16日のブログに書いたように、12月13日から手紙の捨て活をしてきたが、なるべく、スキャンして原本は手放す方向で処理を進めた。
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今日、一応の区切りがついた。
甥姪の小さいころの手紙は原本を残したが、そのほかにも、原本を残したい手紙は最終的にはトータルで、タオルが入っていたような箱一つに減らした。
スキャンを毎日毎日した。
手紙は一通ずつ読み返した。
1990年ころからのものだった。
来年大学院を修了する甥がまだ生まれる前のころからの手紙だ。
幼かった姪のかわいらしい様子が書かれた姉の手紙は、姪にLINEで送った。
「なんか、こういうの読むと、愛されてるなーって嬉しい。
ちっちゃいころのこと覚えてないから」
と返信があった。
メールのないころ、(世間的にはもうあった時期でも、うちにはパソコンもなかった) 手紙とFAXは、貴重な情報交換の手段だった。
郵便受けに手紙が入っているのを見つけたときの、ワクワク感は、メールやLINEの着信のようなクールで無機質なメッセージとは、まったく違う心温まる家族のまさに「お便り」だった。
ずっと捨てられなかったことがそれを物語っている。
でも、捨て活をして、デジタル化して手紙は自分の近くに保存された。
終活の一環だ。
紙媒体の写真がたくさんアルバムにはまだある。
これこそ、まだ捨てられないでいる。
まだ捨てる気にもなっていない。
老後の楽しみともいうべきか。
アルバムを出してきて、ときおり話題に上った写真を夫と見て話が弾む。
夫との思い出の旅のスナップがほとんどだ。
だが、安曇野にご主人の定年後引っ越していった友人は、
「写真は、アルバムの本人以外は誰も欲しがらないし、1冊から1枚くらい選んで、残し、パソコンで自分が見て楽しむだけにしたし、ネガは全部捨てたわ」
と、語っていた。
写真は子供も孫も欲しがらない、とほかの人からもよく聞く。
たしかに、両親の家を片付けたときも、記念にある程度はもらってきたが、例えば父自身が一人で海外旅行に行ったときにアルバムなどは、開いても見ずに遺品処分業者の車に持って行ってもらった。
多くて、私のマンションに持ち帰ることもできない。
写真は自分が楽しむものだ。
とりあえず、手紙の捨て活は終了した。
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