本の感想

本の感想など

中国史の名君と宰相 (宮崎市定 中公文庫)

2024-11-23 22:02:54 | 日記

中国史の名君と宰相 (宮崎市定 中公文庫)

 日本の大学の東洋史の研究は、戦前から戦後の一時期まで大変優れたものだったように思う。キット戦前の日本政府がその研究を後押ししたのではないかと邪推している。その後押しがなくなったので最近はいい本が出ていないというのは考えすぎか。

 この本では東洋史の流れを論じるのではなく個々人に焦点をあてて人物を描いている。あちらこちらに掲載されたのをまとめて一冊にしたので、かなり読みにくい。例えば「南宋末の宰相賈似道」では日本でいう講談調の文体で書かれているし、「鹿州公案 発端」では小説調になっている。(学者が講談調の七五調で書いても小説風に会話文を書いてもなにか調子が出ていない。)中身は博識で読者はついていけないし、各セクションの文体が異なるので読み終わって読者がなに事か賢くなったなーという爽快な読後感がない。司馬遷の史記のような本を期待していたのだけどかなりがっかりだった。

 同じ宮崎市定さんのエッセイに自分は歴史を学んだので、お金儲けには自信があるというようなことをおっしゃっていた。(ただやらないだけであるらしい。)どうすれば儲かるかは歴史上の人物を観察すればよくわかるらしい。そういえばジム・ロジャーズさんもお金儲けしたければ歴史と哲学の本を読めとおっしゃっている。哲学はちょっとハードルが高いから辞退しているが歴史の本はだいぶん読んだ。しかし読みが足らないようで一向儲からない。今回の本も読みが足らないのか理解ができていないのかどうも参考にはならないようである。残念である。

 この本に示された時代ではどうやら政治権力に近づくこと、これが(お金儲けの)鉄則のような書きっぷりである。それではたいていの人の参考にならないではないではありませんか。史記には、権力に近づかないで成功した人の話も載っていることだから、近づかないで儲けた人の話ばっかり集めて誰か書いてもらえないかな。


六波羅蜜寺の空也、清盛像

2024-11-20 19:23:31 | 日記

六波羅蜜寺の空也、清盛像

 空也像は教科書の写真で見たからいいだろうと思ったが、全体の像を見ると新しい発見がある。やせた体躯で腹に鉦をつけている。おそらくは鉦をたたいて人を呼び集めつまらない講話ではなく面白おかしく話をしたはずである。漫才か落語のようであっただろう。その後少しずつ分かりやすい説教が入っていったと想像される。人を集めるために芸能の力を借りたとみられる。芸能は現在の我々はどうしてもテレビの娯楽番組を思い出すからくだらない娯楽または暇つぶしを連想するが、もっと人間の存在の根本にかかわる大事な案件ではないのか。例えば食事とか育児とか医療と同じくらいである。または踊りがあったかもしれない。

 ただし空也さんは、民衆に宗教を授ける意図だけがあっても民衆のほうはありとあらゆる願いを空也さんにお願いしたために宗教が見かけ上巨大な力をもつことになってしまった。ちょうど貨幣が取引の便利のためだけに企画されたものであるのに、必要以上に巨大な力を持つことになったのと同じである。そんなことを空也さんの像から感じた。

 一方清盛像は、気の毒なくらい哀れな像に作ってある。極楽往生を願う老人の顔である。孤独で寂しい人生である。権力の頂点を極めた人とはとても思えない。この人本当に仏御前と浮名を流した人なのか。亡くなる前は熱病にかかり、かけた水がみな水蒸気になったとかありえない話のネタにされたところを見ると世間からよほど嫌われたのであろう。この像も嫌われた結果ではないか。寂しく作ってある。

 社会のトップではない人は、自分のことを「善い人だからトップに行けなかった」と考える。トップに行く人はみな「悪人」であると考える傾向にある。(そこまで思い込まなくてもと思うが、そう思うのが人情である。)ならば清盛像も悪人顔にするべきである。しかしそうしなかった。いい人でもない。寂しい弱々しい老人である。空也像は拝む人がいるだろうが、清盛像は絶対誰も拝まない。作者の意図は明らかであろう。またはこの二体を並べて陳列する意図も明らかであろう。清盛のようになるな、空也のようになれである。

 しかし、私個人は清盛もいいではないかと思うところがある。鉦をたたいて人々のためにもいいけど、福原の港で沈む夕日をもう一遍上らせるというのもいいものでできるものならやってみたいものである。


六波羅蜜寺の十一面観音像③

2024-11-19 19:23:46 | 日記

六波羅蜜寺の十一面観音像③

 秘仏を見にいったが、運慶像のほうが印象に残っている。この人の像があるとは驚きであった。もちろん僧衣を着ているが、お坊さんらしくない。深山の中にある材木を生産している村の庄屋さんが、無理して僧衣を着て座っているという風情である。隣の湛慶像は親子とは思えないほど都会的な顔立ちである。本当に親子であろうか。

