雨が降り続くと、時間が一杯でき、退屈と感じるかと言えばそうではない。
15年あまり「毎日が日曜日」を続けているが、幸いなことにあまり退屈と感じたことがない。
山登りとか野菜づくりとか庭いじりとか本を読んでいればもちろん退屈と感じることはない。
しかし、今ではほとんどなくなったが、各種の飲み会、同窓会に参加しても、なかなか楽しむことができず、むしろ退屈だと感じてしまう。仕事上飲むのとは違い、無理に飲む必要がなく、あまり酔わないからかもしれないし、社交下手のせいかもしれない。だから、誘いも来ないことになる。
國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」を二日かけて読んだ。表紙の宣伝文句にもあるとおり、哲学書としては無類に読みやすい。
それでも哲学書であるからパスカル、ハイデガー、マルクス、アーレントなど多くの引用がある。
今までのおじさんの知識を新たにするような部分があった。
例えば、人類は1万年前に農業革命が起こり、遊動生活から定住生活へと生活様式が変わった(人類発生400年前とすると定住生活はわずか1万年ということになる)。これは地球の温暖化により大型の動物がいなくなったことで、定住を余儀なくされ、この結果農業革命が起こった。農業革命の結果定住生活になったということではない。
なぜこの話が出てくるかだが、定住生活の結果、生きるための刺激がなくなり、人間は退屈だと感じるようになったと。
人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は、むしろ遊動生活にこそ適しているからだ。
エクスキュール(エストニア生まれの理論生物学者)の「環世界」という概念、すなわち「すべての生物が同じ時間と同じ空間を生きている」のではなく、「全ての生物は別々の時間と空間を生きている」という。
その中で出てくる生物の一つとして「マダニ」(ほ乳類や人間の血を吸う、おじさんは被害にあったことはないが、山とものEさんはやぶ漕ぎをやるので被害にあっている)が興味を惹く
メスは交尾を終えると、八本の肢を使って適当な枝まで登り、ほ乳類が通るのを待つ。下などを通るほ乳類にうまく取り付いたなら(37度の体温でないと絶対に吸血しない)、吸血し、地面に落ちて卵を産み死ぬ。
ダニは目も見えないし、音も感知できない。ほ乳類の発する酪酸の臭いに反応し、動物に取り付く。うまくいかずに地面に落ちると、再度枝に登り、動物が通るのを待つ。18年間も飲まず、食わずで待ち続けたダニがいるそうである。
酪酸のにおいと37度の温度と体毛の少ない皮膚組織を順序とおりにシグナルとして受け取った場合のみ吸血する
すなわちダニは3つのシグナルからなる環世界を生きている
著者は言う。人間は複数の環世界を生きている。一つの環世界にとどまっていることができない。これが人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。
※学校、会社に通う人として、あるいは家庭人としてのそれぞれの環世界がある
以下では哲学者たちの主張を見て見よう
◯パスカル
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる、人間が振り払うことができない”病い”である
ウサギ狩りは、ウサギが欲しいわけではなく、気張らしが欲しいからする
解決策は神への祈り
◯ニーチェ
幾百万の若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている
彼らにとって真剣な生とは、緊急事態、深刻な極限的状況、戦争といったものに絶えず直面している社会において体験される生のこと
◯マルクス
欠乏と外的有用性によって決定される労働は止み、「自由の王国」が実現されなければならない。その自由の王国とは労働そのものが廃棄されるのではなく,労働日の短縮で、労働もあるが、余暇もある状態である
◯ハイデガー
人間は、<世界形成的>であり、世界そのものを受け取るが故に退屈をする。この退屈は人間が自由であることの証拠である。
ハイデガーは人間が環世界に生きることを認めなかった。環世界を生きるのは動物だけで自由がないからである。→著者はおかしいと言う。
ハイデガーは三つの退屈をあげているが、複雑になるので省く。
<結論>
前提として本書を通読し、暇と退屈というテーマの自分なりの受け止め方を涵養していくことが必要である(だから是非読んでね!)
