『断ろう。』
祖母の時と同じでよいと私は思いました。「親に出来無い事がその子に出来る訳が無い。」こんな風に言い訳は如何様にも出来るのでした。その上私は、蝶よ花よという女の子の利点を使う事にしました。先ずは、お祖父ちゃんと、愛らしく?微笑みました。すると祖父も微笑みました。占めた!と私は思いました。これでこの話は無しだ、祖父も祖母同様に諦めて、こんな話はこれで打ち切りになるだろう。こう私は考えました。してやったりと思うと私はニコニコしました。
さて、私の祖父は商売屋でした。当時の問屋街に私達は住んでいました。少し初歩的に世間を学んだ学童の私より、長年培った社会経験が豊富な高齢者である祖父の方が、私より一枚も二枚も上手なのは明白でした。祖父は可笑しかった事でしょう、自分を遣り込めようとしている私という孫のしたり顔が。祖父は微笑み*ながら、暫し何やら思案している様子でした。
当時の私は何かにつけて呑気な子で、押っ取りしているとよく言われていました。この時も父の存在に配慮せず、お経に閉口して先祖の墓前を去った私です。親を尊敬するとか先祖を敬うとか、年配者に対する敬意に欠けていたのでしょう。ましてや祖父は明治の人、年功序列や礼儀には厳しい面が有ったようです。また、言葉通りに家族仲良くと、調和や和を重んじてもいたようです。祖父は家族親戚の事を非常に大切にしていた人だと私には思えます。私の常日頃聞いていた祖父の言葉、耳に入って来た近所の人々の祖父に対する評判から、私はそう判断しています。
蝶よ花よの女の子、同級の女子との繋がりが増えるに連れて、私は世間一般の女の子というものは、特別に大事にされ、甘やかされ、我儘に育っていると知ったものです。それで私も女の子なのだから、世間一般で良いのだと勝手に判断し、特に幼少から礼儀等を教えてくれた祖母亡きこの時期は、私は自由気儘な日常を送るに至っていました。私の母はというと、やはり商家の娘、私のみた所道楽娘の部類に思え、事実祖母がいなくなると私の学業にも熱が入らなくなった様子でした。この頃の母はあなた任せの教育に変化していました。通信簿を貰う期末にだけ、その評価に対してのみ私の成績に触れると、成績は如何あれ、押し並べて厳し目に意見するという母親になっていました。私の父の方はというと、学業を見てくれた事は無く、女の子の礼儀は分からないと日常の所作は母任せで、元より自由放任主義の人でしたから、彼の理想の話ばかり耳にタコと言う程よく聞かされていました。それでこの頃の私の振る舞いは、明治育ちの厳格な祖父の目に余ったようです。