 お話変わって、頭がとんがっている人は出世狙いであると聞く。わたしは面白がってどこのお寺であったか、お坊さんが列を作って歩いているのを観察したことがあった。確かに偉い人の衣を着ている人の頭はとんがっていたが、そう目立つほどではない。ところが運慶像の頭は異様にとんがっているのである。この人芸術家というよりは組織のリーダーの腕のあった人かもしれない。快慶と袂を分かったのもわかる気がする。あれだけの多くの仏像や彫刻を制作したのである、何百人に近い職能集団を率いたはずである。人柄は本田宗一郎さんに近かったのではないかとこの像を見ながら想像した。もしそうなら、女房役をした人や第一の弟子で運慶を支えた人物がたぶんいたであろう。お坊さんや権力者との関係、組織を支える費用の捻出などを考えると人柄もなんとなく想像できそうである。だれか歴史小説にしないのかな。

 この運慶像を刻んだのは隣の湛慶とその他のお弟子さんであろうが、緊張の極みではなかったと想像する。写実に徹しても叱られそうだし、男前にしたらもっと叱られそうである。ちょうど〇〇の分野の名医が〇〇に罹患してお弟子さんがその名医の診察をするようなものであろう。

 このほかにも教科書によく出てくる清盛像や空也上人像などがある。平安時代にもすでにその人の人柄や感情を像に刻むことができたのである。仏像だけではわからない当時の人の気持ちを感じることができる。


映画 ベルデット

2024-11-13 20:51:51 | 日記

映画 ベルデット

 フランス映画らしい洒落が効いているかと期待したが、何もなくてがっかりした。シラク大統領の奥さんの政治家としての出世譚とみることができる。その最後に「夫の許可なくして何もできないというような風潮がいけない。」という発言があって、これは本来力のある女性が夫に踏みつけにされていた人生を取り戻す復讐物語であったことがやっとわかった。

 わたしは先入観なかったので、大統領を揶揄するかさらに進んで民主主義を揶揄するかと身構えてみていたが、大統領への揶揄は少しはあったと思うが政治体制への揶揄はなかったようである。そんな深い映画ではない。ただシラク大統領にどんなスキャンダルがあったのかとかの知識がないのでそんなことがあったのかと真偽を疑うところがある。

 道理で私の人生を返して頂戴と大声で叫びそうな感じの50から60代の女性が多いはずである。映画や小説は生きられたかもしれない別の自分の人生を見にくる場でもある。女性はさぞや溜飲をさげ満足されたであろうが、わたくしは関係ないものを見せられてかなり不満である。ただ千九百年代後半のフランスにしてこんなことがまかり通っていたのかと勉強しただけである。

 

 男はみなドヌーブさんを見たいから来るのが本当だろう。オーラと貫禄はすごいものがあるが、間の取り方が上手ではないので(ある程度予想していたことだけど)観客は退屈であった。脇役は大統領夫人についているアシスタント役が光っていた。他の俳優さんはどうも駄目である。大統領らしい人、首相らしい人から人選するとこうなるのかもしれないが失敗作だと思う。演技ができてかつ大統領らしい首相らしいになるとむつかしいだろうと同情を禁じ得ない。


六波羅蜜寺の十一面観音像②

2024-11-09 23:36:15 | 日記

六波羅蜜寺の十一面観音像②

 肝心の秘仏のほうはよく見えなかったので何とも言えないが、タイ風の金ぴかの仏さまは近くでまじまじと拝むことができた。カンボジアのレリーフに踊り子を彫ってあるのを見かけるが、あの感じである。この仏様は踊り子をモデルにしたのではないか。(間違えているとひどくお叱りを受けそうだけど)我が国の神様でいえば弁財天の感じである。この感じの仏さまだと、なんでも気軽にお願い事ができる。晩御飯にもう一皿お願いしたいとか、お財布にもう一枚多めに入っていてほしいとかである。この願いは大日さんとか阿弥陀さんにしてはいけなさそうな気がする。

 宗教というと堅苦しいまたは立派なことをイメージするけどどうもだいぶん違うようだ。十一面観音に限らず観音像はあちこちで見てきたが、気品のある踊り子さんという感じがする。決してあれしてはいかん、このようにせよ、このように考えろという難しい人ではないような気がする。今回よく見れなかった秘仏もきっとそうではないか。宗教は今まで考えてきたようなものではなく、もっとお気楽なものではないかという気がしてきた。

 小さいころ善い行いをすれば仏様の近くの蓮の花の上に席が与えられる。悪いことをすれば地獄であると教えられた。その時わたくしは、地獄は勿論嫌だが極楽で仏様の近くも肩が凝って嫌である、できれば極楽は極楽でも仏さまからはできるだけ遠くで仏さまの目の届かないところがよろしいと思っていた。そのためには善い行いをするにしてもなるたけ小さいものにしなければいけない。基本この考えは変わらないが、もしその仏様がこの金ぴかの踊り子風の方であるなら遠くではうれしくない。できるだけ近くに生まれ変わりたいものである。この世で善い行いをする気力が湧こうというものである。

 これに限らず小さいころに刷り込まれた考え方は一生を支配する。しかし世の中は変化しているからその考えに変更を加えることはどんな人も必須のことであろう。わたくしはこの金ぴかの仏さまを拝観して少しく私に刷り込まれた考えを時代に合わせて変更することができたのは大変幸せなことであった。