本の感想

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ルポ貧困大国アメリカ(堤 未果 岩波新書 2008年)を読む①はじめに

2023-04-14 15:58:00 | 日記

ルポ貧困大国アメリカ(堤 未果 岩波新書 2008年)を読む①はじめに

 私の買ったのは第12刷りでこの本は実によく読まれたことがわかる。しかし私は岩波が苦手でこの本も今頃になってやっと読む気になった。それというのは、昔使った岩波の教科書(翻訳書)は実に難解でまず最初の2ページくらいで投げ出してしまうものだった。噂によると岩波は大変な殿様商法で一流の学者に、厳密な翻訳を要求したらしい。ために生乾きの逐語訳の教科書であった。(日本人の学者が日本語で書くとそうでもない。ただしそういう人でも文の下手くそな人はいくらもいる。今はどうか知らないが、岩波は学者として一流であれば文の下手くそには目をつぶるという文化があるように思う。)

 文は中身も大事とは思うがリズムも大事で、読み下し漢文の値打ちはそのリズムにあるだろうし、紫式部も清少納言も半分は中身ではなく文章のリズムで勝負していたような気がする。芭蕉蕪村はもちろん太宰治も泉鏡花もリズムで売ったと言えないか?私は逐語訳のリズムのない文章の教科書で勉強嫌いになったので、ついでに岩波も嫌いになった。さらに岩波新書までも嫌いになって手に取らなくなった。しかし、ここまで有名な本になると読まないわけにはいかない。読んで面白いだけではない、考えが変わり生き方が変わるというのがよい本であろうからこれはよい本である。

 9.11以降のアメリカがずいぶん住みにくくなっているというのはヒト伝手に聞くことがあるが、わが国も負けずに住みにくくなってるのだから人のことなんかカマッテいられないと聞き流していた。しかしこれを読むと、ひょっとしてわが国もここまで来ることがあるかもと思うから他山の石にすべきかもしれない。

 まず第一は学費ローンであろう。中間層の所得が少なくなってくると子供の学費にローンが使えるようになるのはアメリカが先陣を切り同じころだと思うが日本でも始まった。ただアメリカでは高校の学費にまで使えそうなのは驚きである。これは何も親切でやってるのではなく、貸出先に困った金融機関がこういうことをはじめたというだけであろう。その際何らかの保証を政府機関がやっているものと考えられる。親切に見せかけておいて実は金融機関に仕事を作ってあげるということではないか。凡そ金貸しがモミ手で近づいてきたときは身構えねばならない。

 アメリカでは学費ローンの返還に困って軍に入隊する人が多いという。ただし入隊しても返還が必ずしもスムースに行くわけでもないとこの本では例を挙げていた。わが国にも返還に困ってる人は多いのではないかと想像されるが果たしてどうなっているのか。また、かつてわが国では学費ローンを良いことのようにして盛んに勧める論調があったがそろそろ結果をよく調べてその論調が良かったのかどうか調べるべきだろう。

 ついでにアメリカは知らずわが国でも果たして大学に行くことがその人のあとの人生を開くかどうかはよくよく観察しないといけない気がする。なるほど大学では忙しく勉強しているが、勉強したことが本当に役立ってるのかと思うことが一杯ある。例えるに毎日出勤するときに何億円の札束を腹巻にいれて出ているようなものである。仕事中はさっぱりそれを忘れて昼ご飯は手持ちの薄い財布から支払い、帰宅してからは腹巻を枕元に置きまた同じことを繰り返す。知識はうんと持ってるけど役に立てようとしない、または立たない仕事になっている、そんなことになってないかと疑うのである。

 そうなら大変な時間と資源の無駄である。社会全体でもまた個人の立場としてもよく考えねばならない。高校全入は昭和の中期ごろに唱えられたが、その真意は失業者が増えることを恐れたためである。むかし良かったことがそのあともずーと良いこととして通用するとは限らないことに注意すべきだと思うがどうか。


もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)④ここを付けくわえてほしい。

2023-04-10 13:16:01 | 日記

もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)④ここを付けくわえてほしい。

 この本はもう十年以上前に書かれている。その後日銀総裁の記者会見発表というのが何度もあった。日本中が固唾を飲んでこの放送を見たがその様子は、まるでお殿様がこう決めたから左様こころえよという時代劇そのものであった。他の人もそうだと思うけどだんだん聞く気がしなくなって音を消して総裁の表情をひたすら見るようになった。頬がぴくぴくしていないかとそこを注視するのである。テレビ局も心得たものでどの角度からが一番わかりやすいかを考えて総裁の顔を大写しする。これは東大話法の亜種というべき新お奉行様話法であろう。

