Dr. 讃井の集中治療のススメ

集中治療+αの話題をつれづれに

経験の重さ

2012-10-02 00:31:51 | その他

若い人と一緒に麻酔科専門医試験の口頭試問シミュレーションを行ってきました、という話は前回しました。

昨日はとうとうその筆記試験の日でした。

一緒に頑張ってきた先生の一人は、今朝会ったときに「全然自信がない」と暗い顔をしていました。試験が終わった瞬間に「できなかった」と思う試験ほど結果が良いという経験則(自分だけ?)があります。大丈夫です。

口頭や実技は引き続き今週末です。是非全員そろって祝杯を上げたいものです。

 

口頭試問シミュレーションの間に、またまた気づいたことがあります。経験の重さ、です。


自分で経験していない分野はやはり苦手意識が消えない

実際に見たことがある、やったことがあるのは、大きなアドバンテージです。どんなに紙やコンピューター画面上で学んでも、経験には勝てない。それに、なぜかわかりませんが体験は人間の記憶に残りやすい。

はじめての1人当直で、以前経験した症例が来たら、まずはその経験をなぞった診療を行うと思います。口頭試問でも、自分の経験した症例に照らして考えることができれば自信を持って答えられます。多くの人の思考回路は、何か判断が必要な状況で、まず経験の引き出しに答えを探ることから始まるのではないでしょうか。どんなに紙の上で知っていても経験していないと自分自身の気持ち、発言がグラグラしてしまう(ちなみに、海外の臨床研修の第一の利点が、この経験値を日本にいるより遥かに効率よく上げることができることです)。

 

経験のある人の意見はいつどんなときでも尊重される

経験が重視されるのは個人内ばかりではなく、個人間でも成り立ちます。実際に見たことがある人の意見は尊重されますし、経験も多いほど良い、と考えてよいのでしょう。上記のように経験していない人には負い目がありますので、経験のある人の発言に対して最初から戦いを放棄してしまう場面も少なくありません。

その道一筋の方の発言の重み、みなさんも感じるはずです。

 

経験は若いうちの方がやりやすい(のは否定できない)

有名なことわざを出すまでもなく、大昔から“若いうちに経験することの重要性”が強調されてきました。上記のように、経験によって個人内で自信が形成され、対人関係でも有用である。だから、苦労は買ってでもしろ、それも若いうちに、というわけです。

また、普通は年を取るに連れて新しいことへの挑戦が億劫になります。人間は、どんな大きさのものであれ成功体験が好きな動物で、その結果、その成功体験を真似して、ルーチーンが形作られる。すると“いつもと同じ”心地よさに感覚が麻痺してきますので、よほどの大きな壁にぶち当たって困らない限り、そのルーチーンを止めようとしない。

ちなみに、年取ると新しいことができない、というのは年寄りの単なる言い訳じゃないか、と思ってきました。成功を捨て去れ、と叫ぶユニクロの柳井さんのように(in 「一勝九敗」 柳井正)、いつまでもそう思い続けたいと思います。

 

経験の弊害

しかし、経験には大きな弊害もあります。自分の経験に対する解釈、一般化の過程にはどうしてもバイアスが入りますし、経験の数は所詮大したことはないからです。自分の経験を語る場合には、一般化できるか、他の病院ではどうなのか、他の国ではどうなのか、という比較基準を意識することが必要です。数万の患者さんの善意のもとに作れた臨床研究データを見て、自分のたった数~数百例の成功を捨て去る勇気、達観が求められる場面も少なくありません。

人に経験を語られる場合にも、自分の国、自分の病院、自分の患者に適応できるか考えながら聞く必要があるでしょう。たった一例の経験を、あたかも数千例の経験を語るがごとくに語る語り手もいます。でも通常の嗅覚を持っていれば、バイアスに満ちた独善的な語り口は結構簡単に見破りやすいものですが。

 

教育における経験の役割

若いうちに積極的に経験を積んで欲しいと思います。もちろんさきほど述べたように、年寄りにもその教えが当てはまりますが、ひとつだけ言い訳をさせてもらうと、年を取るに連れて興味の対象がシフトするので、若い頃に重要だったことをあんまり重要と思わなくなる。端的に言えば“飽き”ですが、これは避けられないのではないかと思います。

だから、若いうちにそのとき重要と思われる経験をたくさん経験して、年取った時に今度は、若い人に自分の拙い経験を開陳してそれを役立ててもらう、というサイクルがいいのかもしれません。若い人は、年寄りの取り繕いを嘲笑うかのごとくに見透かしているので、飽くまでさりげなく、です。

自分のもとに集ってくれた人には、まずは経験をたくさん積んでいただき、世界中どこに出しても恥ずかしくない、腕も立つ、口も立つ人になってくれたら、と願いますし、そういう環境を作らないといけません。


自分で研修先を選ばないといけない時代に生きる若手医師としての病院選択のコツ

2012-08-15 11:43:00 | その他

以前、つれづれにtwitterに書いたことですが、夏休み後にはレジデント・フェロー就職戦線が本格化してきますので、掲載しておきます。

  1. 聞くと見るとは大違い
  2. 一つの施設で何もかも勉強できると思わない(あらゆる症例を一つの施設で経験することは不可能、逆に浅い勉強しかできない可能性が生じる。その施設で何を勉強したいか選択し、何を二の次にするか決めてしまう)
  3. できるだけ自分の好きなことをやらせてくれるところ、縛りが少ないところ(施設の不得意分野に関して国内留学などを提供してくれるところ)を選ぶ
  4. 施設や上司は一生面倒見てくれない(それを求めるならそういう施設を選ぶ必要があるし、それに応じた我慢もしないとならないでしょうね)
  5. 若いうちに自分の選択肢の数を減らさない(将来の選択肢をたくさん残しておく)
  6. 類は友を呼ぶ 、朱に交われば赤くなる
  7. 居心地、雰囲気、人間関係の良さ(当たり前ですか)
  8. 目先のエサにつられない
  9. 師匠(≈ロールモデル)がいる
  10. 自分のスタイルが出来上がるまでに少なくとも5人の師匠をもつ
  11. 日本は広い、世界は広い
  12. 最終的には“賭け”である。賭けに負けたら他を選択すればいい、と気軽に考える
一言で言えば「何を選択して何を捨てるか」という作業に他ならないとも言えます(最初9ヶ条だったのがいつの間にか12ヶ条になってしまいました。もっと増えるかもしれません)。

人に教えるときのコツ、教わるときのコツ

2012-06-04 18:44:51 | その他

読み始めた方は最後まで読んで下さいね。途中で止めると誤解するかもしれませんので。

 

人に教えるときのコツ

麻酔科医なので麻酔のプラクティスに例えて話します。ほぼすべての麻酔科医ならご経験済みと思いますが、自分の個人的好みの範疇に入るやり方をガンガン押し付けてくる先輩っていませんか(いませんでしたか)?

