つい昨日のことのように、紫煙さんは自分の若い頃を思い浮かべていました。
『あの頃は実に若かったなぁ。』
自身の青春時代の面影が浮かぶと、自然と微笑んで感嘆してしまいます。そして、目の前に初恋の女性の明るい笑顔が浮かんで来ました。その彼女が着ている清潔で明るい色合いの衣類。彼女の淑やかでありながら颯爽として溌剌とした身のこなし。魅力的な瞳を持つ鼻筋の通った愛くるしい顔。紫苑さんはほうっと息を吐き出しました。
彼の記憶の中の初恋の女性は、今も若い少女の時の姿の儘彼の脳裏に刻み込まれています。
『可愛いものだなぁ。』
瞼に浮かぶ彼女の姿は、今の自分の年齢から見ると酷く幼い少女然とした面影です。彼は思わず自分の年齢の事を忘れて、暫し青春時代の懐かしい思い出の淵に沈むのでした。
今から思うと、彼女とあれは雰囲気が似ていたかもしれない。紫苑さんは亡き細君と最初に出会った時の場面を思い出していました。それはとある大イベントの会場ででした。彼女は改まった服装でセーラーカラーのワンピースを着ていました。襟の縁取りの赤と青の細いテープの色が爽やかに明るく、彼女は屈託のない笑顔を浮かべて彼を見詰めていました。彼はその無垢な笑顔と清潔な雰囲気に魅かれ彼女の問いに答えていたのです。
「今からなら」…2時間待ちですよ。過去に自分が言った言葉を思わず口にして、自分の声を耳にした紫苑さんはハッと我に返りました。気付くと側にいた鷹雄が不思議そうに彼を見詰めていました。いやぁ、と紫苑さんは彼に言うと、今からならと、自分の腕時計を見て、行列のできるうまい店にそう並ばずに入れるよ。普通なら2時間程は待た無いと入れない店なんだ。
「行ってみるかい?」
彼は鷹夫を誘うと、独り言を漏らしたバツの悪さに頬を染めて、にこやかに顔に笑顔を湛えた儘ベンチから立ち上がりました。
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