキストが出ます。
是非、是非ご覧頂けますよう何とぞお願い申し上げます。

是非とも、皆様には、このエリザベス・ロフタス女史の【講演動画】を見て頂きたいものです。
直接映像とは関係が無いのですが、戦後の日本の近代史において、【オーラルヒストリー】を使った悪質な【偽記憶】による教育・宣伝されてきた経緯があるからです。
典型的な例は、言うまでもありませんが、南京事件従軍慰安婦を含めた日本軍のWW2などの戦史であると考えます。
【加害史観】では【記憶】からの【証言】又は【回想】が【主流】であり、被害者を装う中国や朝鮮半島の人物の戦後の【証言】が【信用】されて件でされ続けてきました。全く関係の無い【差別】などという【ポリコレ】と結びつけられて、【疑いを持つことも】【悪い】とされるような、状況であると考えます。
【歴史修正主義】などとレッテルを貼りつけて【研究】を後退させるよりも、【学際的】に他の分野の【研究】も考慮しつつ、見直すことこそ【学問的研究】【科学】と呼べるのではないかと考えます。

【記憶】はアテにはなりませんし、インタビュアーの質問によっては、【記憶】は変わると言う事も判っています。これは【心理実見】を通した【科学】であって、【加害史観】などという【政治的目的意識】とは全く異なる【科学】です。
日常生活で、報道機関やその他身近な方からの情報次第によっては【現実】や【事実】とは異なった【認識】を持つと言うことにもほかなりません。

最近では、IPS細胞研究の山中伸弥教授が、その提言の中で、中華人民共和国のプロパガンダに乗って居られますが、列車事故で犠牲者の生死も判らぬまま埋めようとしたり、ウイグルでの収容所などの【文化】を持つ国家体制と言う事や、そもそも放置して世界に拡散させたのは何処の何奴だ【中華人民共和国】ではないかと言うことを思い出して頂けたら良かったと心から思う次第です。


南京事件FQAのための小野賢二収集日記の分析まとめ

2020年04月07日 10時50分40秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】

この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
手初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。
書籍に掲載の人物の内容を要約しつつ、分析を試みてみた結果としては、

【一般人】が【中規模】【小規模】で【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、
一切記述にないのは言う迄もない。

今回の目的は、【幕府山】という【ケース】ではなく、あくまでも笠原十九司先生の【定義】の【12月3日、4日ぐらい】からの【期間・エリア】で、【南京城外】又は【南京郊外】に【大量の非戦闘員が居たのか】という点を明らかにするつもりで、中国側の主張での揚子江沿いでの犠牲者数の主張を次に列記すると、

燕子磯(12月中)5万余人
幕府山・草鞋峡(12月13日)5万7千余人
魚雷衛・宝塔橋街(12月15日夜)3万9千余人
煤炭碼頭(12月17日)3千余人
下関電灯廠43名(蒋介石軍空爆の2名を省く)
合計約15万を越える数値。

なお、紅卍字会の埋葬記録の下関周辺の数値は、2万4千余名である。

上の数値を念頭に置いて揚子江沿いを進軍した第13師団の日記としている資料から調べてみた。南京事件FQAサイトの【主張】であるため、【城外】にこそ【中・小規模】ながらも【殺害】があり、総計すると【大人数】の【殺害】があったと【立証】出来うるような【史料】を探したわけであるが、小野賢二氏の収集した日記類に目を通した所、人は数ヶ所で、確かに鎭江の附近で、街に戻ろうとする農夫や、寺院らしき所に避難していた200〜300程度の避難民、場所は不明だが悲惨な避難民の状況を目撃したり、部隊に雇われて荷役をこなす支那人達の姿はあるが、各に入って、【幕府山】を除いて【民】を【殲滅】を【詳述】している人物は居無い。確かに上海周辺、江陰城周辺での戦闘経過で【非戦闘員】らしき【男女】や【子供】や【殺害】や【遺体】を記している人物も居るには居るが、乳児の母親を戦闘行為以外で殺傷したり、ましてや乳児を戦闘行為以外で殺傷したりしたという記述は存在しない。
行軍中で鹵獲した敵兵を戦闘継続中に【斬首】という【処刑】方法が、現代から見れば【適切】であったかどうかは、不明であるが【戦闘行為】に於いて、【処刑方法】に【刀剣使用】が【不可】ではない以上は、当時の兵卒個人の武威を見せたいという欲求からの虚栄心の表れであるとしても、賢いとは到底言えないが【適切範囲】と言えるとは考えられる。当然の事ながらBBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。
この人物は、当時の一次史料として、ドイツの外交文書(*2)に見られるのだが、何故かジョン・マギー牧師(南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員)に陳情した中国人側の主張がある。
内容的には、龍潭鎭・東陽鎮から中山門までの約30kmにある全部落の被害報告で、全部落としながらも何故か8だけしか記名されていない不思議な陳述書である。

梅牡村   3名
胡郷村   25名
華蘇村    5名
夏方興村  3名
夏三耀村  3名
陳康村    5名
高塞村    3名
西山鎭    2名

合計49名である。

戦闘がほぼ終了した1938年1月15日以降の殺害もちらほらあるが、約30km間の数が8だけとは思えないし、【非道な日本軍】による【殺害】を証明する割りには、人数がかなり少ないようである。基本的に場所が不明であり位置が特定されているのか不明で、犯行を行った日本軍部隊も不明で、その【根拠】と成り得る【資料】を残しているかというと、全く存在していない。これは検証しようにも検証のしよう無いことを主張して一方的に日本軍の行為としていることに外ならない。この龍潭鎭・東陽陳は第65連隊の進軍ルートに沿っているが、南京陥落後の22日迄は揚子江を渡河して徐州の椒全鎭警備の任に就いているので無関係なのは明らかである。
各日記の所でも書いたが、結論的には、第65連隊の揚子江沿いのルートに於ける部隊の行動に於いてみられる【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。【中小規模】が具体的数値がどれくらいなのか判らないが、数百名が各に存在するとも【数百名を殺害】したとも書いていない。
ドイツ外交官文書は、鎭江以降であり、日記中の行軍では、【敵意】よりも寧ろ【親和的な態度】であり、日本軍側も割りと良い賃金で荷役などとして雇用などして、地元経済の復興に一役買っている。徴発に於いては、住民不在のエリアでの物資調達以外は、購入であったようであり。【略奪】をしてさらに【殺害】をしたという行為が書かれているわけではない。無人エリアでの無人なのを良いことに【泥棒】という感じであろうか。これも日本軍の防衛戦ではなく、積極的敵地エリアでの糧秣の配送方法と携帯糧秣の品質の悪さから来るものであることは明白である。軍事遂行に於ける【責任】と言えばそこに在るとは考える。
第65連隊と第104連隊を率いた山田栴二旅団長の日記には、南京戦後揚子江を渡河後、暫く余裕が出来たことで少しふり返って、軍の状況を書いている所があり、①予後備兵のだらしなさなどは、急ごしらえの招集で訓練等々も余裕がなかっただけの事であり、②徴発の問題等は、給養物資の配送の実務面(連絡が取れない=>通信機材の性能と量、路面の状況で進捗難航=>運搬方法の未熟、軍用車両などの不足、食糧面=>レーションの品質)の問題やそれに伴う逼迫によるもので、それの問題提起と考えられる。これは何を表しているかというのは、【計画的軍事行動】ではなく【無計画・偶発的軍事行動】で、【侵略史観】で言う所の全く異なる事を表している。それ故に山田旅団長が、兵にそれを押しつけて居るわけではないと考える。12月15日の記述で、【皆殺セトノコトナリ】とあるが、直ぐに続けて【各隊食糧ナク困却ス】とあるので、命令を受けたと言うよりも【待機】又は【自分たちで何とかせよ】の【指示】で在ったのではと考えられる。第3大隊の第3小隊長の【天野少尉】が得た鹵獲中の【捕虜達】の代表者からの【嘆願書】が山田旅団長や両角聯隊長に手渡っていたのか、両者の日記や回想録には存在しないが、実見ないしは情報を認知していたら【処刑】というような【非情手段】がとれるとは考えにくい。
話が逸れてしまったが、【幕府山】は、第65聯隊長の両角大佐の【一般人】が居たので【解放】という話もあるが、【解放】という【作業】が行われた様には第1大隊にも書かれていないし、その他の部隊員の記述も見られない。後で書くが【回想】自体がそもそも【史料価値】が低い物と考えられるので【蓋然性】は低いと考えられる。斎藤次郎の日記による【雑多な服装】で【兵士】とは思われぬ様な【姿】は、【捕虜】ととして【資格無き】とも考えられるが、アサヒグラフの画像を見る限りでは、【徽章未着用】とまではいかない感じである。そして飽く迄この【画像】からだけだが、【一般人】の存在は考えられない。
今回は、幕府山がテーマではないので、この辺ぐらいにする。
1937年の南京攻略戦前後の南京事件の【殺害場所】として、【主舞台】として【城外】とされている。問題としては、①【降伏した捕虜】の【処刑】と、【非戦闘員】である②【城内から連行された非戦闘員】および③【城外での居住者】の【処刑】および【殺害】の3パターンが上げられる。
①は主に下関エリアや江東門、漢中門、太平門、雨花門、草鞋峡の魚雷営、幕府山が主でほぼ【戦闘員】と考えられる。②は、城内での安全区へ逃げこんだ【便衣】となり【民間人】にまぎれて混んだ状態の【兵士】の【選別】での【非戦闘員】を誤って【選別】してし【処刑】した事が【問題】かどうかだが、当時の【安全区】は14日の段階で、域内からの攻撃があり中立性はなく、そもそも中立地帯として日本軍は尊重しただけで【認めていた】訳ではない場所である。【便衣】は、【民間人】との区別が無くなる為、【非人道行為】で【陸戦法規違反】である。故に強行規範的に日本軍の【安全】・【治安回復】のために、【民間人】が【犠牲】になったとしても、当時の軍事的な考え方では、少々強引な【選別】は許容範囲と考えられる。
ただし、下関エリアへ連行された鹵獲された敗残兵とみなされた者が、【全て処刑】されたという記録は明確ではない。紅卍字会の12月28日水葬にしたという下関江辺推下江内(下関には江辺駅があるが、その周辺かどうか不明。)での約6千名がそれという確証はない。それより以前に水葬にされたのが碇泊部の梶谷健郎日記に見られるような16日、17日の合計4千名程の【夜】の処刑、数日後の戦場掃除があるが1千とあり、残りの3千は勝手に流れたとでも言うのであろうか。4千名というのも個人の曖昧な数値で、正確にカウントされた数値では無い。そもそも13日に到達した33連隊によって下関周辺の揚子江沿いで掃蕩されて揚子江に遺棄された水中の支那兵の遺体はどこへ行ったというのか不明である。
そもそも【選別】された内に【兵卒】も居たことは間違えなく、そもそも【学生】や【女性】、【子供】が【戦闘員】として存在する中、上海で敗戦後の兵卒が不足する中の籠城戦の南京で【兵卒適齢期】の【男子】が【非戦闘員】として、しかも【避難民】として【存在】する事が、許されていたかということには疑問の余地がある。
また、ラーベの日記には、支那軍軍には【避難民】を【人間の盾】(*3)にする意図を表したことに怒りを表明した記述もある。この記述から、蒋介石や中国軍にとって、【国民保護】【住民保護】という意識は全く無いことがわかる。
今回の検証は、③が廠目的で今回の史料の【期間・エリア】からは、【中・小規模】の数量の【民間人】の【記述】は存在しなかったし、【殺害】したという記録も無かった。
基本的に【記憶】による【回想記】や【証言】などの【資料】は、【記憶】というが【時間の経過】と共に【忘却】するものであると言う事と、【後日】に【書き換え】や【追加】が起こってしまうということは、【目撃証言】や【記憶】からの【冤罪】を防ぐことを目的とした米国の研究者(エリザベス・ロフタス教授)グループなどの研究からも明らかであり、又米国のあるプロジェクトの研究で、【冤罪】が後にDNA鑑定【精度向上】などで【無罪】が確定した300名の人物を対象にした調査で、4分の3が【有罪判決】の【決定の主要因】が【誤った目撃証言】によるものだったという研究結果(*4)がある。つまり225名の人物が【虚偽の目撃証言】で【冤罪】となったと言う事になる。