・例えば 呼吸バッグをどう押すか

・喉頭鏡をどう持つか

・どのようにして患者さんの口を開けるか(クロスフィンガー vs 左手で頭を後屈させる vs それ以外)

・気管チューブにスタイレットを通しておくかスタイレットを使わないか

・気管挿管後に気管チューブをテープでどのように固定するか

・どのように抜管するか(吸引しながら抜管するか vs 加圧しながら抜管するか) など。

どーも苦手でした、ガンガン押し付ける先生。

もちろん、医療の世界はまだまだ謎だらけ。標準的と言われるプラクティスには幅があり、その中で個人の好みが許される。「どうぞお好きに」と任されています。

 

個人的好みを押しつけるのが苦手な理由1

我々医療者には

・患者さんに有益であることが研究の結果確実である(医療のすべての世界でまだまだ少数派です)

・研究の結果おそらくそうであろう、

・百歩譲って生理学的、薬理学的に有効性がある、 のどれか、かつ 

・実害あるいはその可能性がなく、かつ

・費用がより安い(これも試算は単純ではありませんが)

診療をやる義務が(義務ですよ、繰り返しますが)あり、上記に当てはまらない診療はやらないようにしなければなりません。したがって、この条件を満たす限り(簡単に言ってしまえば標準的なプラクティスである限り)、あとは「どうぞお好きに」ではないでしょうか。

レジデントの皆さんは指導医の先生に向かって「先生、テープをこう止めろ、とおっしゃいますが、私は以前別な先生にこう止めろと教わりました。先生のやり方に何か根拠あるんですか?」と聞いてみて下さい(ムッとされるだけならいいですがもしかしたらクビになるかもしれませんね。後述します)。

 

苦手な理由2

これはもう、生理的、反射的な反応と言ってもいいと思います。根拠なく自信を持ってご自分のやり方を押し付けてくる方に感じてしまう、抑え難い衝動といっても良い。

そこで、自分では人を教えるときに「自分の好みを押し付けることだけは金輪際しません、おかあさん」と決めました。 どちらかと言えば、ココはいったん任せる、と決めたら、黙って観察するタイプ。よく言うじゃありませんか。家で普段台所(死語?)に全く立たない毎日の非料理担当者が、ある日突然気が狂って(何か言えないマズイことしちゃったんでしょうか)「日曜はボク(わたし)が夕食を作る」とか宣言したとします。それを毎日の料理担当者が、制作初期段階から、口を出し、手を出し、毎日の料理担当者のやり方を押し付けたらどうなるでしょうか。

おそらく毎日の非料理担当者は、一気にやる気が失せ、「じゃあキミ(あなた)やれよ(やりなさいよ)」、ということになるはずです。

コツは、任せる方は、黙って観察、助けを乞われたときのみ相手を尊重しながら口を出す、手を出す、かつ、作品がどんなに人類が食することのできる最低限のレベルであっても「美味い」と言いつづけることです。これを守れば、半永久的に日曜夕方にラクすることができるでしょう。それに、月日が経てば必ずもっと美味い料理がテーブルに並ぶはずです。

 

教わるときのコツ

カンの良い方はもうすでにお気づきですね。そうです、教わるときは、教える側の言うことをとりあえずよく聞く、そしてまずはやり方に実直に合わせる、ことです。

 

推奨する理由1

医療の話に戻りますが、自分のやり方を広げておく(たくさん引き出しをもつ)ことは本当に困った時に患者さんのためになります。これはエビデンス云々で語れる話ではない経験知で、臨床ではしばしば起こります。

・◯◯がないからできません(◯◯には、フェンタニル、アルチバ、ブリディオン、エスラックス、血管エコー、何とか針、何でも入りますね)

・◯◯はやったことがないからこの方法しかできません(◯◯には、神経ブロック、鎖骨下静脈穿刺、ファイバー挿管、スワンガンツカテーテル挿入、何でも入りますね)

・◯◯のときにはXXしろと書いてあるから状況に関わらずしないと気持ち悪い(心房細動があるからレートコントロールしたらかえって血圧、尿量が減っちゃった、とか)

自分が慣れ親しんだ方法にしがみつくことはとても簡単で心地よいものですが、それが自分の引き出しを限定してしまい、患者さんの生死を分つ状況で一発形勢逆転を狙う自由な発想の治療を思いつく力が身につきません。まず第一歩は、全然自分と違うやり方の他人のマネをしてみる。それによって引き出しは一つ一つ作られていきます。

 

推奨する理由2

年齢を重ね、どうしても教わるよりも教える方が多くなります。教えるときに最初から自分のやり方を主張してくる教わり手をしばしば見かけますが、そんな方には多くの場合「うん、じゃあそれでいいよ」とお伝えします。突き放したように、冷たい、と受け取られるかもしれませんが、上述のように標準的プラクティスの範囲内であれば個人の好みの範疇なので、自分の好みを押し付ける根拠がないからです。

さきほどの料理の話ですが、毎日の非料理担当者に毎日の料理担当者が勇気を出して「さかなのさばき方はね....などと」助言しても、すぐに「オレ(わたし)はこうしたいんです」と主張されたら、教える側も教える気が減ります、人間なので。

教わるときは、教える側の言うことをとりあえずよく聞いて損はなく、最初に教わったその時点で教える側から自分の知りたいことが得られなくても、次にはあるかもしれませんよね。次に教えてもらえなくなってしまったら、自分の引き出しをもう一つ増やすチャンスを失うかもしれません

個人的にしばしばやることですが、「まずは30例言われた通りにやってみよう」と思います。そこで改めて判断して「やっぱり今までのやり方の方がよいからそうします」という結論でもそれで良いのです。30例で、今までのやり方がうまく行かなかったときの引き出しは形成されています。したがって◯◯が身につくには1~2例じゃもちろんだめで、経験からすると最低30例やればそのやり方の評価ができるとともに、いざ本当に困った時に何とか次の引き出しとして使えるようになる最低限の必要経験数であるからです。もちろん絶対に30例に到達しない状況もあれば、30例やっても身に付かない手技もあるでしょうし、30例経験しなくても十分使えるようになるものもありますので、あくまで30は参考値ですかね。