 台風の予測はかなり正確に風速や降雨量を言って対策まで指示する。日銀の発表もそのあとで予報官という人が出てきてこういう仕事をしている人にはこういう影響があります、対策はこうですその影響は何時まであるかをきめ細かに予報するべきだろう。この新お奉行様話法の話も入れてほしい。

 立場主義も関守の話も日本で財団や巨大な企業の管理部門で起こっている官僚機構の話だと考えられる。これは、AIと相性がいいと考えられる。現に銀行の融資審査はAIが行うようになってスピードアップしたという話である。しからばここには新しい風が吹き込んでいるようだから、ここを取材して立場主義や関守の仕事が今後どうなるのかを考察してほしい。

 アメリカのIT企業で万を超えるリストラが相次いだという。それはひょっとしてこの関守の仕事をしていた人の仕事がAIに置き換わったことではないのか。(新聞ではそうだとは言っていない。)もしそうなら同じことが日本で起きないか、起きたらあの「〇〇であるとするなら謝りたい。」という気分の悪い喋り方をする人が居なくなるから大いにいいことだと思うが本当にそうなのかの考察を入れてほしい。これに関して一番大事なことは、今の日本の教育はよき関守に育て上げよき立場に立たせるためのものである。そのためには事務処理能力が要求されるからそれを育てるように工夫されている。この教育の目標が変わるのであるから、教育もどう変えるかの議論はもっと早くから必要であろう。

 さらに参考になりそうだからこんな話も聞きたい。この東大話法というのは、そのもとは官僚語法というものであろう。昔は、「窓口が違う」と言ったり「アー」、「ウー」と言って訳が分からん対応をしていたものが説明責任の方針のもとで言語明瞭意味不明の発言に変わったものが東大話法だろう。この官僚組織はもともとは古い中国の発明でうまくいくときとうまくいかないときが交互に現れたようだ。清国末期にフランスがこれはいいと取り入れて日本がそのフランスのまねをしたと聞いている。このシステムは果たしてAIのもとで変化するのだろうか。するとしたらどんな変化なのか。産業革命時の手工業の工場が蒙った変化と同じくらい大きな変化がこの東大話法を使う人々に及ぶと考えられるが果たしてそうか。

 もしAIによって関守の仕事が劇的に少なくなれば、人々は週3日午前中だけの働きで充分の時代がやってくると考えられる。そうすると関守をやって(本当に忙しい、または忙しい振りをする)立場主義を堅持していた人は人生観を変えねばならなくなるが、その場合はどんな人生観になるのか。もしかして引きこもりの人々をお手本とすることにならないのか。または「遊び方指南所」という新しい商売ができるんじゃないか。など10年も経ったのであるから加筆することは一杯あると思われる。


もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)を読む③関所資本主義

2023-04-08 12:46:11 | 日記

もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)を読む③関所資本主義

 著書にはもう一つ大事な言葉があって、「関所資本主義」というらしい。おカネの通り道に待ち受けていてそこを通るおカネに課税する関守の様な仕事を、東大話法をする人はしているという。その仕事は価値を生み出すのではなく単に関所の整備であるという。銀行の融資担当の仕事が一番わかりやすいが、ありとあらゆるところにこれがあるという。車の製造であるなら、部品を集めてきてそれを製造ラインに流すところに隘路を作っておき流れをコントロールすることで利益を出すらしい。

 融資も部品を集める仕事もそれをコントロールすることで会社の利益を大きくするんだから関守が儲かって何が悪いと思うんだけど、著者はいけないという。関守は「東大話法」を使うからだという。なるほど、融資担当に限らないが銀行の奥の仕事をしている人は、木で鼻をくくったような感じの人が多い。ミハエル=エンデの「もも」に出てくる時間泥棒のイメージにピッタリである。同じ概念をエンデは時間泥棒と言いこの本の著者安富は関守と言っているのだと思う。

 私はごくまれにしかこの時間泥棒または関守と接触しないから、何も気にならないが著者はもと銀行員であるのでここに敏感であるようだ。そしていちばんいけないことは、この関守業に携わる人は自分のついた嘘を本当と自分が信じ込んでしまうために自らの心を損ない心の病を引き起こすことにあるという。自家中毒である。