(出典:ロフタス女史の講演会からの映像より)

この様に【回想】からの【記録物】は、【蓋然性】の高・低からは、低い物と考えるので、両角大佐の回想に於ける非戦闘員が交じっていた、【解放】した等という【回想】は【価値が低い】と考える。と同時に、中国側の【史料】と称するものは、ほぼ蒋介石国民党との内戦に勝利した中華人民共和国による収集した1949年以降のものであり、1937年の南京陥落後直後ですら【現場検証】等の【証拠】を抑える【残されていない】し、後の蒋介石と毛沢東共産党との戦争被害や文革などを経て当時の南京戦体験者がどれぐらい生存したのかや南京から離散したかも不明であり、少なくとも10年以上も経過していることを考えれば、詳細を知る方も日々の生活の立て直しなどを考慮すれば、【記憶】は薄れるものと考えられる。1970年代の朝日新聞の本多勝一氏の取材内容のように【共産主義】のイデオロギーからの【政治的】名【抗日史観】が十分【入っている】ことを【考慮】すれば、当然ながら、中国側の【史料】が【客観的】【科学的】【学術的】であると言い難く、これも又全く【価値が極めて低い】と言える
では、それ以前の東京裁判資料はどうかというと、中国側の証言者などの証言内容と実地による見聞が、弁護側による検証作業もないまま、つまり【公平性】を担保せずに【裁判官】が【恣意的】に【有罪】にした事は明らかなので、これも【立証】のための【史料】としては【価値が低い】と考える。

東京裁判で、李滌生という人物の出した供述書では、北京路にて付近居住住民50〜60名を査問工作として集め住居の二階から見える【虎踞関】で全て殺害とあるが、図2から北京路(ピンク系の色の線)を北平路と考えると陰陽営の北側を東西に延びる路面ととらえると、図1の様に【寧海路】と交叉する。当時寧海路では、16師団の佐々木支隊による【安居証の登録】が行われていて、多くの支那人が【寧海路】に溢れていたのは、東宝の記録ニュース映画『南京』(ホワイトプロパガンダではあるが)(*5)に見られる【良民証】を得る為に集まった多くの列を成す人々をみれば、その中を日本軍が住民を引き連れて歩いて行った等と言うことはあり得ず、又李滌生の自宅の2階から【虎踞関】が見えるのかの検証資料も残されていない。こういう風に当時の裁判が、公正ではないという事を示している一例である。


図1


図2


(寧海路に並ぶ支那人男性 出典:東宝ニュース映画『南京』)

又近代史を見る際には、【戦時宣伝】という物を抜きにしては語れない。敵対国及び他国との交渉で道徳的に相手の上に立ちを有利に進めたりする目的で使われる。戦時中は同盟国を増やす目的、例えばWW1では、イギリスはアメリカを戦場に引き出すことに成功し、支那事変ではソ連と中国が米国のみならず英国やその他欧州の国々までも対日戦に引っ張り込んでWW2を惹き起こしたことは有名な事例である。又、WW1では、ドイツは英・仏の宣伝ビラによって皇帝政権と戦場の兵士の間の離間に成功し、ドイツ軍有利な戦況をひっくり返した例もある。
また、日記というものは、本来他人に見せる為のものでもなく、表現も主観が入らざるを得ない。客観的に見ているつもりでも、表現する段階で、他者を意識したものでは無く【伝える目的】ではないので、【真実】と言うよりも、いい加減な表現になることは避けられないと考えられるので読む際は考慮が必要である。

いつもの通り余談が増えてしまった。まだ考察の途中であり、他の軍の経路からの考察も控えている。
今回はこの辺にするとしよう。


雨で泥濘化した難路に、行軍難航の様子。

(出典:アサヒグラフ 第29巻第18号 昭和12年11月3日 P.16〜17)

 


【当方ブログの小野賢二収集日記類の分析記事】


1[斎藤次郎]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/fe316137662c2b70a3211d40bc16ffb1


2[堀越文男]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/bc9209e520cd38bbc825eef1a107abeb


3[遠藤重太郎]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/72d83349fdfe6bab040200b2e69dc429

4[伊藤喜八]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/cfc4f88e4de2c1af61259aff7436b24c

5[中野政夫]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/fe6253ff4966e27103a951a88c1bbb90

6[宮本省吾]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/98d5c2d3ee755dac6ee5cf108da8ca5e

7[杉内俊雄]陣中日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/baf8e93094ca9f6a30bd1bd67f40fd55

8[柳沼和也]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/af27c2c7c0358e4fac7ecb05c49e3470

9[新妻富雄]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/45a9da358d509af890e037e8b791dad0

10 大寺隆 陣中日記録
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/8e5e273c98c6552e90fa6c4ca34c53ea

11 [遠藤高明]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/de478e193b484d5068ca97c2e3d55d14

12 [本間正勝]戦斗日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/9b4938d4929956a1dd3221b74a10d371

13 天野三郎軍事郵便(手紙)
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/179021a45b53b6a7d49536b20c55b9f8

14 [大内利己]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/4d1e44e8cd0922bfd2e2379bc32f9cf7

15 [高橋光夫]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/a362c5942803a166795b5b29191d2607

16 [菅野嘉雄]陣中メモ
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/089a06e5321bb30cdc7d43e44864fb8b

17 [近藤栄四郎]出征日誌
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/a4bb71cf3be79434a017c7680b202343

18 [黒須忠信]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/c3524ce167331797cf7a9f2713cad961

19 [目黒福治]陣中日記
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/993bf008fa257c360b1f3cc25f8ca637

1937年の南京攻略戦前後と【歴史修正主義】
https://blog.goo.ne.jp/jojjsssjjoj/e/79cbc4a5d6b5a427e306ce6a6b287e4a

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)石田勇治、笠原十九司、吉田 裕共著『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』 大月書店 2001年3月 P.196〜204 【Link】
(*3)ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴイッケルト編集、平野卿子翻訳『南京の真実』 講談社文庫 2000年9月13日 P.83〜85 【Link】
(*4)エリザベス・ロフタス:記憶が語るフィクション 【Link】
(*5)東宝ニュース映画 『南京』 時間1:36:00  【Link】


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その19

2020年04月06日 14時52分31秒 | 1937年 南京攻略...