 

振り返って自分はどうか。自分は良い教わり手か、良い教え手だったでしょうか。いずれも合格点は与えられないなあ、と客観的に思います。永遠の努力目標なのかもしれません。

 


メディアに適応するヒトのコミュニケーション技術

2012-03-31 12:31:25 | その他

「きゃー期限過ぎちゃった」という表題の電子メールをいただきました。とある若い方(もちろん女性、男性なら気持ち悪い)に雑誌原稿の分担執筆をお願いしたのですが、こう来られると怒るに怒れませんねー。実際、添付文書として原稿と図がついていますし(当たり前か)、遅れたと言っても1日程度だし、ひとのコト全く言えないし。

こういうセンスはどっから来るのでしょうか。とても人を和ませる作用があります。

実際メールは、顔が見えない、口語のようで口語でない、手紙のような文語でもない、という特徴を持っています。メールを書く時には、なんとなくですが、まるで会話しているように、相手がインターネット上の先に実体として存在していると、無意識的に仮定してメール書いているのかもしれません。

だから、主語、述語、修飾語、補足説明などさまざまな“抜け”や“落ち”があって、後から見返すと意味不明であったり、まったくもってとんでもなく失礼であったり、「これじゃあ誤解して当然だよね」と顔が真っ赤になることもあります。仮に自分が発生させた“抜け”や“落ち”のせいで、相手が憤慨、当惑していても、相手がどのような気持ちなのか返事をいただくまでは一向にわからない。即時的な口頭の補足説明が成立しないので、誤解が増幅される可能性も大です(逆に、相手に頭を冷やす時間を持ってもらえてかえって良い方向に転がる可能性もあります)。

このようなコミュニケーション・バリアを避けるために、意図せず長文のメールになったりして、読み流されてかえって誤解を生んでしまったり。長文は書くのが大変だから、ついつい書くのが遅くなってタイミングを逸したり。逆にメールが短過ぎて、冷たさ、ぶっきらぼう、誠意のなさを相手に感じさせてしまったり。

このように、メール上のコミュニケーションを、正確に失礼なく、かつ気楽にフレンドリーに行うのは相当に難しいですよね。携帯メールとともに生まれ育った世代はうまいのでしょうか。それとも、社会人的な電子メールは携帯メールとは異質なものなのでしょうか。

端的かつ誤解のないメールを書くにはどうしたらよいのでしょうか。確かに良い文章を書くのに要求される技術の多くはメール作成にも通用しますが、それだけでは足りないような。

疑問が尽きません。

さらに考えると、スカイプなどのインターネット会議もある種のコツが必要ですね。オンサイトで直接会話するのとは異なる別のコミュニケーション技術が求められる気がします。このようにメディアによってヒトのコミュニケーションはすこしずつ変化していくのでしょう。

しかし、実際に電話で会話したり会議で話して、言いたいこと言いあう時間は貴重です。3往復(6通)のメールのやり取りが1回の電話、5往復(10通)のメールのやり取りが1回の会議に相当するのではないか、と感じています。最近は、すこし込み入った話をメールで頂戴すると、すぐに相手の電話番号をうかがって電話でお返事したり、往復の時間を厭わずにスタバなどでミニ会議をしたりします。

そのほうが、応急処置や抜本対策のアイデアが出て、結局アウトカムが出るまでの労力と時間が小さくなるばかりでなく、たわいのない会話の途中でポロッといただくヒントなどから、とっても良い新たな副産物が生まれやすいと感じるようになりました。

メールはなかなかこういう芸当はできません。

おっと長文になりましたのでこの辺で失礼。


横文字好きな医療者たち

2012-03-15 12:55:53 | その他

 私たち日本人は、江戸時代末期の黒船の出現以来の横文字好きと言えるのでしょうか。巷には横文字が溢れています。ただ、この横文字を外来語と置き換えれば、そもそも漢字は中国から輸入したものですし、ひらがなにしてもカタカナにしてもその派生形に過ぎないので、元来日本民族は外来語好きと言えるのかもしれませんが(注1)。

 医療界ではどうでしょうか。しばしば使用される横文字をあげてみると、レジデント、ドクター、ナース、ケア、キュアに始まり、アセスメント、マネージメント、コントロバーシーなどが次々出てきますね。近年では、エビデンス、フィジカルアセスメントなど、神保町の三省堂の医療書籍新刊コーナーの、特に看護のコーナーに行くと、二冊に一冊はこの手の横文字が使われている印象を持ちます。確かにその用語がもつイメージを端的に表現する日本語がない(=適切な訳語がない)という事情から、“そのまま“使うのが最も適切な場合があります。しかし、レジデント、ドクター、ナースなど、すでに対応する適切な日本語もあるのに横文字をそのまま使うことも多いですよね。やっぱりわたしたちは“横文字好き”なんでしょう。

 横文字を使用すると、何となく表現が穏やかになったような気になりますし、黒船的な有無を言わせない強引な押しつけ作用、水戸黄門の印籠的に皆を黙らせる作用、シンボルとして注目を集める作用、かつ、オレが言ってんじゃないもん的な「責任を回避できる」ような作用がある気がします。すくなくとも「ちょっとかっこいい感じ」は確実で、それを出版社が利用し本の表題に使うからさらに広まるという悪循環(出版社にとっては好循環?)になるわけです(Intensivistもそーじゃない? おっしゃるとおりです)。

 それと同時に、日本には「自分が知らないことを他人に知られるのは恥である」と思わせる空気が漂っています。だから人前で「質問しにくい」。これは、ほぼすべての日本人が幼少時代から無意識にもつ共通感覚だろうと思います。その結果、多くのカンファレンスは恐ろしいほどに単調で静寂で(居眠り以外にすることがなくなりま)す。

 したがって、このような“横文字好き”かつ“質問しない”日本人に対し、新しい横文字を使用して見せることは、それを聞いたわたしたちを「おおっ凄い。知らない自分が悪いのね」と思わせる効果があるでしょう。すると、聞いた人の中の賢者、勇者たちが「何となくこの用語はこんな意味なんだろうな」と想像してシロートの火遊び的に使用するようになるでしょう。結果的に、それが伝言ゲームのように伝搬し、最後には意味が原義からズレていくこともあるでしょう。