 それでわかった。この関守または時間泥棒の給料がむやみに高いのは、自家中毒する危険手当込みの値段だからであろう。よくできた給与体系である。さらにちかごろはあまり見かけないが、テレビに出て頭を深々と下げる仕事もやる危険がある。頭を下げついでにまた「東大話法」であれこれ言い訳するもんだからテレビを見る人は渋茶をすすりながら「この人ぜんぜん反省してへんのんとちゃう?」とかいわれてお茶菓子の代わりにされてしまう。

 その程度なら別に他人のことであるからどうでもいいやんかと私は思うが著者はそうではないと言う。そういう自家中毒の生き方をするひとがいると、それが正常な人に移るというのである。何となくそんな雰囲気が社会に蔓延するという意味であろう。それなら私も関係があるから心配である。予防策やもし移ってしまった時の対策も教えてほしかったがそれはこの本にはない。それに何となく蔓延しているというのは感じないわけではない。

 ここで思いついた。廃仏毀釈前のお坊さんのことである。お寺の打ちこわしがすごいものであったと私はおじーさんから聞かされたことがある。そのおじーさんだってせいぜいが明治の末くらいの生まれのはずだから自分が現場を見たわけではないだろうによくそんなこと言うよなと聞いていた。しかし多分当時の人々がお坊さんを嫌いぬいていたということは事実だろう。当時のお坊さんのことだから、庶民に対してありもしないようなことを喋って寄付を強要するような行いがあったのかもしれない。庶民は嫌いぬいていたので廃仏毀釈の号令がかかると絶好の機会と打ちこわしに動いたのではないか。明治維新は市民革命でなかったとされるが、この打ちこわしは市民革命ではなかったか。もっとも明治新政府がガス抜きのために自分以外のものが敵になるようにあえて作ってさしあげたということも考えられる。現在東大話法を使っている人々が、このようなガス抜きの対象にならねばいいがと他人事ながら心配する。

 著者の安富さんは東大教授である。よくまあご無事でいられるもんだと思う。普通だったらイジメて放り出されるところであるのにまだお続けであるという。ここに日本の将来に一縷の光の差すのを感じる。


もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)を読む ②

2023-04-06 15:04:43 | 日記

もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)を読む ②

 私ははじめ、立場主義で仕事をして何が悪いんだと思いながら読んでいた。立場に立てる人であるから実入りはいいはずだ。(立場のないヒトとは、非正規や長く無職であった人のことらしい)仕事がスムースに行ってるときは楽だろう。いい立場さえ手に入ればそれにしがみついて生きて何が悪いもんか。たまには縄のれんの向こう側で本音を喋っても許されると想像されるからそれで本人の精神衛生も守られるはずだ、と考えながらここまで読んだ。

 しかし、著者は最近の若い人が折角の大企業や役所への就職をやめてしまう例が極めて多いこと、続ける人の中にもうつ病にかかって休職する人が多いことをあげて立場主義になる(社畜になる)ことが精神衛生上きわめて悪いことであると力説する。立場主義者というのはえ付けされてやりたくないことをやらされている猿回しの猿のことだろう。この場合の猿は自然の猿より元気がないことは観察できるが、根拠はないけど猿回しの猿の方が長生きできそうな気もする。どちらがいいとはにわかに判定できないとわたしは思う。

ここでさらに著者は、立場主義者をこう表現している。「奥さんも立場主義者であることから、奥さんに搾取され立場主義者は収入が多いにも関わらず小遣いが異様に少なく何でもかでも割り勘にする。」これはわたくしが観察する事例と一致する。立場でモノを言うような人は出世もするし収入にも恵まれているが、どこか影の薄いところのある人が多いしあまり強引でもない。しっかり者の奥さんがいて、奥さんは旦那の立場と結婚したと考えられる。しかしこれもそんなに悪いことでもなさそうな気がする。

しかし、次の考察は本当かと耳を疑うような話である。立場主義社会では、立場を失った旦那は奥さんには無用の長物だから熟年離婚が頻繁に起こると主張されている。この実例らしきものも実際ちらほら耳にするようになった。

昔は、出世した人は天下りとか子会社社長にするとかいろいろな激変緩和処置があった。私の知る人は天下りして毎朝新聞を5つくらい買ってそれを携えて出勤して夕方よれよれになった新聞を持って帰って月に15万円くらい貰えたらしい。ありがたいのだかどうだかわかりにくいが、それでもおかげさまで当時熟年離婚という言葉もなかった。最近立派な風采の紳士が長い間商業施設の椅子に座っているのを見ることがある。

この社会が壊れかけているのは、なにも登校拒否が増えているとか会社の中でパワハラがあるとか格差が大きくなったとかだけではない。行くところのない立派な風采の紳士というのもなかなか大きな問題である。そういう紳士を生みだした原因が日本に長く続く立場主義であると筆者は説く。しかしこの本には解決策の記載がない。自分で考えろと言う意味か、筆者にも思いつかないのか?