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【1[斎藤次郎(=偽名)]陣中日記】

P.3
1[斎藤次郎]陣中日記

所属:歩兵第65聯隊>本部通信班>行李・編成
階級:輜重特務兵(1938年1月一等兵に進級)

10月12日 火曜。小晴。蔡寧宅へ移動。軍用路を敷設後の雨で人馬ともに難路。到着後師団司令部まで電話線架設。
     壕の中で宿営。2、3前に出来た腫れ物が痛む、寒さで度々目を覚ます。

10月13日 水曜。晴。壕から出ると小銃弾が飛んでくる。友軍機の空爆が3、4km先に見え、地上からは野砲を撃つ。
     目前に野砲陣地があるので砲撃音が地を揺らす。現在地は連隊本部から2.5kmの第13師団司令部のある
     陳家宅。夕方より敵撃退の為の野砲の猛射。郷里の秋祭りの花火大会のようである。
     砲声が増加するとともに敵小銃弾が雷雨のように降り注ぐ。20、30間(約36〜54m/1間=1.81818m)の
     クリークへ馬の水を汲みに行く。午後8時頃司令部全面の田圃に迫撃砲弾落下する。壕の中で就寝。
     コオロギが無心に鳴いている。

10月14日 木曜。快晴。砲声の中でシャツ、靴下、ゲートルを洗濯。戦友の子供(7歳)からの手紙に胸を打つ。
     昼食後家に手紙を書く。何時差し出せるか判らないが大阪で写した写真を同封する。1町先(約109m)の
     野砲陣地に行き様子を見て威力に感心する。しかし、敵陣地強固な為効果が少ないと言う事らしい。
     司令部の参謀も相当悩んでいるらしいと聞く。前仙台104連隊は敵前20、30mで24時間も停滞している
     らしい。今夜は敵の夜襲の警戒への訓示がある。今夜も狭い壕の中で秋虫の声を聞きながら就寝する。

10月15日 金曜。晴れ。郷里の祭の日。戦友と雑談する。昼食後野戦郵便局へ行き手紙を出す。敵の散在する塹壕を
     見る。野やクリーク内に亭の遺体が散在し腐敗している。軍馬「高瀬の墓」という墓標もある。
     目に見える家屋は砲弾で破壊されている。敵は頑強で戦況膠着。4、5日ぶりに右手の腫れ物も膿みが
     大量に出る。壕の中でローソクをつけてハガキを書く。

10月16日 土曜。晴。腫れ物の経過がよいので安心。夜は敵弾飛来多く危険。支那兵1名の鹵獲がある。
     通訳の前で両手を合わせて命乞いの様子。支那兵らしい態度。馬も滞在で悪路行軍から回復。戦傷者後送。
     午後4時、第65連隊へ三家村の前線への展開命令下る。旅団の司令部へ戻り待機。宿営。寒さで眠れず。

10月17日 日曜。晴。郷里の鎮守の祭の日。稲刈りに忙しいだろうと思う。連隊本部へ器材運搬。
     敵弾盛んに飛来し危険。休息時に敵迫撃砲弾付近に着弾で小屋の屋根から土が落ちる。
     非常に危険で通信班の馬は旅団司令部まで後退。途中愛馬が敵弾の為戦死。聯隊長の愛馬も負傷。
     夕食を作り郷里の神社へ武運長久を祈る。戦友に会う。午後10時敵夜襲の警報で目が醒める。
     敵弾が飛んでくる。現在地は大家橋、連隊本部は櫓網湾。腹の具合が悪い。

10月18日 月曜。晴。下腹の具合がよくない。日中は暑いが夜は寒い。敵軍の一部が退却したらしい。
     敵塹壕に籠もり頑強に抵抗。友軍にも相当犠牲を出す。戦況膠着。支那に来て一番驚くことは
     水質の悪いこと満足な井戸が無く、雨で路面に溜まった水が井戸に入って行く
     不潔を苦にしない国民性と思う。午後1時頃交戦激しく。第104連隊が落とせなかった敵陣地を昨夜の
     攻撃でその一角占拠。午後4時蔡寧宅に戻り大行李の補充へ行く。金沢部隊の戦傷者が続々と後送されて
     来る。帰営後我軍の砲弾で破壊された屋根から14日の月光を受ける。

10月19日 火曜。快晴。午前1時少し腹痛で目を覚ます。銃声が途絶えている。満月間近で明るく屋内を照らす。
     たまの銃声が明け方から友軍の激しい銃砲声が始まる。昨日馬に足を踏まれ月浦鎮への予定を休養に変える。
     我軍の銃弾が柱を貫通して僅かに出た所で止まっている。銃弾を記念に。中支の気候で内地を思い出す。
     10月11日発行の朝日新聞を見る。内地の新聞が見られるのは珍しい。

10月20日 水曜。快晴。明け方までに3度も用便に起きる。きりきり痛む。戦友に胃腸薬を貰う。
     戦友たちと愛馬の白玉が往復8里(約32km)の月浦鎮へ行く。

10月21日 木曜。快晴。月浦鎮へ向かった戦友が午前3時に帰営。
     愛馬白玉倒れて倒れたとのことで止む得ず捨ててきたとのこと。見かけによらぬ事で残念。
     食事が僅かしか取れず歩行も苦労する。望郷の念が湧き淋しい。

10月22日 金曜。快晴。三家村の敵陣も攻略に苦戦して膠着。上海群司令官からの訓示有、攻撃を盛んに加える。
     午前9時受診に行く。戦友の話では、工兵隊が爆破坑を掘削中とか、敵迫撃砲の為、3、4名が戦死とか
     戦場らしい話を聞く。飯の副食もない。味噌も昨日でなくなる。故郷を想う。

10月23日 土曜。快晴。昨夜敵空襲有、大きな爆音で目を覚ます。午前2時、用便の際、友軍の小銃音が偶に聞こえる。
     朝戦場の砲弾で折れた木にかわいい雀がさえずっている。廃墟の裏の金木犀の香りがする。戦場での慰め。
     受診。家に白金懐炉、胃散、メンソレータムを送ってくれるよう手紙を出す。

10月24日 快晴。快晴で交戦活発。三家村も仙台第104連隊が占拠。我が第65連隊も苦戦の為多くの戦傷者を出したと
     聞く。通信班からも2名戦死。今日は復調。夜空襲があるが空爆されなかった。

10月25日 快晴。砲声盛ん。診断所の裏でサイダーや角砂糖、森永キャラメル1個を買う。久しぶりの糖分で子供の頃の
     ように美味しく嬉しさを感じる。戦友に分ける。戦友から内地からの便りを受け取る。家族からの言葉に
     感謝で涙で目が曇る。第65連隊全面の敵以外は退却したらしく随分静か。

10月26日 晴。受診。昨日購入のサイダーを薬のように少しずつ飲む。砲声盛ん。体調回復。
10月27日 快晴。午前9時受診。大場鎮が友軍の攻撃で燃えているとのこと。猛煙で想像できるほどの火災。
     身内と友人から手紙を貰う。15日に招集を受けて若松で入隊とのこと。故郷も招集が相当あったらしい。
     補充隊が続々合流。仙台第104連隊の補充隊などは銃から水筒、飯盒までちゅう事か。
     家の愛馬も徴発になったか心配で手紙を出す。グリコに舌鼓。附録のオモチャを故郷の子供へ送る。
     午後8時老陸宅の敵陣へ猛攻撃。後方部隊で安全だが偶に小銃弾が飛来する。腹の具合又良くない。

10月28日 快晴。受診。調子はよいが無理はしない。硝蒼(*3)で夜2、3度小用に起きる。
     毎日受診後ブラブラしている。知人と身内にハガキ出す。不味い飯で閉口
     連隊本部では小銃弾が相当に飛んでくるとのこと。蔡寧宅の酒保で戦友に会い互いの健闘を祈る。

10月29日 曇、小雨。午前9時受診。随分回復。雨の為、屋根の雨漏りの備えをする。敵も大部分が退却したらしい。
     村人が戦死、戦友が負傷とのことで気分が滅入る。第65連隊の眼前の敵陣地は蒋介石直属の軍官学校の
     演習場跡地で相当な堅陣で、聯隊長、副官も戦死覚悟の突撃で戦傷者多数。戦傷者の身内の心情を想う。
     ハガキを書く。

10月30日 晴。受診に行く。連隊副官小畑氏戦死の報に接する。29日の戦闘で相当な戦傷者を出し、1千余名と聞く。
     通信班も1名負傷。獣医から子供等の写真を見せられて「死んではならないよ」と言葉をかけられた際は涙が
     流れる。夜上海方面盛んな砲撃と火災。

10月31日 小雨。戦場の雨は、軍用路が泥濘と化する。軍医部に行くのも苦労する。新鮮な野菜と綺麗な水が飲みたいと
     思う。知人と面会。物品を交換する。間近に停戦になるとか、年内に内地に帰れるとか噂話を聞く。
     身内に葉書を出す。大場鎮も占拠と聞く。

11月01日 曇。夜小雨。夜から南(上海方面)で砲声音が絶え間なく続く。今朝方母上と○○の夢を見る。
     何かあったのではないかと感傷的になる。連隊本部は他部隊と交代し劉家行へ移動。
     戦死者の収容など戦場整理を行う。戦友の話は涙が出る。塹壕中は腰まで泥水につかり、
     敵から機銃の猛射を受け、夜間突撃は戦友の亡きがらに躓き、戦友の遺体は腐敗臭と真っ黒に蠅がたかって
     いる。激戦に次ぐ激戦で戦友の遺体を収容できず、そのまま攻撃し、なんとか堅固な敵陣を落とし、
     亡き戦友に手向けの弔いになったと男泣きしながら語っていた。通信班が櫓網湾から通信機材を運搬の名が
     来たが、受診の為戦友が代わりに行く。故郷からの手紙には相当の動員があったと知らせがあった。
     愛馬を心配する。蔡寧宅に後退して初めて夜馬番に付く。

11月02日 小晴。午後雨。受診に行くが、軍医部移動で、代わりに獣医殿から人工カルルス泉塩(*4)を貰う。
     体も復調し、明日の移動に間に合ったことを神仏に感謝する。戦友の激戦中にも関わらず休ませてくれた
     上司の芳情に感謝。午後雨。明日の移動を思いやられる。知人にハガキを書く。

11月03日 曇。時折小雨。今日は明治節。皇運の繁栄、家内安全、武運長久を祈る。幕舎に日の丸と国歌が流れる。
     通信機材を運搬し、劉家行へ着。戦友と会い、前線の話を聞く、第65連隊でも、500余名の戦死者が出て、
     千名程の戦傷者、行方不明者が出たという。主に馬家宅攻略が苦戦だったとのこと。
     故郷では大騒ぎなるだろう。午後4時頃朱家宅着。戦友に乾パンとビール半分を貰う。
     水代わりに呑んだ為眼が回る。戦友の健在を祈る。帰営は薄暮の頃。途中の店で羊羹1本30銭、
     林檎1個15銭で、皆呆れて買うものは居なかった。酒保でサイダーとお汁粉を買い、サイダーを戦友と分ける。