 私は「横文字を使うな」と主張しているわけではありません。コトバは生き物であり、多くの外来語が輸入され定着する過程は似通ったものであるはずなので、いくら私が学生時代「美しい日本語を守る会」の会長だった(会員2名)としても、黙って見守ることしかできません。私が指摘したいのは、新しい横文字が上記のような定着過程を辿るうちに、その横文字本来の意味が見えにくくなってしまうのではないか、という点です。結果として、横文字をちりばめた発言や文章が「何となくわかるけど心の底から納得できない」といつまでも違和感が消えなかったり、コトバのイメージが共有されていないために議論が噛み合なくなったりします。

 先日、とある先生(医師)が私との会話の中で、“オーディット”ということばをお使いになり、その意味は確かインスペクション(査察、監査)みいたな意味だったと思うけど、はてどのようなコンテクストで使われているのかな、と自分の頭で考えながらその先生のお話を聞きしていました。結果として「で、オーディットって何ですか」と訊くタイミングを逸してしまい(注2)、このオーディットがしっくりこないうちに、次の話題に移ってしまいました。このブログを書いている今も自分の中にモヤモヤが残っています。

 このような「使う方も使われる方もよくわからんで使う、あるいはわかっているつもりで使っているのに実はよくわかっていない」横文字の代表に、“エビデンス”という用語があります。いまや医療従事者の間で、エビデンスやEBM(evidence-based medicine)という用語は共通語、流行語になりました。例えば、「エビデンスはないですが.....」とか「エビデンス的には....」などの発言を耳にしたり、「エビデンスにもとづく◯◯学」とか「◯◯ケアのエビデンス」という表題を三省堂の医療書籍新刊コーナーで五冊に一冊はみかけたり、「エビデンスに厳しい」先生(この言い方も変です!)が「エビちゃん」という別称で呼ばれたりするようにさえなりました。

 しかし、多くの場合その発言、記述の中にエビデンスやEBMに対する誤解の匂いを感じ取ることが多いのです。自分の中ではそのような誤解が恐くて、1990年代の登場時に魅了されたエビデンスというコトバが、近年ではなるべく使わないように心がける相対的禁忌にさえなっています。

 もと「美しい日本語を守る会」の会長だった(会員2名)ので、コトバに対する感度は失いたくないものです。というよりも、自分の中のそういう衝動を消そうと思っても消えません。これが性(さが)なんでしょうか。

 

注1:歴史や漢字の事情通には、日本語の書き言葉の成り立ちをそんな軽く扱うなー、不適切な引用やめてください、と怒られそうですけど....

注2:年取ったことの特権の一つに、人に尋ねることを厭わなくなることがあるので、たいがいの場合「◯◯って何ですか」と聞けるようになったのですが、話の流れで聞くタイミングを失うことは今でもあります。


卒後教育に関して考える

2011-11-05 19:48:26 | その他

 

先日、日本集中治療医学会の専門医制度改革に関するパブリックコメントを書いた際に少し考えた。

教育とは何か。

私達はみな、親になると子供を教育する義務をもつが、親になるためのトレーニングを受けるわけではなく、資格試験もない、何となく親になり、その大多数は曲がりなりにも自分の子供の教育に成功し(良い学校や会社に入れるとか、オリンピック選手にする、とかそんな意味ではありません。真っ当な社会生活が営めるオトナとして世に送り出す、という意味です)、「自分の親にこうせいと言われたから自分の子供にもこう教え」ながら、困りながらも何となく愚痴も言わずに(言うか愚痴ぐらい)、育てる。

また、「ウチはこうだけどオタクはどう?」なんて比較はするものの、何か統一された教育要項なるものが存在するわけでもない。「今日から◯◯町三丁目の子供教育要項はXX家のものに決まりましたので、以後遵守するように」なんて話もあるわけがない。「子供を有名私立中学に入学させるための親子二人三脚」のような自慢本を読んでもちっともシンパシーを感じない。この「細かいところは各自判断して勝手にやって下さい」というあいまいさ、「よそはよそ、うちはうち的な」見えない不可侵条約があるのに、なんとなく日本という社会の中でうまく適応できる成人が育てられる。もちろん学校や社会による教育が果たす役割は大きいだろうが、考えてみれば不思議なことである。

子育ては、ただ単純に自分が親からこうしてもらったという古い記憶を、自分のアタマ、ココロ、カラダが勝手に呼び醒まして、半ば無意識的に子供という一番近い次の世代の代表に分け与えているに過ぎないのではないか、と思う。ほとんど本能的に、感覚的に何かを伝えているだけ(注1)。もっと奥底を覗いてみると、同じ言語、社会生活を共有している者たちの共通感覚のようなものがあって、それを伝えている部分も大きそうである。

もちろん、親から子への伝達行為の模倣は、肯定ばかりでなく、自分がこうされて嫌だったから自分の子供には行わない類いの否定的なことも含まる。どっちに転ぶにしても「たたき台」が必要と言うわけだ。しかし、肯定から否定への振れによって95%信頼区間を飛び越えることは稀で、奇人変人が奇人変人のまま存在感を放って暮らせる社会がつづく。

学校や職場での教育も似通った部分があるだろう。つまり、これらのコミュニティーにおける教育において、“判断は現場に任せ”られても、“教師から生徒への共通感覚の伝達”は確実に行われる。したがって管理者は、非常におおざっぱな、たとえば「◯◯精神の育成」などのカッコはよいが実体はなんだかよくわからない目標とカリキュラムと時間割さえ決めておけばよかった。

本題の医師卒後教育も、このような人間関係に対する信頼に依存し現場放任主義的に運営されてきたし、今後も大筋は変わりあるまい。

このような放任主義は欧米でも同様である。しばしば米国式の重層的現場医師教育を屋根瓦式と呼ぶが(注2)、医療文化がこのような形式で年寄りから若い人に伝達されていく形は、規則として明文化されているわけではない。ただただ現場に任されている。そこに家庭や学校で受け継がれる彼らの共通感覚が無意識的に共有されているのはもちろんだ。そんな放任主義でうまくやってきたのは、日本と同様、教育が根源的にそういう性格のものだからであろう。そして、とうとう医療ばかりでなく医療教育まで輸出しようとしているほどに成功したと言ってもよい(注3)。

