ぼくは、こんな疑問、というより
芸能ジャーナリストとしての好奇心を抱いて、日劇の楽屋へタイガースを訪問した。
たしか昭和四十五年の夏ごろだったと思う。
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1970年8月夏休み
(ウエスタンカーニバルに足を運んでいたので私も楽屋口の周辺にいる群衆だった)
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当時、日劇の楽屋口は群衆でいっぱい、とても入れる状態になく、
われわれ記者は、いまのピカデリー劇場寄りの特別入口から、厳重なチェックを受けて入った。
そのころ、「ウエスタン・カーニバル」におけるタイガースは、
人気絶頂、いくつかGSのトリ(最後)だった。
岸部おさみ、加橋かつみ、瞳みのる、森本太郎、沢田研二の五人は
楽屋で譜面を見たり、楽器をいじったり、寝そべったり、
思い思いのかっこうをしていた。
インタビューの主目的は、先に書いたように、
客席や劇場の外にあふれる、いわゆるミーハー族に対するメンバーの偽らぬ声だった。
メンバーは若者らしく、車座になり、ぼくの問いによく答えてくれた。
「フアンあってのぼくたちだ」
「ありがたいと思う」
という社交辞令的発言もあったが、
「重苦しくてね」
「ともかくうるさいんだ」
「要するに、もっと静かに歌を聞いて欲しい」
そして誰かがぽつんといった。
「しょせん、あの子らはイモよ」。
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初めてジャズ喫茶、新宿ACBに行ったときに
声援がすごくて音楽を聞く環境じゃなくてびっくり
高校生、中学生、小学生もまざった客席に
ジュリーが歌のときや、話をしているときは静かにしてねと
注意しても
ききわけのない子は演奏中にも騒がしかった記憶
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こう書くと全員が、こもごもいったようにとられるが、
実は車座から離れて、楽屋の隅で一人ぽつんと譜面を見ながら、
一切発言しない男がいた。
ジュリーだったのだ。
ぼくは、敢えて沢田を話にひきこもうとせず、
テレビやステージから感じる青白い顔の彼の、妙に孤独な、
ある種のカゲリに似た思いを深めたのだった。
このとき、よくしゃべった瞳と加橋が脱けて、タイガースは解散した。
二人が脱落したのが、直接の原因ではなく、
GSブームの衰退、時の流れであった。