11月04日 曇。休養。昼食は久し振りの新鮮な大根の味噌汁。昼は蠅、夜は蚊に悩まされる。
     或部隊にコレラ発生と聞く。本部近くで迫撃砲が落下。

11月05日 馬家宅方面には敵堅陣がありでは昨夜から明朝に掛け盛んに交戦。休養。親類に手紙を出す。
     上陸後初めて風呂に入る。夜雨足が強い。寝台で寝たが小用に3度も起きる。

11月06日 曇。食糧を積載し第1大隊と聯隊本部へ届ける。内地よりの手紙を沢山受け取る。
     帰営途中に嬉しくて涙を流しながら読む。内地では変わりないとのこと。身内の写真を送ってくれた。
     北支に集成している戦友からの手紙では、何年ぶりかの雨で洪水とのこと。支那の情報として経済不信と
     弾薬などの補給物資も不足で、蒋介石の南京脱出を伝えてきた。今晩馬番。

11月07日 雨。戦場の雨は辛い。歩哨の交代から就寝中に、破れた屋根から雨が降り注ぐ。戦友がその中で眠っている。
     今日の勤務で腰から下が泥まみれ。しかし前線で腰まで泥濘に浸かって交戦している友軍兵を思えば我慢。
     
雨が酷くなり家の中に入れる。

11月08日 晴。予備兵編入となり羅店鎭の東北1里(約4km)の地点より木炭を往復6里(約24km)の聯隊本部へ届け
     る。途上泥道で難航。大きな街の羅店鎭も戦闘で破壊されている。橋は落ち、電柱・自動車は焼け、
     壁には至る所で小銃弾の後があり、砲弾で大穴が空いている。激戦の後と判る道端、田畑、クリーク内にも
     多数の敵兵の屍体が散乱。所々に偵察楼があり、日章旗が掲げられている。今日は交戦は無い。

11月09日 快晴。昨夜から冷え込み厳しく、破れた屋根から星が見える。余りの寒さに午前3時頃焚き火をしている兵も
     居る。天気が回復すると元気も出る。大砲音も少なく友軍機が空を飛ぶ。戦友が早く凱旋がしたいと
     口グセになる。

11月10日 快晴。10月28日の朝日新聞を読む。戦死者が発表されている。本日も休養。炉を作る。
     新聞の報道では上海戦局は勝利し、戦闘は南西に移る様相を知らせている。27日の陸軍省発表として
     日支事変の両国の戦死者数が明示されている。【参照】 午後酒保平気、戦友に会う。知人が戦傷し、
     見舞いに行く。

 

11月11日 晴。聯隊本部の連絡兵に任じられる。直からの便りが来る。郷里の細々とした様子が書かれている。
     知人や身内の様子に涙が出る。東京の知人から郷里に千人針が届いた。

11月12日 曇、雨。明け方通信班に情報が頻繁に入る。全戦の敵退却を開始、第11師団が南翔から嘉定方面へ前進。
     第65連隊は追撃開始。正午12時30分出発。本部は雨が降り出す中午後3時発。羅店鎭の2里半(約10km)
     北上。途中敵空襲にあい馬3頭、10余名の戦傷者を出す。本部は楊家橋に移動。宿営。
     衣服が濡れて気持ち悪い。

11月13日 晴。明け方800m先の呉家宅に本部移動。昨日の空襲は友軍機の羅店鎮を嘉定と間違えた為による誤爆で
     あり、死者が4名、重慶商者多数、馬4頭が死亡した。面白い話をするのが得意な戦友が戦死した。
     残念な事である。間食にかぼちゃの塩炊きを食べる。銃声が直ぐ北側でする。

11月14日 快晴。銃声も多くなく静か。第65連隊も前進を重ね拠点が判然としないので、大行李の部隊が行方不明と
     なる。糧秣受領に戦友が出る。戦車部隊が朝食休憩している。その十数台を見学する。北支の状況が収まり、
     補充兵が上海方面へ回ってくるとのこと。嘉定も陥落と噂を聞き、上海も間近と聞く。午後2時頃、
     25、26歳の支那人のスパイらしき人物の銃殺されるのを見る。聯隊本部が何処に移動したのか調べて
     いたらしい。嘉定方面に火災がある。支那の農夫が呉家宅に順々にもどってきた。

11月15日 小晴。午後曇。午前中洗濯。この附近の家屋は殆ど焼け壊れている。支那の農民夫婦が戦闘が終わったと
     みて、戻って来た所、壊れた家を見て茫然としているその様子が余りにも哀れで、敗戦国民の悲惨さを
     憐れんで、昼食の残飯と白米を施す。此の頃になると給養も良く物資が豊富になる。
     白菜汁や南瓜汁も作れる。獣医を訪ねに本部へ行くが行方不明。本部の大行李部隊も帰隊せず。
     給養は他部隊から分けて貰ったり、本部に輸送しているらしい。葉書を書く。

11月16日 曇。雨。朝方から雨。現在地は劉家行に滞在儘。本部は塗淞鎭に。大行李は未だ行方知れず。
     牛肉と白菜汁を食す。上海方面の気候は暖かで、日中は蠅が黒山のようになっている。明日塗淞鎭へ向かう。

11月17日 小雨。通信班は支那人4名を荷役に使う。雨で泥濘になり行軍難航。戦友の愛馬がクリークの危険な橋で
     踏み外し死亡する。
無惨な様子で涙が出る。戦友も橋からクリークに落ちる。銭家宅から約3里(約12km)
     の所に宿営。夕食後付近に支那人が居るので歩哨に立ち警戒する

11月18日 小雨。小晴。午前5時起床、午前8時半出発。今朝方支那人が煙草を吸いながら人前で用を足している
     
そう言う所は支那人らしい呑気さか。
前日ほど難路ではない。午前中友軍の姿を見ずに敵国の中を部隊より
     離れて行軍は心細い。午後2時頃道路に出る。東京第101連隊の兵が南下しているのに遭遇。陸渡橋を通過。
     見る陰もない程焼き払われて、日本軍に抵抗したと思われる支那人の遺体が途中沢山ある。
     差程に激戦地帯ではなかったのか、荷物を担いだ農民達が戻って来た。敗戦国の国民は惨め。
     更に行軍して軍用道路に沢山の戦車隊や砲兵隊に遭遇。途中、戦車がクリークに落ちたようで泥だらけに
     なっている。見知らぬ土地に言葉が通じないのは不便この上ない。陸渡橋より約1里(約4km)北方の
     無名に宿営。午後10時〜11時迄歩哨。

11月19日 雨。午前5時起床。出発準備中、獣医の命令で、先日の困難を思いホットする。ただ、馬の糧秣不足が心配と
     なる。部隊とも連絡が取れず所在もわからに日が続き不安。【大日本帝国軍人歓迎】と書いた布片を胸につけ
     ているが敵国なので不慮のことを警戒する。兵・馬の糧秣の徴発が優先。昼食は甘藷(サツマイモ)で腹の
     足しにする。紅葉で晩秋を知る。糧秣不足の為、午後戦友と徴発に行く。酒を徴発してきたので、
     盛り上がる。桶狭間を思い出し、敵国にて油断出来ないので午後11時より12時迄歩哨。

11月20日 雨。塗淞鎭へ行軍。途中のは白旗を家ごとに高く掲げている。本道に出るが泥濘化しているので旧道を
     行く。クリークの橋で馬が落ちたが、怪我無く無事で安心する。騎兵の機関銃隊が30、40騎ほど追い抜いて
     いく。残敵情報があり掃蕩へ向かうとのこと。午後4時塗淞鎭へ着。本隊は不在で失望する。
     糧秣不足の為、制限して無駄の無いように、そして徴発するなどの訓示がある。病人が3名も居るので、
     明日1日休養し、1班を割いて部隊の所在を探索へ向かわせる。馬糞の上に藁を敷いて就寝。

11月21日 雨。徴発。発見を恐れ土がかぶせてある敵の隠蔽されたトーチカを見る。午後は塗淞鎭の町内を見学。
     「日本軍歓迎」「大日本万歳」など書かれた紙や日の丸などが各家の戸口に貼ってある
     支那の営業している店で、支那饅頭を4、5買って食べる。記念に法幣の銀・白銅貨を5、6枚と両替する。
     
正午みぞれになる。今までにない程寒い。何度も目を覚ます。

11月22日 晴。午前4時から5時迄、戦友と二人で馬番。午前8時出発。目当てと目的地が不明で不安な行軍となる。
     塗淞鎭より上海から南京を結ぶ道路に出る。道沿いの行軍途中支那兵の遺体が散在している。
     道路側の民家は大部分が焼かれている。午後3時支塘鎮を通過し白苑鎭に着。宿営。主要道路に沿ってから
     他部隊の車輌や砲兵部隊などが居るので安心する。途中移動の酒保で、羊羹1本10銭2本を買って食べる。
     明日の行軍の協議がある。一日でも早く合流の為この主要道路を前進することになる。

11月23日 曇。午前8時30分発。支塘鎮より右に逸れる軍用路があり、一旦戻る。支塘鎮で本隊追求できるとのことで
     8里(約32km)の行軍で中止し、宿営する。明日、連絡兵を出し本隊の所在を確認することになる。
     味噌はなくなり醤油・塩も僅か。
     愛馬の泰容まで倒れる。涙が出る。けなげに体を起こそうとするが起こせない。

11月24日 連絡兵が出発。シャツと国旗を洗濯。馬が起きていたので体を水洗いする。連絡兵が戻ってきて支塘鎮に
     師団が、更に15、16里(約60km、約64km)先に連隊が居るとのこと。軍行路を他部隊が泥濘で難航し
     塞がれて戻れず滞在。鴨・豚などを徴発。第13師団は支塘鎮より南京に進軍するとのことで、部隊もこの
     主要線を南京へ向かう。上海よりの主要線に沿う民家は殆ど焼き払われ、白苑鎭でも民家は燃やされ破壊
     され、風に乗り延焼している。戦禍の悲惨さは実際に参戦したもにしか分からないだろうと思う。