◯贅沢を取り戻す
浪費と消費を区別する。浪費は物を過剰に受け取ることで、その受け取りには限界があるから、どこかでストップする
一方、消費は物でなく観念を対象としているから、いつまでも終わらない.満足を求めて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。
<物を受け取ること>とは、物を楽しむことである。衣食住を楽しむこと、芸術や芸能や娯楽を楽しむことである。
贅沢を取り戻すとは、気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり人間であることを楽しむことである。
◯人間らしい生活とは、退屈を時折感じつつも、物を享受し、楽しんでいる、そういった生活である
楽しむためには訓練が必要なのだ。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。
◯人間であることを楽しむことで、動物になることを待ち構えることができるようになる(これが本書の結論となっている)
ここまで読んでくれたら大感謝である。ほとんど切り貼りであるが、最後のところがどうもよく分からない。、<動物になること>(退屈を感じない)という概念がわからないからである。
ネットで検索すれば、この本についての驚くばかりの要約があるので、興味のある人はどうぞ。
15年あまり「毎日が日曜日」を続けているが、幸いなことにあまり退屈と感じたことがない。
山登りとか野菜づくりとか庭いじりとか本を読んでいればもちろん退屈と感じることはない。
しかし、今ではほとんどなくなったが、各種の飲み会、同窓会に参加しても、なかなか楽しむことができず、むしろ退屈だと感じてしまう。仕事上飲むのとは違い、無理に飲む必要がなく、あまり酔わないからかもしれないし、社交下手のせいかもしれない。だから、誘いも来ないことになる。
國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」を二日かけて読んだ。表紙の宣伝文句にもあるとおり、哲学書としては無類に読みやすい。
それでも哲学書であるからパスカル、ハイデガー、マルクス、アーレントなど多くの引用がある。
今までのおじさんの知識を新たにするような部分があった。
例えば、人類は1万年前に農業革命が起こり、遊動生活から定住生活へと生活様式が変わった(人類発生400年前とすると定住生活はわずか1万年ということになる)。これは地球の温暖化により大型の動物がいなくなったことで、定住を余儀なくされ、この結果農業革命が起こった。農業革命の結果定住生活になったということではない。
なぜこの話が出てくるかだが、定住生活の結果、生きるための刺激がなくなり、人間は退屈だと感じるようになったと。
人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は、むしろ遊動生活にこそ適しているからだ。
エクスキュール(エストニア生まれの理論生物学者)の「環世界」という概念、すなわち「すべての生物が同じ時間と同じ空間を生きている」のではなく、「全ての生物は別々の時間と空間を生きている」という。
その中で出てくる生物の一つとして「マダニ」(ほ乳類や人間の血を吸う、おじさんは被害にあったことはないが、山とものEさんはやぶ漕ぎをやるので被害にあっている)が興味を惹く
メスは交尾を終えると、八本の肢を使って適当な枝まで登り、ほ乳類が通るのを待つ。下などを通るほ乳類にうまく取り付いたなら(37度の体温でないと絶対に吸血しない)、吸血し、地面に落ちて卵を産み死ぬ。
ダニは目も見えないし、音も感知できない。ほ乳類の発する酪酸の臭いに反応し、動物に取り付く。うまくいかずに地面に落ちると、再度枝に登り、動物が通るのを待つ。18年間も飲まず、食わずで待ち続けたダニがいるそうである。
酪酸のにおいと37度の温度と体毛の少ない皮膚組織を順序とおりにシグナルとして受け取った場合のみ吸血する
すなわちダニは3つのシグナルからなる環世界を生きている
著者は言う。人間は複数の環世界を生きている。一つの環世界にとどまっていることができない。これが人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。
※学校、会社に通う人として、あるいは家庭人としてのそれぞれの環世界がある
以下では哲学者たちの主張を見て見よう
◯パスカル
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる、人間が振り払うことができない”病い”である
ウサギ狩りは、ウサギが欲しいわけではなく、気張らしが欲しいからする
解決策は神への祈り
◯ニーチェ
幾百万の若いヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている
彼らにとって真剣な生とは、緊急事態、深刻な極限的状況、戦争といったものに絶えず直面している社会において体験される生のこと
◯マルクス
欠乏と外的有用性によって決定される労働は止み、「自由の王国」が実現されなければならない。その自由の王国とは労働そのものが廃棄されるのではなく,労働日の短縮で、労働もあるが、余暇もある状態である
◯ハイデガー
人間は、<世界形成的>であり、世界そのものを受け取るが故に退屈をする。この退屈は人間が自由であることの証拠である。
ハイデガーは人間が環世界に生きることを認めなかった。環世界を生きるのは動物だけで自由がないからである。→著者はおかしいと言う。
ハイデガーは三つの退屈をあげているが、複雑になるので省く。
<結論>
前提として本書を通読し、暇と退屈というテーマの自分なりの受け止め方を涵養していくことが必要である(だから是非読んでね!)
◯贅沢を取り戻す
浪費と消費を区別する。浪費は物を過剰に受け取ることで、その受け取りには限界があるから、どこかでストップする
一方、消費は物でなく観念を対象としているから、いつまでも終わらない.満足を求めて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。
<物を受け取ること>とは、物を楽しむことである。衣食住を楽しむこと、芸術や芸能や娯楽を楽しむことである。
贅沢を取り戻すとは、気晴らしを存分に享受することであり、それはつまり人間であることを楽しむことである。
◯人間らしい生活とは、退屈を時折感じつつも、物を享受し、楽しんでいる、そういった生活である
楽しむためには訓練が必要なのだ。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。
◯人間であることを楽しむことで、動物になることを待ち構えることができるようになる(これが本書の結論となっている)
ここまで読んでくれたら大感謝である。ほとんど切り貼りであるが、最後のところがどうもよく分からない。、<動物になること>(退屈を感じない)という概念がわからないからである。
ネットで検索すれば、この本についての驚くばかりの要約があるので、興味のある人はどうぞ。
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