神が宿るところ

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駿河国の古代東海道(その10・柏原駅)

2011-10-07 23:19:35 | 古道
古代東海道においても、長い間にはルートや駅家の変動があった。駅家の名がまとまって記載されている「延喜式」(927年成立)は、原則的・典型的な姿ではなく、むしろ律令制が崩壊しつつあった時期に当たる。「日本三代実録」(901年成立)の貞観6年(864年)の条によれば、「柏原」駅を廃止し、「蒲原」駅を富士川の東野に移したことがわかる。「蒲原」から東の古代東海道ルートは不明であるが、かつては現・富士市から現・沼津市に跨る広大な「浮島沼」(須戸湖)が広がっており、これを避けて①駿河湾沿いの砂丘上ルート、または②愛鷹山山麓ルート(現・東海道新幹線に沿って、約300m南)のいずれかだろうといわれている。そして、「柏原」駅は、①の砂丘上ルートの場合は現・柏原付近、②の山麓ルートの場合は船津付近と想定されている。「船津」という地名は、浮島沼を利用した水上交通の中心地だったことによるものだろう。
さて、砂丘上ルートには、現在も柏原及び西・中・東に分かれている柏原新田という遺称地がある(JR東海道本線「東田子の浦」駅を中心とした地域)。また、「柏原」というのは、近世東海道の五十三次には含まれない、いわゆる「間宿(あいのしゅく)」であった。「間宿」は、幕府公認の宿と宿の間に設けられた休憩のための宿場で、非公認であるために宿泊は禁じられていた。このため、近世「柏原宿」は飯屋が多く、鰻の蒲焼が名物だったという(十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも、金がない弥次さん喜多さんは、蒲焼の匂いだけで我慢した、という滑稽な情景が描かれている。)。「柏原宿」は、江戸時代には「間宿」とされたが、宿としての起源は平安時代後期にまで遡るともされている。
こうしたことを含め諸般の事情から、古代東海道における廃止前の「柏原」駅は現・富士市柏原付近にあり、駿河湾沿いの砂丘上に駅路のルートがあったと考えられる。ところが、貞観6年(864年)に「柏原」駅が廃止され、「蒲原」駅が移転した際、移転先は(諸説あるが)現・富士市本市場付近と想定されており、その周辺や浮島沼の北側にも重要な遺跡等も多いことから、このときに駅路も愛鷹山麓を通るルートに変更されたのではないかと考えられている。

なお、「間宿 柏原・本陣跡」の碑の近くに「正法山 立圓寺(しょうほうさん りゅうえんじ)」がある。「立圓寺」は日蓮宗の寺院で、万治3年(1660年)に京都・立本寺20世日審によって開創された。境内にある「望嶽碑」は、文化5年(1808年)に尾張藩医の柴田景浩が、当寺からみる富士山が余りに素晴らしいとして建てたもの。
場所:静岡県富士市柏原2-72。県道380号線(富士清水線)「東田子ノ浦駅前」交差点の西、約300m。駐車場有り。


富士市のHPから(柏原のうなぎの蒲焼)PDFファイル

同(浮島沼の沼のばんばあ)PDFファイル ※昭和15年頃の浮島沼の写真あり

日蓮宗静岡県中部宗務所さんのHP(立圓寺)


写真1:「間宿 柏原・本陣跡」の碑(場所:静岡県富士市西柏原新田。県道380号線(富士清水線)「東田子ノ浦駅前」交差点の西、約200m)


写真2:「立圓寺」仁王門


写真3:「立圓寺」境内。日蓮上人像の隣にある尖った三角形の石碑が「望嶽碑」。
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