11月25日 晴。霜。午前出発し、支塘鎮で補給部隊と徴発部隊に別れる。昼食後入浴。夕食は赤飯。
     毎日牛肉と豚肉の汁物だが葱も有ればと思う。味噌・食塩を10日分余りを調達。少し滞在。
     午後9時より10時迄馬番。

11月26日 晴。霜。北面は薄氷張る。連絡兵が出る。自分は馬糧秣を徴発。支那人4名を使役し、午後休養。
     第13師団の位置が判り、明日4里(約16km)先の常熟へ行軍。

11月27日 午前1時より2時迄馬番。午前8時30分発。第13師団の輜重隊に合流。郷里の戦友に会う。古里村通過時に、
     激戦の後の塹壕や敵トーチカなどを見る。17、18位の学生風の武装した青年の遺体を見る敵兵遺体が散乱
     橋は落ち、家屋は焼却され酷い有様。午後4時に常熟着。大きな街だが日本軍しか居無い。大量の砂糖の徴発
     が出来る。行軍に疲労した馬の心配をしたが滞在なので安心する。

11月28日 晴。休養。常熟の街中を見学。相当に戦禍を受け、破壊されている。2、3箇所で燃え続けている場所がある。
     各所に抗日の宣伝文が書かれている。九重の塔がある。毛布を2、3枚徴発する。夕刻瓜や人参、梅の
     美味しい漬け物を徴発。

11月29日 晴。小霜。午前8時発。西進。途中敵遺体が数多く散乱。自動車などに轢かれて損壊が激しく惨憺たる有様。
     行軍は妨げが入らないのでスムーズに進む。午後3時30分、無名に宿営。馬糧を徴発。
     午後10時より馬番。

11月30日 晴。霜。馬の疲労が激しいの暗示ながら出発。寒さに故郷の身内思いやる。途中の田畑は全て耕起して
     麦蒔きがして有る。安鎭站を過ぎ、東亭站では、敵との交戦が激しさで家屋や橋が破壊、焼却された橋を
     工兵隊による修復がしてある。道端や田圃の中に敵遺体が無惨にある。午後3時、無錫着。人口30万の街との
     こと。桑園や松の木などがあり懐かしい感じがする。町外れの民間で宿営。火事の延長が近くなり歩哨に立
     つ。連絡班が帰営。

12月01日 晴。曇。午前0時より1時迄歩哨。五時起床。本体合流の為出発。無錫市内には敵兵の遺体が散乱
     合流できずに予定地までも達せずに宿営。砲撃音が近くに聞こえ出す。

12月02日 晴。午前9時出発。午前中本部に追求予定。荻洲第13師団は江陰城攻撃とのこと。南京主要道路を右に北進、
     南閘鎭に向かう。途中敵遺体は見えないが、○○位の子供が田圃の中で餓死したのかの遺体があった。
     別の場所には母と乳児の遺体があった。敵国の者であっても、子供など罪無い者の哀れな姿に涙が出る。
     途中の民家も大部分が焼き払われている。途中第13師団の爆薬集積所や糧秣受領所があり、本隊に近づいた
     様である。午後0時30分、南閘鎭着。大行李に合流、戦友に久しぶりに会う。行軍中の苦労話で華を咲かせ
     る。午後4時頃友軍の加農砲が4、5間先(約7m、約9m)で砲撃を開始し、地面が揺れ馬が驚き騒ぐ。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 晴。午前2時馬番。早めの朝食後の仮眠。午前7時発。江陰城へ向かう。既に両角部隊が一番乗りをし、
     陥落している。江陰城入城、昼食後、金山に登り揚子江と支那の軍艦二隻が撃沈されて後を眺める。
     江陰の街から近郊が一望でき、戦禍のあとが見え、悲惨さを思う。戦勝祝賀に下給品があり各所で
     万歳三唱が上がる。馬も無事到着し、長い行軍が無事であったことを神仏に感謝する。

12月04日 晴。安心した為、ぐっすり眠る。休養。徴発。洗濯。この頃は風土にも慣れ隊長良く肉付きも良くなった
     午後は馬糧の徴発に出る。

12月05日 晴。朝氷張る。午前中入浴。又金山に登る。昨日より火災が増え、無数に白煙や黒煙が上がっている。
     揚子江の北岸を海軍機が盛んに空爆をしている。夕食は小豆のあんかけ。郷里でおはぎの味を思い出す。
     馬の鞍傷が気になるが戦場なので仕方がない。第65連隊の補充兵430名が来るらしい。

12月06日 晴。氷張る。金山麓にて聯隊長の御令旨伝達、補充兵員への訓示が有った。江陰要塞を見学に行く。
     かなりの砲門をすて退却した敵兵のふがいなさを思う。補充兵の中に知人と会う。午後は愛馬の装蹄を代えて
     もらう。煙草3個、菓子2袋、その他缶詰などの配給がある。家へ手紙を書く。午後10時、福島市長の佐藤卓氏
     より祝電がある。

12月07日 晴。霜。午前4時起床。鎭江に向かって7里半(約21km)の行軍。通信機材が重いので馬の苦労を思うが
     無事宿営地の芯密鎭に着。糧秣不足。汚水での炊事などこなす。

12月08日 本部と別れ通信班は機材等で幹線路で行軍する事となる。午前4時出発。宿営地着後の足が疲労で中の炊事は
     辛い。無事行軍終了。馬も何とか無事。毎朝神仏への祈願のお蔭と感謝する。戦友に会い砂糖をもらう。
     知人の消息を聞く。鎭江方面から砲声が聞こえる。

12月09日 晴。午前4時起床。いつもの朝のお祈りをする。昨日の行軍での疲労が残る中午前8時出発。
     通過したの焼け落ちた某家の前に年端のいかぬ幼女が2名立っている。哀れに思い僅かな菓子を遣る。
     嬉々としする姿に更に哀れを誘う。わが子を想い目頭が熱くなる。橋が焼かれて破損している為、挽馬が
     難航。夕食は味噌も醤油もない塩と砂糖の汁物。小麦粉を徴発し、砂糖団子にする。民家の土間に宿営。

12月10日 曇。午前5時起床。今日もお祈りをする。午前7時発。馬が疲れて思うように進まない。鎭江の手前3里程
     (約12km)で馬が後ろ足を痛めて倒れる。鞍、機材を外しても立ち枯れず。第1有線班9名全員で、
     何とか馬を起こして橋を不発弾が転がっている中渡る。鎭江附近の招呼站には敵塹壕があり友軍が盛んに
     砲撃している。夕刻鎭江着。城内は電灯がある。知人の戦友に出逢い少し言葉を交わす。9月の動員から
     3ヵ月が流れた。内地も寒くなったと思う。郷里の父親や家族のことを思い涙する。

12月11日 晴。午前9時出発命令。本道をそれ右へ行くが、危険な部分が多く冷や汗が出る。1里(約4km)で休憩中食。
     挽馬の予備兵となる。路面を掘削し、行軍を妨害している数ヶ所あり、難航。連隊の最後部まで落ちる。
     別部隊の知人と一瞥する。午後7時、大規模な永泰第一蚕種製造所宿営。3、4にち滞在とのこと。

12月12日 晴。出征して3ヵ月になる。暫く故郷からのも通信がない。家内安全と武運長久を神仏に祈る。
     戦友2名が糧秣の補給に鎭江へ向かう。徴発へ向かう。滞在予定が、明日出発の命令が出る。
     愛馬を疲れを思いやる。洗濯。突然午後5時出発。食準備で作りかけの夕食をそのままに、準備。
     夜間行軍約3里(約12km)は馬が転倒するような細道。橋頭鎭の一に宿営。

12月13日 晴。午前5時起床。朝の礼拝。行程10里(約40km)程度で、途中山岳地帯では、トーチカや塹壕があり
     敵が抵抗線の準備途中で放棄している。日本軍追撃が早く放棄した模様。友軍機による通信筒で南京の敵は、
     後退を始めると、混乱しているとの情報。夕刻南京東、約4里(約16km)の一に宿営。
     夜7時頃大行李第2大隊の2名が敗残兵1名を捕虜にしてくる。一人の将校が軍刀で処刑を試みようとした際、
     逃走を図り、追いすがって銃剣を突き立てる。昏倒した逃走捕虜を先ほどの将校が切りつけて斬殺する
     首をはねるつもりが頭を切りつけたようだ。初めて人に刃を向けた。敵兵は26歳ぐらいで、痛快と思う半面
     同じく妻子もあろうし国難に当たった者として同情と憐憫の情が湧く。早朝出発予定で、午前0時就寝。

12月14日 晴。午前4時起床。朝の礼拝。午前5時出発。行軍約半里(約2km)で前方で、手榴弾らしき爆発音がする。
     左側の斜面から敵が投下か路面の罠かで、機関銃隊5名が戦傷。夜間行軍は危険が伴う。小銃音も聞こえる。
     
明けて、第1大隊が敗残兵を捕虜に、その数5、6百名位。前進するに伴い数が増える。午後5時頃までには、
     数千名にのぼり広い場所が人だかりとなる。若くて12才位から年長者は50才を越えた位。服装も雑多で、
     兵士とは思われないよう。
山田旅団調べでは1万4千余名。入隊以来の痛快時。この辺一体は幕府山要塞地帯で
     鉄条網・塹壕などがある最後の抵抗線の模様。夕刻宿営地に向かう。自部隊の小行李一団は十字路で右を左に
     間違えてようやく南京城より約1里半(約6km)の支那海軍の海兵団宿舎に着く。夜に南京上空が真っ赤で
     沢山の地点で火災があるように見える

12月15日 晴。午前7時起床。朝の礼拝。本日滞在。歩兵は敗残兵掃討の為、午前9時要塞地帯へ出発。
     自分と3名で馬糧を徴発。馬の治療。本日も5、6百名を捕虜にしたと聞く。

