「仲良き事は、か。」
ご主人が口の中で呟く。
「美しき哉だよ。」
私が続けて言うと、ご主人の方はそうとも言ったなぁと判然としない様子だ。
私の方は、それでいいんだよと彼に主張すると、その言葉しか父から聞いた事が無いんだからと、彼に親切心で進言した。すると彼は、
「お父さん、あんたのお父さんと言ったら、…」
と、如何にも自分の物忘れを思い起こす様な素振りをしていたが、そうかと思い当たった様子になった。
「五郎ちゃんかい?。」
と彼は言った。
私の方はてっきり自分の父の四郎の名が出ると思っているものだから、これがとんだ拍子外れになった。ああん?と眉根に皺を寄せて口を開いた。
「五郎って?。」
誰の事だろうと私は怪しく思った。終ぞそんな名前は聞いた事が無かった私だった。
さて、不審そうな私の様子を見て、ご主人は「おや?、知らない?。」、知らないのかいと言うと、奥さんの方も知らないのかいとご亭主に相和して来る。私が無言で不満げに2人に首を振ると、
「知らないんだって、」
と、今度は奥さんの方が拍子抜けした感じでご主人に語り掛けた。
まぁなぁと考え込むご亭主は、そうなんだろうなぁ、出て、いなくなった子供ともなると、と、あの家ではそうなんだよ。と呟くように言った。
その夫の言葉に、妻は驚きで目を丸くした。幾らいなくなったって言ったって…。と、何やら彼女の胸中には湧いて来るものが有る様子だ。奥さんは暫し言葉が出無かった。彼女は力なく立ち上がった。
「まぁ、叔父さんの名を知らないなんてね。」
「ふん、とんだ御親戚だこと。」
半ば心此処に非ずの声音だった。そして彼女は急にホホホと笑い出した。
「まぁ呆れた。」
「あの人達、五郎ちゃんの事は伏せて置く気なんだね、あの子も可愛そうに。」
そんな事を言うと、彼女はしんみりと沈んだ様子になった。感極まった様子で、彼女の目は赤く縁どられた。
「二郎ちゃんは、二郎ちゃんの事は知っているんだろう?。」
ご主人が私に言葉を掛けて来る。私は頷くと、
「お父さんの2番目のお兄さんでしょう。」
と答えた。
「戦争で亡くなったのは知っているんだろう。」
ご主人が言うので、私は云と言うと再びご主人に頷いてみせた。私はその人なら知っていると明るい顔をして微笑んだ。
二郎伯父については、父は元より、父と祖父母の3人が話す話の中に時折上って来る。また、ご近所の人の口にも上り、私は「二郎ちゃんがいてくれたら。」と言う言葉をしばしば聞く事になった。二郎伯父はそれ程に、家人は元より御近所の人々にも頼りにされていたらしいという事が伺える。彼は大した人物だったようだ。
しかし、家の外の御近所は勿論だが、家の中でさえ、私は家族の誰からも「五郎」と言う名前を聞いた事が無かった。
五郎?、不審そうに呟く私の様子に、急に奥さんの方が目を怒らせた。彼女の目は今し方出た涙に潤んでいて赤かったのが、怒りの感情でカッと見開かれると、その彼女の赤い目は可なりな迫力を持って私に迫って来た。お陰で私は恐怖で口をパクリと開くと、たじたじと彼女から身を引いた。