 立場を守るためにグズグズした話をしてその挙句が商業施設での長いお座りでは気の毒としか言いようがない。私のごくごく小さいころの老人は、何かというとうまいものを食べに連れて行ってくれてその代わり面白い(と本人が思っている)話を大声で語るのを周囲に聞かせる元気なひとが多かった気がする。


もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)を読む 

2023-04-05 14:50:51 | 日記

もう東大話法にはだまされない(安富歩著 講談社+α新書2012年)を読む 

 この本は東大話法とそれをさらに深く掘り下げた「立場主義」について痛快な考察をしている。普段は中身カスカスの講談社+α新書にしては中身が詰まっている。

 東大話法とはこの本の中で細かな定義があるが、2011年に盛んにテレビに出ていた原子力問題の専門家のしゃべり方のことである。その専門家は大抵東大卒だから東大話法というのである。しゃべり方は専門用語を用いて視聴者にマウントをとるまたは煙に巻く、さらに慎重に事前に検討を行ったと見えて責任を追及されないように発言に工夫がある、ぬらりくらりしているように見えて結論はあるがそれはどうやら政府の意向に従っている、などの特色がある。一言で言うと賢そうに見えるけど実は中身がないのである。ちょうどうまそうに見える豚まんだけど、皮がまずくて厚くて食べても食べてもアンの部分になかなか到達しないようなもんである。

私は当時だんだん見るのがあほらしくなって、出演している専門家の人々は出演料どんだけ貰うんやろとか、この場合青色申告できるのかとか着ているスーツは必要経費にできるのかとかの他人の心配をしていた記憶がある。見ていると10年に一度くらいこういった専門家が登場するような時代になったようである。ただし分野は全く異なるので、一人のヒトは出るとしても生涯一回限りであろう。

さて、こういう喋り方は東大卒だけではない。最近私はある人々と話していてそのうちの一人(東大卒ではない)が「ご不審の思いを抱かせたとすれば謝りたい。」と言い出したには驚きあきれた。責任の所在は自分にはないということを大声で宣言してもうこれで終わりにしたいということを言ってるようなもんである。私はあきれてもうそれ以上何も言わなかったがこの人はこの組織の中で出世を果たすだろうということと、この組織はまもなく終焉を迎えるだろうということを予想した。果たしてこの人は出世したが、この組織は私の予想に反してまだしぶとく命脈を保っているのは残念である。

著者の安富さんは、東大話法が流行っているような国の命運が危ないとおっしゃっている。同感である。語りてが、言葉と実態とを一対一に対応させる努力を払わないようならそれを聞いて方針を立てることは危ういことだからである。

さらに著者は議論を進めて、このような話法を編み出した裏側には仕事をするについて個々のヒトが居るのではなく「立場」があると分析する。ヒトが言うのではない、立場が言うのである。なるほど感情をもった人としてはこういう時にこういいたいけど、言えないときにその人は「それは立場上口が曲がっても言えませんな。」という発言をするのを聞いたことがある。この場合、この人は事実上は言っているのであるが公式には言ったことにならないという微妙な立ち位置にあるがそれで許してくれと言う意味である。

この立場主義は、江戸城で老中が議論するときまたは朝廷でなんとかの朝臣が討議するときに磨かれた手法ではないかと思う。平和なときにはそれでもいいけれど火急の時に立場によって考察するととんでもないことになる。すでに火急の時になっている。

立場としてサービス残業をする。(個人としてはしたくない)立場として過労死するまで働く。(個人としてはしたくない)などなどであると著者は説く。

海外旅行をして帰ってくると日本人の顔が思いつめたような異様な真剣さであることに驚くことがある。立場に乗っかって立場を主張するとこういう顔になるのではないか。個人というものがまだこの国にはないのではと思うこともある。