1分で読める小さなお寺の法話集

子育て、人材育成に関する法話を実話と歴史から紐解いて書いております。

【住職の法話。考え方を少し変えるだけで、苦しい人生が、楽しい人生に】 拙僧には父母が。その父母には各々両親が。2+4+8+16+、と。これを20代遡っただけで100万人以上に。1人でも欠けていたら。

2023-12-04 16:15:26 | 法話

【12月 5日投稿分】


一昨日の12月3日は、わが寺では1年間の御礼報謝として、報恩講法要(毎年12月最初の日曜日)が厳修されました。『今ここに、命があるに、何不足』を思う時、全ては『有難うございます』からの始まりにて。江戸時代後期に戒名が一般庶民にも授けられる様になってから、わが寺の過去帳には、令和の今日までずっと、戒名が残っている檀家が数件ございます。これは何を意味するか、といえば、誰1人として親を粗末にした子孫が出なかった、という証拠にて。そういうご家庭は、先祖のご加護というよりも、感謝が出来る子孫が脈々と育っているという事で、当然の事ながら、幸せな家庭が築かれておりますね。


今年の報恩講前(11月下旬)に、檀家のお婆ちゃんが「住職から『お盆の三ヶ日と正月(正月様、別名、歳徳神は先祖の集合霊)の三ヶ日は、同じ意味だよ』と聞いて以来、数年前からあたしの家族は、正月の迎え方が随分と変わってきた。90年の人生を振り返ってみると、この事(正月様の意味)は知らなかったが、かと言って、先祖を粗末にしてきた覚えは全くない。あたしの婆ちゃん(明治生まれ)から度々『先祖だけは、大事にしなさいよ。命を流してくれた大恩人なんだからね。そうしてたら、いざ、という時に、お助け小屋から、先祖が走って加勢に来てくれるからね』と事あるごとに。んっ、『お助け小屋ってなんだ』と当初は思っていたが、何故か子供ながらに、しっくりとくる言葉だった。恐らく、身近に感じたんだろうな、ご先祖さんを。思えば、長い間に色々と、助けてもらってきた様な気がする。今年も振り返ってみると、色々と。住職よ、報恩講には、家族揃って伺うからな。 納骨堂に眠る先祖さんへの、お礼参りもせにゃならんしな」と。


御礼報謝と言えば、わが寺には、生目神社(宮崎県)の社、太宰府天満宮(福岡県)縁の仏像、高野山大圓院様(和歌山県)には、祖父母、父母の永代供養のお位牌が。よって、毎年12月には、方々の所縁ある神社、仏閣には、必ずお礼参りへ。頼んでばかりでは、願ってばかりでは、いかんですもんね。おかげ信仰をされる方が全て、そうだとは言いませんが、願う時には如何に遠方だろうと、お金が掛かろうと、必死こいて。が、叶った途端に「御礼報謝に行きましたか」と尋ねると「だって、遠いんだもの」という返答が。願う時には遠く感じないものが、叶った途端に遠く感じるんですね。例え、願いが叶わなかったとしても、願ったは事実にて、その御礼に伺うは当然の事ではないかと。お札(ふだ)やお守りの類は全て1年もの。いつまでもダラダラと願いっぱなしではあかん。「旧年中は大変お世話になりました。今年もどうぞ、宜しくお願い申し上げます」の年始挨拶の如しです。所謂、ケジメですわね。神仏だから何度でも受け入れてもらえるが、これが人間相手なら「何という礼儀知らずな。お世話になりました、も言えんのか」と、次はないですわな。絶対に欠かしちゃならん、最低限の礼儀だと思いますけどね。


これは余談ですが、他寺院のご住職さん達から偶に「金剛寺さんには、賽銭泥棒って来ますか」と聞かれる事が。実は、わが寺には不思議と、賽銭泥棒って来ないんですよね。偶々偶然だとは思いますが。その賽銭泥棒ですが、次の様な面白い話が。知人の住職のお寺に、定期的に檀家でない婆様がやって来て「なんまんだ、なんまんだ」と、数珠をジャラジャラさせながら、お地蔵さんの前に誰かが置いたお金(賽銭)を、半目を開けて手のひらに招き入れを。それを見掛けた知人住職が「これ、婆様、婆様」と声を掛けても、聞こえぬ振りして「いや〜、ん〜、ありがたか〜、もったいなか〜」と言って、お賽銭を持って帰られると。こればっかは、笑いましたな。これは拙僧の感覚ですよ、この婆様、何となくですが、知人のお寺を栄えさせそうな気が。


次回の投稿法話は、12月10日になります。投稿写真は、報恩講準備完了の本堂。






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