12月16日 晴。霜。徴発と幕府山要塞へ昇り砲台見学。午後休養。東京日日新聞記者からの托便で身内からの便り3通
     もらう。故郷の消息を知る。南京陥落の報に接し、戦勝で部隊の部屋のあちこちで、歓声・歌が等が
     上がっている。場所は、南京郊外海軍水雷学校校舎。

12月17日 晴。本日南京入城式。各班勤務者以外は参加。小行李班では自分外2名が勤務で、他の班員が参加。
     午前中馬糧の徴発。今日は旧の油締め15日(*5)で砂糖小豆を食べながら焚き火を囲んで雑談する。
     揚子江渡河と対岸守備という噂が出る。避難民の有様を見たが実に哀れな状態で、どんな事をしても敗戦国に
     はなりたくないと思う。夕刻補充部隊150名着。郷里の戦友に会い消息を聞く。

12月18日 曇。寒。午前0時敗残兵の死体の片付けに出動命令が出る。小行李部隊全員出動。
     途中、数えられない程の遺体が累々とある。揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する。昨日の月光は雲で薄暗い。
     捕虜銃殺を行った12中隊(第3大隊)の戦友が腹部を貫通されうめき声が聞こえる。午前3時帰営。
     午前中、南京見学へ戦友3名と行く。城壁の大きさに驚く。南京市内は焼け、破壊されて悲惨。
     敵兵の遺体や武装解除後の武器が多数路端に。夕刻帰営、午後9時就寝。銃殺捕虜の死体処理(18日○時)。

12月19日 小晴。霜。氷張る。朝食後に南京碼頭の野戦郵便局に、郷里の身内、知人等へ南京陥落記念のスタンプを
     押した葉書を出す。今日は砲声も銃声もなく就寝。初雪が南京近くの山に見える。10月21日に倒れて別れた
     愛馬の白玉が戻ってくる。未だ足は良くなってない様子。

12月20日 晴。午前5時起床。朝の礼拝。愛馬の白玉・泰容とも行軍は無理と判断して置いていく。辛苦を共にした
     愛馬に申し訳なく感謝する。午前8時宿営地発。午後1時渡河。浦口も戦禍の後。一旦宿営地の浦口鎮につく
     が、大行李部隊と共に浦口へ戻り、午後11時宿営地に帰営。



【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。

このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、当初からの参戦組で、電話架設部隊であり司令部に出入りし、情報に接し安かった人物と言う事も判るが、後半は部隊と別れてしまい、ほぼ連絡が取れない状況と、前半は体調が悪く後方待機になっていたので戦闘や作戦に参加していない。兎に角筆まめなのか、やたら書いている人物で、疑問になる程である。
ただ、情の深い方のようで愛馬のことや敵兵・敵国民の状況に対する憐憫を良く書いている。12月9日の鎭江手前での破壊された家屋の前に茫然と立つ子供達に菓子を与えていることと、哀れさに涙を流している様子は人間らしい姿ではある。戦闘員と言うよりも後方部隊員ならではの殺意の無さかも知れない。良く郷里のことなども思い出している様子で、他の前線部隊の兵士と違い心に余裕がある生徒も考えられる。12月13日の鹵獲した敵兵への処分に関しては、斬首が適切行為かどうかは疑問だが、戦闘中であることを踏まえると非合法とまでは言えないと考える。
結論的には、この人物の記載の中には、【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
なお、幕府山に関しては、兵卒とは思われないような雑多な服装や、12歳位〜50を越えた様に【見える】敵兵の様子は、重要な記述考えられる。この人物は、支那海軍水雷学校校舎に宿舎とあるが、魚雷営近辺ならば16日の火災とその後の捕虜の処刑について書いていないことは、17日の遺体についての事は書いているのに全く奇妙なことである。17日は避難民の有様を見たが実に哀れな状態を記しているが、何処で目撃したのかも書かれていない。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*6)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この堀越という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*7)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。むしろ、敵や敵国民に対する憐憫の情などが見られるように、ハーバード学派などの様な【思い込み】による【歴史認識】とは、全く異なっている。
このような【誤った認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】又は【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この日記では、棲霞山近辺での記述がない。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

 

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)大行李 第一線の部隊に緊急には必要としない糧食、衣服などを補給するための部隊 【Link】
(*3)次硝酸ビスマス 下痢、潰瘍などに用いる収斂薬 【Link】
(*4)人工カルルス泉塩 緩下薬・消化薬として用いられる。【Link】
(*5)油締め 冬支度をはじめる11月から12月にかけて油ものを食べる風習 【Link】
(*6)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*7)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


ZF殿サイト及びTwitter
・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
・ZF殿のTwitter 地理のスレッド 【Link】
・ZF殿のTwitter 収容所の位置 【Link】
・ぎよみどん殿のTwitter 幕府山の画像(7年後の1944年撮影) 【Link】

 


【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】への反論前の研究ノート その18

2020年04月01日 14時31分46秒 | 1937年 南京攻略...

 

【1.人口問題関係=>3.南京城の周辺は無人地帯ではなかった&城外の人口の資料】
この南京事件FQAサイトのこの記事の【主張】について反論する前に、情報収集として城外に大量の非戦闘員が居たのかという記録が無いかを調べてみる。
初めに、小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』から始めて見る。
因みに、【引用】ではなく、当方の要約である為、個人の印象や判断は異なるので、原文は書籍(*1)を読まれることをお薦めする。

 


【2[堀越文男(=偽名)]陣中日記】

P.57
2[堀越文男]陣中日記

所属:歩兵第65聯隊>本部通信班(有線分隊長)・編成
階級:伍長

10月03日 虬江碼頭に上陸。見る限りの建築物全て破壊されて無惨。西の前方に砲声が続いている。
        ここから上陸したのは7師団だと聞く。戦闘は有利に展開と聞くが前進は容易ではないらしい。
        着港前に草の中の腐敗した支那兵の遺体がある。臭いが酷い。
        日本軍人の戦死場所があり、板杭に名を書き花を供える。虬江碼頭の戦いに脱帽し敬礼する。
        上海市外へ2里(約8m)行軍。午後9時上海着。日本人経営の紡績工場に宿営。

10月04日 午前4時急な起床。朝食準備後少し仮眠をとる。朝食後の午後8時30分。
        第123班整列の上、大隊並びに旅団司令部への連絡に任命される。現在地上海楊樹浦大康紗廠。
        午後酒保でビール(20銭)、サイダー(13銭)などを購入。市外で戦友に会う。

10月05日 午後8時整列時、敵機襲来。探照灯交錯して、高射砲音は凄まじい。両角部隊月浦鎮に行軍。
        途中の永安宿営の兵に聞くと昨日までの戦闘で1大隊200名の内は50名は戦死との事。

10月06日 午前7時、濾水車(*2)を運搬。重い為応援を頼む。道程は遠く、支援の予備班は午後4時に戻る。
        帰家宅東方に至。鹵獲された支那人の女性と子供が銃殺となる。惨い事でこれが戦争と思う。

10月07日 雨。幕舎雨漏りで、寒い。夜毎に寒くなる。道路も五寸(15cm)の泥濘となる。
10月08日 雨。濾水機を使って川から水を濾過して、米を研いで飯を炊く。
        その川を流れる支那人女性の遺体を見つける。戦争と思う。午後2時より徴発。
        泥濘に軍靴が没する中をめぐる。支那人家屋を物色し、支那人男女及び子供が、
        僅かにの1箇所毎に残留しているのを確認。の稲が刈られることなく腐っていく。
        感傷に浸る。

10月09日 遠近に砲音がする。三度の食事の使役。明け方雨が激しく降る。砲声鳴り止まず。
        電話があり李家綱の師団との連絡。

10月10日 雨。頭痛。少々休養。午後5時第1大隊増加の命が下る。夜砲声・機関銃の猛射音が近くに
        聞こえて来る。歩兵伍長に任命される。連隊は145名となる。雨が上がり、露営は5日になる。

10月11日 朝、聯隊長及び幹部へ任官の挨拶に行く。伍長になるも身なりと行動は変わらない。
        上等兵に昇格したときほどの喜びはない。

10月12日 曇。午前8時15分、帰家宅発。道泥濘難路。午後0時頃蔡寧宅北方の墓地着。墓地に露営。
        電話は現在地より、陳家宅の師団参謀の間を配線設置する。午後4時終了。周囲は綿畑。
        偶に附近に迫撃砲弾が落下する。

10月13日 朝冷えで、幕舎の外に出て火を焚こうとするが、何も無く竹の葉を何とか詰めて火を焚く。
        遠くに法幣の観測所があり気球が昇るのを見る。友軍飛行機が露営地に通信筒(*3)を落下させる。
        午後2時20分師団司令部に班長と共に行く、張家角より陳家宅に至電話線敷設は極めて困難。
        負傷者を多く出しながらも第1有線班が架設は適切。午後3時出発。
        途中のクリークに沿った塹壕の中に支那兵の多数の遺体を見る。山田部隊の第1大隊の死傷者は
        6名と7時頃電話がある。夜になり迫撃砲攻撃が激しくなる。

10月14日 朝は寒く、昼は暖かい。昼近くに幕舎内に青大将(へび)が出て大騒ぎとなる。
        午後少し通信演習。戦友の戦死を知る。午後5時40分、第4班は王家橋の第103旅団と櫓網湾の
        第65連隊の第1大隊の電話線の構築の命を受け、午後6時20分発。駄馬馭兵を含め9名で、
        劉家行十字路より弾丸が耳をかすめる中で西進。道を間違え敵中へ突入しそうになり引き返す。
        偵察を出し、8時50分目的地の第103旅団へ到着し、9時15分より構築開始。
        敵弾の中完全埋設を完成し、午後10時50分第1大隊に戻る。大隊長よりパンを賜る。
        旅団に戻り午後12時に出発。陳家宅に宿営。

10月15日 蔡寧宅第65本部へ7時50分帰着。大隊長より両角隊長に対する伝言を伝える。
        【部下を多く死なせて陳謝致します。今後戦法を変えて努力いたします云々】と。午前中休養。
        午後より掩壕構築の演習。夜は同課目の夜間演習。