近年、EBM、根拠にもとづいた医療、医療の標準化、グローバル化の要求はますます強まるばかりである(注4)。欧米型の医療、 EBM、根拠にもとづいた医療は、口頭で説明し議論する能力を要求する。「できるだけ正確に理解してもらい、納得してもらい、行う」ことを願う医療なので、理論的であること、説明に説得力があることが要求される。「推して知ってもらう」発想はそこに存在しない。

一方、日本の伝統的教育法、すなわち「教わるものでなく見て盗む」「口伝えで学ぶものではなく読んで学ぶ」「推して知るべし」「和を貴ぶ」「授業を黙って聴く」「疑問をもっても先生、先輩の話に口を挟まず拝聴する」「議論できず我慢の結果が口喧嘩になる」などの手法は、国内だけですべてを完結できる時代であればうまく機能していた。しかし、いまや外圧を押しのけられるほどの強固さを我が国の医療も教育も経済も政治も備えていない。薬や医療技術がグローバルマーケットを相手にしないと成立しなくなって少なくとも10年は経過した。では前向きに考えて「どれどれ、そのグローバルとやらの良い点を吟味してみようかな」と欧米型の合理的な医療をよく理解しようとし、結果的に感化され、その良い点を導入し、実践しようとすればするほど、日本伝統的教育のアラが見えてしまう。

仮にグローバルマインドを持った医療者を真剣に育てようと決意しても、目標とカリキュラムと時間割を改革しただけでは、その遂行は教育者の資質に依存し、効率的な再生産は期待できない。もし教え方やその具体的内容が現場任せで、もし現場が日本の伝統的教育手法を無意識的に続ける限り、欧米型の医療の真髄に触れて、その良い点をどのように生かすか腐心する、という境地には到達しない。臨床研修医制度のように、制度は変わったものの、ただ若い人が行きたいところに行けるという利点以外に代わり映えのないアラの目立つ変革になる。本来取り入れるべきその教育精神、風土をうまく日本に適応させようという動機をもち、まずそれを担う指導医を作るという発想が必要である。

グローバルへと同調しなくったってよいではないか。日本的なものは日本的なままでよいではないか。こういう意見ももっともである。確かにうまく行っているうちは確かにそれでよかった。しかし、今後この方針を取り続けることへのダウンサイドを以下に2つばかり示して終わりたい。

グローバルな見地から見たときの説得力のある話し方ができる医師は増えない(英語の問題はおいておいても)。上述のように教育は現場における伝達の連鎖で成立するので、そもそもそういう話し方のできる指導医が増えない限り増えない。ロールモデルとなるべき指導医をまず作成しようという戦略がない限り、大きな変更はないだろう。ただし、国として、世界の中でそういう独自のポジションを選択するつもりであればそれでよいが(注5)。

もう一つは、グローバルに見れば叩かれて消えて然るべき日本のみの土着医療がいつまで経っても浮いた状態で脈々と指導医からレジデントへと受け継がれ、医療費を消費して行くことであろうか(注6)。

以上が、専門医制度改革のパブコメを書こうとして関して感じたことである(これを提出したわけではありませんのでご安心下さい)。

 

 

以下、注です。

(注1)そして失敗し親として学び、子供とともに成長する、ということはしばしば言及されますよね。この件は本題でないので割愛。

(注2)実体験からすると、屋根瓦式というより、師匠、兄弟子、弟弟子に連なる徒弟制度という感覚に近い

(注3)米国レジデント教育の大元締め機関(ACGME: Accreditation Council for Graduate Medical Education)には、どうやら世界戦略があるようです。ACGMEのaccreditがない日本の医学部を卒業しても将来米国で研修できなくなるとか、すでにシンガポールは英国スタイルから米国スタイルに移行しつつあるとか。医学、医療のグローバル化は良いとしても、教育にまで口を出してほしくない、と理由なく感じてしまいます。教育は無意識的な文化の連鎖だから、これに口出しされるのは思い切り自己否定につながるわけで、アレルギーが起るのでしょう。医学教育のグローバル化、標準化と言えば聞こえは良いですが。

(注4)看護雑誌でも「エビデンスにもとづく◯◯看護」という表題をつければ売れる時代である。本当にもとづいているかどうか相当怪しいのは言うまでもないのでしょうが(でも、つい言ってしまうのがひとから嫌われるもと)

(注5)正直49%ぐらいそれでよいと思いますね。ただ“夢を見ろ”と言われ無邪気に育った世代である自分たちが、“夢を見ないほうがいいんだよ”と若者に囁くときのやるせなさ、後ろめたさは居たたまれないものがあるので、極力明るく、二言目には「海外へ行け」とハッパをかけています。

(注6)これについては、また「二項対立その3」として述べる予定。「叩かれて消えて然るべき治療が実際に消える」ダイナミズムがあるところがグローバルの健全さ。本年、ネシリチド(ちなみにカルペリチドと同じ受容体に作用する同族の薬です)や活性化プロテインC(ちなみにリコンビナントトロンボモジュリンと同系統の薬です。これは本年市場から撤退)が全否定されたことは、自身アンビバレントな感情を抱く米国という国が、その失われた10年に自分でケリを付ける自浄能力があるところをガーンと示され、とても自己(自国)嫌悪に苛まれた(NEJM 2011;365.1:32-43、http://www.reuters.com/article/2011/10/25/elililly-idUSN1E79O08320111025 )

 


二項対立 その2

2011-10-02 15:25:39 | その他

 前回は、日本と欧米の急性期医療がかくも違う理由として、両応援派の理論が二項対立したまま、それぞれの応援派が思考停止に陥ったままである現状とその背景を述べた。その背景には、三つ子の魂百まで、刷り込まれたことは変更しにくいこと、患者が重症で、その治療の有効性と安全性が担保されていなくてとも、「ポテンシャル」という基準で治療を選択しやすく、その背景にそのような治療は臨床医のココロの鎮静作用があること、各種のコネクションがあることを述べた。

 両派は二項対立という枠組みを脱却することができるのであろうか。

 まずは欧米派の本場に飛び込むこと、海外留学について考えてみたい。研究留学と臨床留学の2種類があるのは異論のないところであるが、両留学がその後の医者人生に及ぼしうる影響の違いは大きい。

