15週間に亙る旅の完結。しかし、本当に沖縄の旅は完結したのだろうか?確かに多くの出逢い、出来事、葛藤…etc.と、一回の旅としては今迄に無かった程の実りを得ている。全てを言葉で表現する事など、きっと不可能だろう。106日間の動向を整理すると以下の様になる。先ずは定着行動を甘く見ていた事の失敗。そこで同じY.H.春海荘に止まっていた毛利と須藤の誘いに乗り、八重山に渡島する運びとなる。6月6日〜10日の5日間、ここ迄がプロローグ的な第一部とでも言ったところ。
そして幕代わりの第二部へと入る。しかしこれは単なる幕代わりではなく、私の八重山紀行の拠点となるべく民宿泉屋(竹富島)との出逢いと云う、大きな内容を持っていたのだ。この泉屋は単なる拠点としてだけではなく、多くの出逢いと音楽(琉球民謡)と云う(第一目的であった)学ぶべくものを呈する場所であった。これは想定外の歓びである。6月18・19日の二泊三日、即ち長谷川章子と二人で小浜島へ行って帰って来た時迄が、この第二部と言えそうだ。
それから今回の旅のストーリー上のメインに位置するべく、石垣島生活期の第三部へと続く。ここでも大切な多くの出逢いが有るけれど、中でも特筆すべきは山城キヨコの登場だろう。この時期の私の精神面に於いて、その基盤の一端を彼女が占めていたとも言える。彼女の導きおかげで大人への成長過程を過ごせたのだ。
そして閃きの為すがまま、色々な所へ足を向け、好奇心が学ぶ事を第三者的に視ていた。
とにかく今回の旅に於いては、その絶頂期を迎えていた時期でもある。
帰路は、那覇⇒大阪⇒熱海⇒帰宅。
今日9月19日、家に戻りこうして振り返ってみると、先ず当初の目的である琉球音楽に付いては、竹富島以外では殆んど学ぶ事は無かったと言える。そう、竹富のみで学んだ感が強い。それも以外な方法で。その気になれば勿論他の場所でも可能であったのだろうが…。この目を虜にした素晴らしい島の美観や深く心に残る人達との出逢いなどに、知らず知らずのうちに心を奪われ始め、生活そのものがすり変わり、旅の目的が変質してしまった事に要因が有るのだろう。
そう、確かに旅の目的の第一義は完遂されなかったけれど、芽生えの手応えはハッキリと有った。そして予期せぬ収穫も多かった。ただ、出発前に加藤清美が言った、
「初めの三ヶ月はアナタの事、何とかやっていくでしょう。でも、その後はどうなるか解らないわね…」
と云う言葉がほぼ当たってしまった事が残念でならない。しかし一言云わせてもらうなら、内容が異うと言いたい。多分彼女が想像し得ない程の実りがある筈である。私はそう信じたい。旅に対する自信も生まれた。今回の旅、最後は意に反した帰路を余儀なくせざるを得なくなったけれど、下手な強がりではなく、
「今は帰路に着き、また出直そ
う」と、自らの決断を下したのだ。
島には多くの友達が出来た。みんな私の再来を期待して待っている。山城キヨコのその後も気になるところだ。私の音楽性に付いて言及すれば、『気の向くままに』で見られる様なパターンの旅の歌が、暫くは主流になりそうな気がしてならない。
106日目の帰宅。この旅は一応終ったけれど、完結と云う言葉は使えないだろう。仮初にも一応の幕は閉じたけれど、次の開幕の為の「芽」が息づき始めている。換言すれば、成長変化の為の幕だろう…と、私は言いたい。
❋❋この日記は途中抜けてはいるものの1975~1986迄の旅日記が元となっている。PC以前のワードプロセッサーによりまとめたもので、B5用紙表・裏印刷で、100余枚からなっている。全て旅先でノートやメモなどに書いておいた物をまとめ上げたものだ。その為、後になって見つかった日のものも多数有り、いつかはそれらを本来の日付けの位置に差し戻したいと思っているのだけれど200ページ分以上となると、気が遠くなる。おまけに誤字脱字もあるし…。
まあ、そんな日記のタイトルは、
The Wanderlust
これはPaul McCartneyの曲のタイトルに因んだもの。副題として
Then How I Was
.とした。
これをまとめ上げるに当たって目次と前書きを施した。例えば、
また本編、6月14日はこんな感じ。
この帰宅後すぐに、本来の仕事のスケジュール表が廻って来て、暫くは旅に出られなくなってしまった。勿論、短い休暇は有るものの、ほんの息抜き程度だ。
尚、仕事に関しての事は日記は書いていない。
この次、日記を載せるとしたら、11月頃かな。年月を超えて現在と同じ日付けのものを書こうと始めたものだから。しかしそれだと何年も掛かり過ぎるので、それに拘らず途中省略をしながら…でもいいかな…とも、思い始めている。
1975年はチャレンジの年だった。
(追記)
エリザベス女王
安らかな眠りを
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