10月16日 午後2時30分、師団長より第65連隊へ連隊の大1個大隊に前線へ展開命令。午後5時30分発。
        兵は旅団司令部の王家橋に集結との命令を受ける。5時半電話撤収。午後9時頃着。
        本日より通信班となり郵便取り扱いとなる。

10月17日 家屋中だが迫撃砲弾落下し危険、、午前3時に追撃戦闘の準備。敵夜襲があり、
        前後に凄い量の迫撃砲が撃ちこまれる。電話故障で寝られず。第一線は損害無し。
        第9中隊が三家村附近の敵を撃退。午後11時30分。敵弾激しく継続的に撃ちこまれる。

10月18日 晴。第1大隊方面の断線が度々あり、午前9時頃、第4有線班の後退の班が負傷する。
        午後4時過ぎ、決死隊で架線を再度引き電話が通じる。夜12時近く又断線。
        午前3時5分、第4班出動し直す。

10月19日 戦友の遺体が運び込まれる。涙が流れる。午前9時20分、1名負傷。又申し訳なく涙が出る。
10月20日 昨夜12時頃第1大隊断線。明朝まで補修を試みるが、敵弾丸の火勢強く不可能。
        架線大量に損壊し電話故障。明け方迫撃弾附近に落下し、誰か2、3名負傷。
        午後7時に架線通じ、午後2時より再び断線。修復に出発。午後1時5分に1名負傷し、
        1名戦死を知る。入隊より寝食を共にした戦友である。我慢しても涙が出る。
        迫撃砲の落下が止むと故郷を思い出す。

10月21日 昨夜より第1大隊方面断線。架線する為に泥濘の中を前身泥だらけに成ながら再構築する。
        下痢の為、午後休養。

10月22日 戦友1名負傷。下痢。休養。正午を期して師団からの反撃で砲声が盛ん。昨夜の敵砲撃激しく、
        砲兵隊の幕舎が被弾。第12中隊2名戦死、第2大隊正面に夜襲有り、
        敵を引き付けて猛射をあびせて撃退したらしい。第2大隊は第1大隊と後退となる。
        しかし第1大隊残余人員僅かに60人余りとなる。電話線に問題が無く穏やか。

10月24日 迫撃砲弾諸処に落下して、戦傷者が出る。戦友1名負傷。迫撃砲夜に入り益々激しくなる。
10月25日 晴。朝寒い。日中は暑いが夜半に寒さが増す。補充員到着5名増加。迫撃砲以前落下。
10月26日 午前、補充部隊の第5中隊に郷里の知人を見つける。
10月27日 温かい日が続く。午後4時、補充兵を加え反撃。
        郷里の知人に葉書を書く、郷里からの頼りを毎日待つ身。

10月28日 晴。午後の手紙と『耕人』(*4)に応募した『白い沼』が入選に。だた鍵山氏の講評は老朽とある。
        夜兄からの手紙が届く。

10月29日 今日、連隊は全滅を覚悟の総突撃となる。未明より第1銭の塹壕へ前身。
        三家村東北方の地点で一夜を明かす。迫撃砲は各所に落下。友軍機による爆撃。雨降り出す。

10月30日 連隊は第104連隊と交代の為、王家橋に9時撤収し後退。午後1時着。副官の小畠哲二郎少佐戦死。
10月31日 雨。休養。夕方上海へ電池を取りに行く。小唄を入れた戦時小説4点ばかり書き、
        『耕人』に送ろうと思う。

11月01日 戦死者2名が荼毘に附される。午後5時王家橋発。通信機材の配線の損壊が使用出来ない程酷い。
        野戦局も移動。劉家行は南進すれば上海、北進すれば羅店鎭という交差点。
        明日第11師団と夜警の交替をする。第4班の5名出発。

11月02日 8時半整列。第11師団と交代。羅店鎭との中間地区の斉家村に聯隊本部が置かれる。
        金家店第3大隊、蘇家宅第1大隊、白沼第2大隊配備。

11月03日 明治節。劉家行で聯隊長音頭で万歳三唱。雨止み、午後1時頃悪路をようやく斉家村に着。
        敵前を各大隊へ配線を架設。

11月04日 午後2時半、迫撃砲が各所に落下し、小銃弾耳をかすめる中第1大隊連絡へ。
        守備隊2日目、斉家村へ戻る。戦友3名の尽力で毎日の食事が旨い。

11月05日 曇。午後手紙が来る。これに勝る楽しみはない。小銃弾耳をかすめる中第1大隊へ連絡へ行く。
        鍵山氏からの手紙に『耕人 11月号』を送るとの事。

11月06日 昨夜第3大隊方面に夜襲。200名を殺害、7名鹵獲聯隊本部へ連行される。
        戦友の2名が捕虜を斬首で殺害。

11月07日 雨。掩壕を掘る。水が湧出して役に立たない。
11月08日 晴。昨夜第3大隊方面に夜襲。夜葉書を書く。金家店第3大隊方面で銃声がする。
11月09日 晴。姉より手紙。連れて来られた捕虜を戦友が斬殺。夜近くに女性2名、子供1名が鹵獲されて、
        この3名も刺殺。夜食後戦友の買ってきたサイダーと蜜柑に舌鼓打つ。
        戦地の夜での楽しみというもの。

11月10日 午前9時、旅団へ兵器修理の為出発。午後4時内地より手紙が来る。
        押し花が添えられた郷里の二本松の女学校の慰問の手紙である。

11月11日 晴。昨夜午後9時30分招集。壕の掘削と警戒態勢。第2大隊方面の白沼で夜襲。
        通信班の新聞記事を書く。

11月12日 午前1時頃、第13師団羅店鎭北方へ前進の命が下り、午後1時前に出発。
        羅店鎭北方で友軍機による誤爆有り。暗く難路の夜間行軍で江楊家鎭着。宿営。

11月13日 午前6時聯隊本部出発。午後10時各班の撤収を見届けて出発。昨日同様今日も知人に出会う。
        連隊に追いつかず、某地の支那人家屋に宿営。支那人が快く接待してくれた。領事官の人物と同宿。

11月14日 午前7時発。夕方新道に出て路傍の寺院で宿営。領事官の室井氏も同宿。
11月15日 部隊に追求できず、支塘鎮を過ぎ、某所に宿営。
11月16日 午前10時30分、梅李鎭に第5有線班に合流。全員元気である。膝まで没する泥濘での行軍。
        午後6時頃1を見つけ宿営。3名で徴発に鴨、鶏の8羽、豚1匹と油と砂糖。

11月17日 午前6時過ぎ発。午前11時休憩中に連絡で聯隊本部の位置を確認。午後3時に本部に合流。
        本部の幕舎の家屋に宿営する所が無く、藁荷の下で寝所を作る。小銃弾が飛んでくる。
        前方に敵トーチカがあり頑強に抵抗している。夜雨。雨漏り。

11月18日 朝雨が止む。銃弾間近に耳をかすめる。午後1時聯隊本部前身中に右方面からの攻撃を受け、
        前進一旦中止。午後2時再び進撃開始をし傍街の中に侵入。側射を受け危険。雨降り出す。
        架線の配線が無く伝令となる事を覚悟で就寝。

11月19日 午前6時発の予定が、敵頑強で戦線膠着。滞在儘。午後追求部隊が到着、配線到着し、
        直ちに第2有線班で旅団司令部へ延伸架設。1名負傷。

11月20日 午前3時、謝家橋鎭発。暗闇の中泥濘の新設道路を行軍。昨夜まで頑強に抵抗した敵軍は退却し、
        散発的に敗残兵との交戦がある。謝家橋鎭の西方約2里半(約6km)地点着。午前8時25分頃、
        某で誠意兵を派遣し、初めて斬首。
        作法通りに行い冷静で落ち着いて行った自分に自信に驚く。西徐野に宿営。
        敵軍ほぼ退却し、鹵獲した敗残兵は使役させる者を残し、銃殺、斬首する。
        怒りの感情も無く、血しぶきを見ても心平静で、パニックを起こす事はない。戦場心理によるものか。

11月21日 雨。霧雨。寒い。南国着。
11月22日 晴。滞在儘。徴発。クリークにある支那人の船を止めて全て調べ、対岸に渡る。そこでも徴発を行い、
        帰営する。第1銭では敵2,000名程で頑強に抵抗中。旅団、前衛、第3大隊間に電話線架設。
        青空に故郷を思い出す。南国は家は汚く路面は悪い。

11月23日 南国午前6時発。西進。午前8時寺院に聯隊本部着。午前8時30分第10中隊方面地形に偵察。
        午前9時40分、第10中隊より敵情を報告を受け帰営。行軍。長経鎭の手前に午後3時30分着。
        夜風邪の症状が出る。敵頑強。無錫の一を占拠したと聞く。

11月24日 午前8時発。長経鎭に着。大きな街である。両角部隊は挺身隊の任を解かれて師団の予備隊に回る。
        休養。聯隊長より師団長よりのお褒めの言葉が伝えられる。午後4時45分、軍旗奉拝。
        皆涙を流す。長経鎭へ戻り宿営。支那人家屋では上等の家で就寝。

11月25日 午前7時発。西進して師団と合流。初司も。午前11時を始めに連絡将校に同行し2度師団間を
        往復する。第5中隊に戦死者が出たとの事で、知人の無事を祈る。

11月26日 午前11時30分発。午後4時過ぎ、祝塘鎮の宿舎に着く。夜刀の手入れ。
        【日本刀よきかかな日本刀! 人をきりたるあと歴然たり、心すむ如し】。
        夜チャンチウを飲み気勢を上げる。

11月27日 午前7時半発。午後4時王家村着。白い濁り酒を飲む。風邪で喉が痛む。
11月28日 午前7時30分発。西進。午前9時50分、青陽鎭着。江陰城への道路には野戦砲などの部隊が前進。
        午後4時頃南閘鎭の南方の塗鎭に宿営。夜戦闘激しさを増し、午後11時15分、1名戦傷。