 卒業してすぐのレジデント時代に染まった“自分色”を変更する(前回と同じ用語を使わせてもらえば“転向する”)のは、とてつもなく大きな外力を必要とする。研修医から永久就職先であるどこかの病院に至るまでの医師引越し人生の間、異動のたびに、転向とは言えない程度の「修正」を繰り返しながら“自分色”を変色、熟成させていく。みな、各病院を、各科をローテしてジャブを浴びながら、すなわち軽く否定されながら、なんとか折り合いを付けていく。しかし、ジャブはジャブであって、その医師に決定的ダメージを与えるまでには至らない。二項対立の片側から片側へと移るような転向には至らない。

 しかし、ひとたび欧米の臨床現場で仕事をすると、強烈なフックやボディやアッパーを毎日のように浴びせられる。同じ西洋医学の範疇、同じ人間のやることなので、診療行動上のルーチーンに大きな違いはないが、そのバックグラウンドにある考え方や求められる発言に大きな違いがあるからである。朝から晩まで次から次へと、日本と異なる発想、考え方、それにもとづく行動を提示され、自分の一挙手一投足に説明責任が求められる(しかも、それを外国語で)。見た目そんなに変わらないことをやりながら、実は何もかもが違う。

 そんな全否定の毎日の中、“個”として生き延びなければならない。職業人としての責務を果たさなければならないと言えばかっこ良いが、実は、単なる生物として生き延びなければならないだけである。そうしていくうちに、いつの間にか洗脳され、いつの間にか転向している。つまり日本派から欧米派に手っ取り早く転向するためには、根底から揺さぶられるような衝撃、および生物としてのサバイビング能力が自然に引き出されるような外力、体験が必要なのだと思う(注1)。

 一方、研究留学はそこまでの強い外力を与えない。欧米のナマの医療文化に自分のアイデンティティーを否定されることがない。自分の今まで持って来た日本的臨床文化はポケットにしまっておける。その間、ただひたすら研究することによって研究者魂が身に付く。しかし、この研究者魂は、諸刃の剣とも言えるよい面、悪い面を持っている。

 研究者魂のよい面は、研究のプロセスを通して、自分の研究テーマに関して、おそらく世界で一番“好き”と宣言できる、一番とは言えなくとも十指に入る確信を持てることができることであろうか。研究者としてある疑問が生じると、それを解決し最終的に公表するために、自分の人生を投げうってありとあらゆることを考え、実行するようになる。自分の望む結果が出ればそのときはもちろんであるが、それを求める過程においてさえ、エクスタシーを得ることができる(注2)。この精神、執拗さ、探求心は研究者としてきわめて重要な資質である。

 しかし、海外派遣研究者を辞め帰国した後に、研究者魂をそのまま、臨床の不確実な世界に持ち込もうとすることは危険である。均一な動物を使って完全にコントロールされた介入を行って得られた結果は人間には通用しないことは、もちろん研究者自身も知っている。確かにアタマはそう意識している。しかし、ココロとカラダは否定されることを避ける。エクスタシーは捨てたくない(注3)。

 真の科学者は、自分の信じる見解が質の高い証拠によって覆されてしまったら、その見解をアジャストするか、捨てなければならない(注4)。客観的証拠を重視する正しい科学者の資質である。しかし、上記の理由によって完全に否定される危険のあるシロかクロかの勝負を避け、「ポテンシャルのまま」であることを無意識的に望む心理が働く(もちろん勝負を避ける理由は他にもたくさん想像できるが)。あるいは惚れたテーマが生き残れる新たなニッチを探す。その結果、どんどん深みにはまり細部を求めようとしてしまう。新しく惚れた研究テーマが出現するまで、知らず知らすのうちに、このような言動をとるはずである。これは研究者魂の悪いサイドと言ってもよいかもしれない。

 このような研究者魂のよい面、悪い面は、留学しなくても日本にいながら身につけることが可能である。全く同様に、基礎実験や臨床試験の初期段階から深く関わる治療法や、たまたまある患者に適応して驚くべき効果を発見したような治療法に惚れてしまうと、同じ轍を踏む危険性がある(注5)。

 このように、研究留学は、否応なく自己否定されいつのまにか転向してしまう臨床留学と大きく違う。この筆者の直感は当たらずとも遠からずと思う。その理由は、もし、日本のアカデミック急性期医療を担う医師の大半が上記の臨床留学の如き過程を経て“転向”していれば、今頃日本の急性期医療は多少違った道を歩んできたのではないかと思うからである。

つづく。

 

以下、注釈

 

注1:こう述べると臨床留学はいかにも悲惨な精神修行のように感じるかもしれないが、体験者に悲壮感はまったくない。おそらく、毎日やるべきことが指定されており、いかにそれをやり過ごすかだけを考え、何も余計なことを考えないで済むこと、つまりはルーチーンをこなすことは、結構楽しくてラクなことだからである。軍隊で教練を受ける一兵卒(コトバが古い)、看守に見守られながら毎日の作業を続ける囚人と言ってもよいか。こう書くとまた悲惨な感じがするが、何となくわかっていただけるでしょうか。だからどんどん海外で臨床を経験してくださいね(説得力ない?)。

 

注2:筆者もレジデント期間中に6ヶ月のリサーチ期間をもらいリサーチ生活をかじったことがある。リサーチはとにかく楽しかったが、いばらの道であり、いろいろな意味で臨床より逃げ道がなかった。そういう険しい道なので、得られるエクスタシーもでかい。

 

注3:筆者も前述の6ヶ月間およびその後のフェローの期間を使ってバゾプレッシンの動物実験を行い、臨床的にも使いまくっていたので、なかなか研究者魂の悪いサイドを捨てられなかった。これを捨てるためにはまた別な衝撃的体験が必要であった。

 

注4:2001年にIntensive insulin therapyで世界の注目を一身に集めたベルギーのVan den Bergheは、その後この“惚れたテーマ”を否定され続け、現実世界の中にそのニッチを少しでも残したいと望んで開始した2011年EPANIC trialによって自らその“惚れたテーマ”を葬り去ってしまった。しかし彼女はすでにEPANIC trialによって得られた結果の裏付けを取るべく基礎研究を行い、自分のもともとの見解の否定につながるようなデータも提出しているという。ある先生は彼女の変わり身の早さにびっくりしたと言うが、私は彼女こそが真の研究者であると思う。

 

 

注5:研究留学でも、臨床現場で行うものから完全な基礎実験までもちろんいろいろなタイプがあるし、異国生活という自己全否定の体験は病院外でも可能といえば可能なので、チャンスがあれば是非。前述のように研究は研究の臨床と違った“いばらの道”が待っている。


