断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑤ 二度目の結婚
お話違うけど、脳科学というのが流行りだしてその説によると人は快感を感じるものには中毒し依存するようになるという。酒たばこギャンブルによって物質某が脳内に放出されそれが快感をもたらすとある。対象は何でもありで働くことにまで中毒するという。(まさかと思うし今もって信じられないが、現物を見たことがある。)ならばお商売は簡単なことで、ヒトの脳内に物質某が放出されるようにしむければいい。○○を買って使えば幸せな気分になるようにしむければいい。ただそこまでが難しそうだが。
さて、荷風さんはご自分が紡ぎだした美に中毒する人だったと考えられる。それはいいんだけど結婚する時が難儀で相手は自分の美の理解者でないといけない。少しでも理解が違っているとすぐに関係が破たんしてしまう。ましてや相手が少しでも違う美を主張しようものなら絶対一緒にはいられない。共同生活を始めてすぐに破たんしたゴッホとゴーガンみたいなことになってしまう。そんなことどうでもよさそうなのにそこが物質某のなせることなんだろう。
考証 永井荷風 岩波現代文庫2010年 (秋庭太郎)の32番の写真に二度目の結婚相手八重次さんが載っている。日本髪の名のある芸者さんだろう。今なら大女優ではないか。しかし、短くして破たんしたようで荷風さんはこれに多くを語らない。一度目は親の決めた結婚でこれは荷風さんぼろくそに言っている。かなりのわがままでこれではお相手が気の毒である。
こういう生き方を芸術至上主義というのだろう。それは傍目には幸せとは思えないところがある。少なくとも周囲は大迷惑だろう。今でもそう教えているかどうか知らないが「自分のよいと信じたことは最後までやりぬけ。」という小学校で教わる教訓がある。この訓話は無条件にいいとはとても思えない。訓話のない小学校は塩気のないおにぎりみたいなところもあるから、百も二百も様々な訓話をセットにして教え込んで、その場その場で適切なのを自分で選べという教育にするのが良くはないかと荷風のこの段を読んでつくづく思った。もう時代も変わったことだし、小学校も変わってもらいたいものだ。
小説家とは人間観察業のことであると思っている。SF小説でさえも人情の機微に通じていなければいけない。荷風さんは小説家でありながら、結婚前に両者の人情の行く末について予想を立てることができなかった。これでは人間観察業としては成績悪くないかと長く考えていたがはたと気づいた。荷風さんは、本質は小説家ではなくて詩人なんだ。詩はまず売れない。小説なら売れるかもしれない。だから無理して小説を書いたんだと思う。もう確かめるすべはないが本人に確かめたいところである。
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