11月29日 部隊出発、配線撤収の為9名と残り作業。前面の高地より敵より射撃を受ける。
        終了後、南閘鎭に入り宿営。衛生隊の知人に出逢う。

11月30日 午前6時頃、敵銃撃猛射を受ける。1個分隊を編成し、率いて本部の警備に付く。
        南閘鎭東部の高地を占拠。聯隊本部前進開始、敵退却。横塘鎮の南方小で猛射を受ける。
        夜となり露営。

12月01日 晴。午前8時30分発。江陰城西方の市外に侵入、被弾で軍旗小隊1名負傷。
        東京日日新聞社の石井記者に原稿を書いて渡す。前線は激戦。午後2時20分、
        両角部隊江陰城一番乗りを達成。西門に日章旗が翻る。第3大隊平大隊の殊勲。

12月02日 第3大隊により午前9時30分西門を工兵隊により破壊し入城。連隊主力は午前10時入城。
        第2大隊は吊鐘山占拠。連隊は吊鐘山に集結。軍旗奉拝。江陰城占拠。万歳三唱。
        新聞社の写真班により撮影。

【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】

12月03日 連隊本部は移動。侍従武官差遣さされ栄誉を受ける。小行李(*5)部隊等着。
12月04日 各部隊へ電話架設。日課の定例が伝達される。
        起床午前7時、点呼7時10分、朝食8時、会報診断10時、中食正午、夕食午後5時、夕刻点呼7時。

12月05日 晴。休養。4名で砲台見学。惨状より揚子江を望む。望郷念。
12月06日 午前8時、吊鐘山南麓で聖旨。午後出発準備。夜手紙を出す。
        小包みを受け取り上海へ不要機材を送り返す。昼頃無電で、南京陥落の報を受け、
        各場所で万歳の歓声が上がる。

12月07日 常州より鎭江へ向け行軍開始。江陰城正門より四叉路に至。行軍7里半(約30km)で本道側の
        一に宿営。夜第101師団により鎭江陥落と聞く。

12月08日 午前7時、尨窟鎭発。午前9時半常州着。夏野鎭午後5時着、午後9時30分、石橋湾着。
        昨日鎭江は午後3時陥落とのこと。

12月09日 午後8時発。殿となり落伍者を補足して同行する。牛に載って行軍。午後6時20分、本部に合流。
12月10日 午前8時発。鎭江に午後4時半頃着。大きな市街。宿舎は二階建ての洋館でよい。
        蓄音機、オルガンなど物資豊富。電灯も付き上陸後初めての宿舎。

12月11日 午前11時発。炭渚鎭まで旅団から電線架設する。丘の上の炭渚鎭蚕種製造場に宿営。
12月12日 午前7時起床。竹林の上空が明るくなる。桑畑の葉は枯れている。午後5時発。
        師団は南京攻略へ行軍開始。午後10時倉頭鎭に大休止。

12月13日 棲霞山に於いて第5有線班は分午村への電話架設。南京攻略戦は有利に展開で、
        3個師団城内進入し敵を掃討中と友軍機による通信。旅団司令部は前方へ移動する。
        残敵との交戦ある。

12月14日 未明、敵支那軍の工兵大尉を鹵獲。聯隊本部午前5時発。午後1時40分、敗残兵1名銃殺
        第1大隊は1万4千余人の捕虜を路上に監視。午後4時、南京城壁1km手前で支那軍大尉を斬殺
        午後6時40分頃、聯隊本部が到着する。

12月15日 午前9時朝食。午前10頃より徴発。何も無し。唐詩三百種の書籍1冊を持ち帰る。
        揚子江岸に捕虜の銃殺を見聞。30、40名毎に行う。

12月16日 東京日日新聞社の記者からの托便で知人からの手紙を貰う。
12月17日 午前8時、南京城へ向け発。午前9時30分、和平門より入城。入城式参加。
        午後2時20分国民政府楼上に国旗掲揚を見る。万歳三唱。軍事郵便局で葉書を出す。

12月18日 通信班数名と下関へ通じる線路を偵察。乗馬と自転車、徒歩。
        碇泊司令部に電話の架線を敷設する目的。

12月19日 連隊は揚子江を渡河し冬営の為、明日20日出発予定。
        南京城内で木炭製造の為のノコギリと斧の調達の命を受け、10名で南京城内へ。
        難民区で難民の売る平たいパンのような物と天ぷらを買って食べる。
        南方へ進み、良さそうな建物があり入ると炒飯を馳走してもらうもてなしを受ける。
        もの凄く美味しい。午後2時自動車で帰営。

12月20日 午後9時発。電話配線を徴発。聯隊本部は既に渡河。午後2時、浦口鎭着。煙草一箱400円もする。


 

【土下座強要派】の小野賢二氏の資料は、その【真偽】は兎も角、面白い資料である。このサイトや土下座強要派の方々から【幕府山】での【日本軍の犯罪行為】の【根拠】とされる文献だが、日記が本物ならば面白い事が判る資料でもある。
このサイトの方々の【事件】なるものの主張範囲は【《A》笠原十九司氏の南京事件の範囲開始】であるから、12月3日以降を見てみると、
この人物は、当初からの参戦組で、電話架設部隊であり司令部に出入りし、情報に接し安かった人物と言う事も判る。通常戦闘や鹵獲した敵兵の殺害などをこなしている。《A》の前日の江陰城を陥落後は、大きな激戦も無く、軽微な敗残兵との交戦に変化している。
この人物の記載の中に【一般人】が【大勢居た】ことも【民間・兵卒】共に【大勢が殺害された】こと等は、一切記述にないのは言う迄もない。
留意点としては、どうも【小説家・詩人】が志望だったようで、『耕人』という雑誌に自作を投稿したりしている。その為か文学的表現や若干誇張があると思われる様な記述がある。後の小説・詩の題材にと考えて居られて居るようにも感じられ、臨場感を伝える為の【弾が耳をかすめる】が好きなフレーズだったようである。実際に激戦だったので事実ではあったとは考える。12月6日には【南京陥落】という【誤情報】が伝わっているなど、【正確な情報】が伝わるのが難しい状況だったかが判る。
10月6日に支那人の女性と子供が銃殺となっているが、【理由】が不明確な為、どういう状況か判らない。10月8日にも支那人女性の遺体を見つけている。同日、見つけた支那人男女および子供を殺害したと言う事は書かれてないことか等を考えると、6日の銃殺には【理由】があるとも考えられる。11月6日には7名を斬首で殺害、11月9日も女性2名と子供1名が刺殺されている。これを不当な行為というには、国際法の知識やもっと詳しい情報が必要になるのは言うまでもない。この人物も11月20日には初めて鹵獲した敗残兵を斬首している。その他には荷役以外には銃・斬首で殺害している。この時平静だったとしているが、人を殺傷して平静でいられる訳もなく虚勢と文学的脚色だろうと想像する。12月14日の未明に鹵獲した敵支那軍工兵部隊大尉の斬首は、他の1万4千を捕虜としているにも拘わらず処刑したのは問題があるのではないかと考える。想像では大尉からの【助命】の拒否があったとも言えるが、情報不足では何と言えないが【問題】はあると考える。
なお、幕府山に関しては、17日は、司令部に居るにもかかわらず何事にも触れていないし、16日の火災にも触れていないし、魚雷衛近くでの殺害の件は、30〜40名毎の銃殺で有ることを【目撃】としている点である。この殺害方法であるならば、他の日記からも考えると【300〜400名】ぐらいしか処刑できなかったのではないかとも考えられる。興味深い記述である。
12月19日の城内への調達の際には、城内南方での建物での炒飯のもてなしは支那人によるものと考えられ、城内南方面でも【宣教師】たちが【流布】した城内の様子とは趣を異にしている。

国際社会で流布している【歴史観】で、ジョシュア・A・フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』(*7)という書籍に書かれているようなハーバード学派の歴史学者達の南京に於ける日本兵のイメージとしての次の文面と比較すると、ほぼ間違いなく間違っていると言わざるを得ない。
この堀越という人物は、楽しんでいる様子を記していないし、【個人】として軍事上不必要な殺害は行っていない

引用 チャールズ・メイヤー(*8)【まえがき】《
個人としての兵士が、銃弾のみならず刀や銃剣を使っておそらくは何万人もの民間人をしばしば陽気な気分で殺害したことを意味するがゆえに、それだけいっそう残虐であるように思われる。
《中略》
退廃や人間性喪失を増幅させることにも一役買った。

日記の記述には、殺害を陽気な気分で行っているとは記述していない。特に人間性を喪失している記述も見られない。ハーバード学派などの様な【思い込み】による【歴史認識】が【世界】では【主流】ということは、【近代史】という【学問】【科学検証】への【質】を劣化させている一因になっている事は間違いない。

 

この日記では、棲霞山近辺で電話線架設と交戦があったことを12月13日に記述しているが、特に大きな交戦があったことも、大規模徴発を行ったという記述がない。BBCの2019年09月2日の記事【南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰】でのベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏のいうセメント工場での話という日本軍がセメント工場から徴発あるいは攻撃した話は爪の先程も出てこない。因みに、記事を読むと日本軍から守ったのであって、セメント工場の中の避難民が殺害された訳ではないことは言うまでもない。

 

【参考文献・参照】


(*1)小野賢二著『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち:第十三師団山田支隊兵士の陣中日記』
    全416頁 大月書店 1996年3月14日 【Amazon】

(*2)濾過ポンプ機材を搭載した荷車の事か?
(*3)通信筒 wiki 【Link】
(*4)『耕人』 【Link】
(*6)小行李 銃弾などの補充物資の事。【Link】
(*7)ジョシュア・A.フォーゲル『歴史学のなかの南京大虐殺』 柏書房 2000年5月1日 【Amazon】

(*8)チャールズ・メイヤー wiki 【Link】


【参考サイト・Twitter】


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・補記10 幕府山事件(地理編) 【Link】
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