二項対立

2011-09-25 12:25:11 | その他

 

 米国の集中治療医であるDr. Kellumは、イタリアで行われた敗血症性ショックに対するエンドトキシン吸着の多施設RCTのエディトリアルの中で(注1)、東京 - ニューヨーク間の飛行機の中でもし敗血症になったら、米国に着けばEarly goal-directed therapy(EGDT)と活性化プロテインCによる治療が行われるのに対し、東京に着けばそのかわりにエンドトキシン吸着が行われると、ユーモア混じりに日米の違いを描写した(注2)。

 このコトバを借りれば、東京 - ニューヨーク間の飛行機の中でもしARDSになったら、 ニューヨークに着けば、6cc/kgの一回換気量を目指してA/C(VC)換気がおこなわれ、輸液が絞られ、あとは原疾患の治療、早期経腸栄養、VAP予防などの支持的療法が行われる。東京に着けば、APRVが行われ、シベレスタットが投与され、その他の部分は変わりがないかな。

 さらに想像すると、もし急性膵炎になったら、ニューヨークに着けば、輸液、早期経腸栄養などの支持的療法、必要な時のみ内視鏡的、外科的、放射線科的介入を追加するのに対し、東京に着けば、蛋白分解酵素阻害薬の静脈内投与、予防的抗菌薬に加えて、それらの動注療法、血液浄化療法療法、経静脈栄養が行われる。内視鏡的、外科的、放射線科的介入に関しては日米でそれほど違いはないであろう。

 さらに想像すると、もしICU入院中に心房細動になったら、ニューヨークに着けば、心機能が悪ければアミオダロン、心機能が良ければエスモロールやジルチアゼムが使われるが、東京に着けば、Ia、Ic群の抗不整脈薬やベラパミルなどが使用されるかもしれない。

 あとすぐ思いつくものとしてはDIC(播種性血管内凝固症候群)か。米国では敗血症にともなうDICが治療対象とすべき独立した疾患概念と強く意識されていない。上記の活性化プロテインCは抗凝固薬の範疇に入るが、飽くまで適応は重症敗血症、敗血症性ショックであり、DICと診断して投与を開始する、という使用法はしない。経験上も、PT、APTT、血小板数以外のDIC関連検査を提出することも稀だった(肝移植ではfibrinogen、FDP出してましたか)。一方、日本では、蛋白分解酵素阻害薬、アンチトロンビン、リコモジュリンなど、“多種の特効薬”が存在する。

 なぜ両者はこんなに違うのか。

 まずは、日本 vs 欧米という二項が対立するものとして考えてみよう。その方が話が簡単だからだ。そして、容易に想像がつくように二項が対立すると、議論は平行線に陥り思考は停止する。民主党 vs 自民党、昔で言えば自民党 vs 社会党、あまり生産的な議論が行われた記憶がない。欧米派は「◯◯(薬剤名、治療名)は予後を改善し安全だとするエビデンスはなく、しかも高価である」と主張し、日本派は「しかし、◯◯はXXの△△に効果を現し(薬理学的、生理学的機序)、◯◯の有効性、安全性はという論文で有効性、安全性が確認されている(注3)。市販後調査でも明らかな有害作用は指摘されていない」、あるいは「生死の境を彷徨う重症患者なので何とかしてあげたい。エビデンス的には意味がないかもしれないが、お役人が効果があると認めた(保険適応がある)薬だし」と反論するかもしれない。

 両者ともいつでも述べる主張は同じで、どこまで行っても平行線で、歩み寄るようには見えない。なぜか。一つ一つ考えてみたい。

 その背景のまず第一は、多くの医療者が、(たとえばEBMの手順 [5ステップ] にしたがって)質の高い臨床研究で有効だと認められた治療を選択し、有効でないものは使用を避ける、わけではない、という紛れもない事実があるだろう。

 少し立ち止まって自分の過去を振り返る。レジデント時代に染まった“自分色”を変更することは実は結構難しい。三つ子の魂百まで。どんなに説得力があり、論理的な説明を聞いても、一度スタイルが確立されてしまうとそうやすやすと自分の好みは変更できない(ここでは、転向できない、というコトバを使わせてもらいます)。治療は、エビデンスがあるから選ぶのではなく、それ以外の部分、たとえば先輩の言いつけにより、レジデント時代に条件反射的に覚えたことを引き出しの中から引っぱり出して選択することが多いからである。

 おそらく米国の医師でさえ、EBMを何なく実践するのは、少なくとも刷り込み段階では、先輩の言いつけなどでその治療を選択し(注4)、あとでその過程の合理性を知って納得するからではないか。最初からEBMに目覚めて寝ても覚めても調べ尽くして、リスクとベネフィットを考えて妥当な結論を選択して選ぶ「生まれながらにEBMを身につけたレジデント」は多くないし(それを受け入れやすい土壌は子どもの頃から形成されますが)、比較にならないほど忙しいのでみんな要領が良く、かなりの省略スタイルで毎日をやり過ごす。逆に、みんながやる「当たり前のこと」としていったん習慣になってしまえば、それほど苦ではないだろう。

 現に、それがきわめてEBM的に妥当なプロセスを経て得られた結論であっても、米国の医療の現場で「今までそうやったことがないから」受け入れようとしないこともある(注5)。ただ単純に「今までそうやってきたからやる」という根拠に乏しい習慣的医療も少なからず存在する(注6)。

 そのほか、治療選択の重要な選択因子には、前述のように重症患者を診る臨床医が「生死を彷徨う目の前の患者に効く可能性があるなら、少しでもよいものをしたい」と思う気持ちもあるだろう。患者を何とか救いたいという誰もがもつ医師魂と言ってもよい。ただし、これも臨床医自身のココロに対する救いの部分(やれることはみんなやった、という満足感)もあるので、必ずしも患者の病態や、患者や家族のココロに対する救いにならない場合があることを十分に認識する必要がある。

 さらなる治療選択要因にコネクションも上げられるか。コネクションは、メーカーとのそれはもちろんのこと、教授、指導医、先輩、ときに家族との結びつきであったりする。人間は一宿一飯の恩義を感じやすいのである。これも洋の東西を問わない(注7)。

 このようにして、欧米派はエビデンスを尊重した診療が、“あたりまえだから”当然のようにその診療をつづけ、日本派はそうやってきたのが“あたりまえ”で、うまくやってきた自信がある(人間は大なり小なりみんなそう思いますよね)から、その診療をつづける。欧米派の言い分は論理的という意味ではどう見ても妥当であるのに、いつまでたても日本派に受け入れてもらえない。一方、日本派の言い分は、論理的という意味ではどう見ても不利なのに、その不利を解消するために、同じ土俵にあがろうとしてこなかった。果たしてこのような二項対立を解消する良い道はあるのだろうか。まだ長くなりそうなので、つづく。

 

 

 

注1: ちなみにこのエディトリアルのco-authorとは現在なぜか同僚である。Kellum JA, Uchino S. International differences in the treatment of sepsis: are they justified? JAMA 2009;301:2496-7.

