醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 四号

2014-11-17 09:58:25 | 日記
          


句郎 「遠山に日のあたりたる枯野かな」という虚子の句があるでしょ。この句は素晴らしいという人がいるけれども、どこがいいのか   な。華女さんはどう思っているの。
華女 私はいい句だと思っているわよ。冬の日の情景が目に浮かぶでしょ。その情景がなんとも冬の日の暖かさを感じない。
句郎 花鳥諷詠とは、このようなことなのかな。
華女 そうだと思うわよ。花鳥諷詠とは一瞬の風景なのよ。その直観力が勝負だと思うけれどね。
句郎 直観力か。何も感じなかったら、風景は過ぎ去って行ってしまうということなのか。
華女 張りつめた神経に風景が語りかける一瞬を捉えたものが俳句になるのだと思う。
句郎 芭蕉が詠んだ風景とは大きく違うね。
華女 どう違うの。
句郎 日光で詠んだ「あらたうと青葉若葉の日の光」という句があるでしょ。この句が詠んでいる風景と高浜虚子が詠んだ風景とは違っ   ていると感じない。
華女 そうかしら。落葉樹の若葉や青葉が日の光にきらきらする一瞬を詠んでいるように私は思うけど。違うの。
句郎 違うと思うよ。日光山輪王寺は数百年の歴史をもつ、日本有数の修験道の聖地だよ。更に徳川家康を祭神とする神宮の所在地なん   だからね。まさに神仏習合の聖地なんだ。日光の山には神がいる。と同時に悟りを開く修験の山でもあるんだ。その聖地を称えた   句が「あらたうとーー」だと思う。芭蕉が詠んだ世界は自然じゃないんだ。何代にもわたる人々の営みというか、その経験によっ   て築かれた尊いものを称えた句だと思うんだけどね。
華女 だから、言ったのね。杉の大木に囲まれた参道を歩き、ああーー、いい気持ちだ。東照宮・陽明門の前に参ったら、おおーーー、   と絶叫した。その気持ちを詠んだ句が「あらたうとーー」なのだと言ったわけなのね。
句郎 そうなんだ。単に森林浴をしていい気持ちになった。東照宮の煌(きら)びやかさに驚いたというだけの句ではないと思うんだ。
華女 なるほどね。
句郎 杉の木、一本一本に、修験者が走った細い石の道、その石一つにも行者たちの思いが詰まっている。参道の小道を歩くと昔の人々   の息遣いを感じ、すがすがしい気持ちになった。陽明門を見てはここまで細密に彫刻を施して祭神を飾った人間の技の極致に感極   まった。こうして祭神を称える人々の気持ちに絶叫したのだ。
華女 目に見えた自然ではなく、人間の営みを自然に託して芭蕉は句を詠んだといいたいわけね。
句郎 うん。そうなのかな。だから、芭蕉が詠んだ風景、自然はすべてといっていいくらい、人間を詠んだ句ではないかと思っているん   だけどね。
華女 虚子の花鳥諷詠も単なる花や鳥、山の自然の風景を詠んだのではなく、やはり、人間を詠んでいるとは思うけどね。
句郎 「流れ行く大根の葉の速さかな」なんていう句も近郊農村の農民の暮らしが見えてくるような気が確かにするね。でも芭蕉の句は   違うんだな。人間の歴史の厚みを詠んでいるように思う。そこが違うと思うけど。