注2:この文章を読んだ筆者の第一印象は、どちらに降りても高額な医療だな、と言う物であった。それぞれ1クール、フルに使用すると、活性化プロテインCは約$6,800(54万円)、エンドトキシン吸着は約70万円か。

注3:残念ながらその論文の多くはエビデンスレベルが低いとみなされてしまう。

注4:米国医療はかなり封建的ですからね、特に外科系は。屋根瓦式は教育だけでなく、組織としての命令系統、規律という意味も大きい。小児科インターンのときにインド系のきっつーい女性チーフレジデントに逆らって、プログラムディレクターに呼び出しを食らった経験がある。

注5:個人的経験でも、術後、低分子ヘパリンかつアスピリン投与患者の硬膜外カテーテル抜去について議論になり、悔しい思いをした経験がある。もちろん英語が下手だった(今でも)という部分は考慮に入れなければならないが。

注6:ルーチーンのポータブルX線写真、など枚挙に暇がない

注7:これも欧米の方が、医療ビジネスとして規模がデカイだけに根深い問題がある

 


シンポジウム vs プロコン

2011-09-03 07:17:00 | その他

学会のシンポジウムを観察して気づくことがあります。

それは、各演者の意見がだんだん集約される方向に向かうこと。

通常シンポ形式の演者は舞台に立つと、“みんないい子になり”、実際の臨床の現場でやっていることにオブラートをかけ、よそいきの姿を見せがちです。また、どうしても自分の主張、強烈な反対意見も言いにくくなる。これはどうしても致し方ないことですし、そのような場で自分の意見を強烈に主張すると浮いてしまいますし。“空気”の支配力は相当強い。

集約された結論は、実は舞台の演者全員が実際の臨床でやっていることと若干異なる架空の理想(ちょっと気持ち悪いですね)になったりして、何となくみんな違和感を抱きつつ、議論の流れでそうなると、もう“そうなってしまう”。“そうなってしまう”と「変だなー」と思いつつ、舞台は舞台側でそれなりに納得してしまう。

一方、フロアの参加者は、「文献的に見る標準的な見解」、「現在の主流の見解」、「実際どうやっているかの現場情報」を知り、「それを自分の臨床のヒントにしたい」という理由でシンポに参加します。

フロアから見ると、“そうなってしまう”舞台の議論の流れに共感できれば良いが、「自分の臨床のヒントにしたい」内容が含まれていないと、舞台とフロアとの間に透明な垂れ幕が下りたようになってしまう。仮に議論の流れに共感できなくても、自分の共感できる意見の演者を見つけられれば、坐っているのは苦痛でないかもしれません。

その“共感できる演者”を人為的に持ってもらうための一つの方法は、プロコン形式でしょうか。

プロコンは言わば、“見る劇”としても面白いように配役、役作りまで決めて自説擁護、他説攻撃する形式と言えます。これは、題目によって1対1にしてもよいですし(たとえば蘇生輸液に何を使う:晶質液 vs 膠質液)、題目によっては中間派を入れて1対1対1ぐらいにしてもよい(晶質液のみ派 vs 膠質液のみ派 vs 玉虫色派。その方がフロアの安心感を担保することができます)。いずれにしても重要なのは、全体のテーマと主旨を理解して配役になりきることでしょうか。自分が演者としてその配役になったら、実は信じていないことでもそんな素振りは微塵も見せてはいけません。プロレスと一緒です(全国のプロレスファンの方ごめんなさい)。「◯◯先生のご意見のように私もXXと思いますが.....」なんて前置きしないで「◯◯先生のご意見にはまったく同意できません」と前置きできる勇気のある演者を配置するとおもしろい。

このようにしてプロコンがうまくが機能すれば、“舞台とフロアーとの間に透明な垂れ幕”はなくなるでしょう。その成功の第一の要件は、演者の選択だと思います。私達は俳優ではありませんので、信じていないものはどうしても主張しにくく、本音、弱みが露呈してしまう。信じていることを述べられる環境に演者を置いてあげる、ことが簡単です。ときに俳優の素因をもったドクターもいるので、そういう方はユーティリティーが高いと言えます。

第二の要件は、状況設定、ストーリー、シナリオ、台本作成と綿密な打ち合わせ、予行演習。学会の出し物の多くに興味をそそられないのは、テーマ自体に興味を持てないこともありますが、“見る劇”としても手抜きが見えてしまうという理由があるはず。その背景に、打ち合わせの時間が当日の朝だけで、しかもサンドイッチ食べてコーヒー飲んで終わり、という準備不足があるのは否定できない。みなさん忙しいですからね。

第三の要件は、テーマの選択。これはプロコンだけでなく、シンポにも言えることで、プロコン向きのテーマとシンポ向きのテーマがあるのかもしれません。臨床に身近な、結論が得られていない、他の人がどうしているのか知りたい、異論の多いもの(たとえば、◯◯術後の患者の鎮痛の選択:麻薬 vs NSAIDS vs 硬膜外)がプロコン向きと言えますし、あらかじめ予定調和的に結論の予測がつくものや、誰も結論を知らない未開拓なエリアに関する討論(たとえば医学教育、グローバル・ウォーミング)がシンポ向きでしょう。

第四は最も重要かもしれない司会の技量ですか。学会で観察していても「ああ、この先生うまいなー」と感心する先生は少なからずいらっしゃいますね。これは、1~3の要件の欠点を補うきわめて重要なパートです。

パネルディスカッションとシンポジウムはどう違うのか、という疑問もありますが、ここではこれ以上の突っ込みはやめておき、同類ということでお許しください。実際自分ではこれらの違いがよくわかっていません。

フロア,舞台含めて、できるだけ多くの方に満足して帰ってもらいたいと誰しも思うのですが、なかなか難しいところです。