侘輔 樽から搾った酒を杉の升で飲むのはなかなか乙なものだね。
呑助 どこで飲んで来たの。
侘助 うん、この間、落語を浅草に聞きに行ったんだ。演芸ホー
ルに行く前にちょうど昼時分だったから藪蕎麦に寄ったんだ。
呑助 藪の「もり」は笊が盛り上がっているんじゃないの。
侘助 そうなんだよ。箸で三回も掬うと終わりなんだ。周りを見渡
すとオヤジたちはみな「もり」を二枚注文していたよ。
呑助 それでワビちゃんも「もり」を二枚注文したわけね。
侘助 うん、そうなんだ。見渡すと樽がデンと据えられ、木の栓を
抜いて杉の升に注いでいるじゃないの。升を乗せた皿にお酒
がこぼれている。
呑助 酒飲みの情緒にワビちゃんは刺激されちゃったわけね。
侘助 うん、そうなんだ。「もり」が来る前に一杯と言う気持ちに
なってね。それが二杯になっゃたわけなんだ。
呑助 もちろん、皿にこぼれた酒を升に注ぎ、舐めるようにして樽
酒を飲んだわけね。俺も飲みたいな。
侘助 うん。みんな皿にこぼれた酒を升に注ぎ飲む。これが酒飲み
の作法というもんだよ。
呑助 皿にこぼれた酒があると少し豊かな満足した気持ちになるよね。
侘助 そうだよ。それが男のロマンだと言った男がいたよ。
呑助 店の客に対する優しさのようなものが皿にこぼれた酒にあるよ
うに感じるのかも知れないね。
侘助 確かに客がその店を好きになるきっかけになるように思うね。
呑助 日本の文化なんて言っちゃ大げさ過ぎちゃうように思うけど、
かっちりしているのが欧米の文化だとしたら、日本の文化はす
こし遊びがある。この遊びが皿にこぼれた酒にはあるように思う。
侘助 ノミちゃん、凄いことを言うもんだね。この皿にこぼれた酒を
日本で見たイギリス人が国に帰り真似をしたのではないかとい
う話を聞いたことがあるよ。
呑助 皿の上にコップを置き、溢れるばかりにウイスキーをコップに
注いだの。
侘助 いや、違う。イギリス人の嗜好品は紅茶だろう。紅茶のカップ
は受け皿のソーサーの上に乗せて注ぐ。日本人はソーサーにこ
ぼれないように紅茶をカップに注ぐけれどもイギリス人は紅茶
をカップに注ぎ、ソーサーにこぼす。
呑助 小皿にこぼれた紅茶を日本人のようにカップに戻して飲むの。
侘助 そうじゃないんだよ。カップに注がれた紅茶をソーサーに空け、
そのソーサーに口を付けて紅茶を飲むようだよ。
呑助 へぇー。本当ですか。紳士の国、イギリスでそんな無作法な紅
茶の飲み方をしているんですかね。
侘助 日本の文化では無作法でもイギリスでは無作法ではないのかも
しれない。イギリスには二つの国民がいるというね。働く国民
と働く者を管理する国民がいる。この二つの国民は交わること
決してない。イギリスに留学した角山榮という歴史学者が「辛
さの文化・甘さの文化」という本の中でイギリスの労働者たち
の紅茶の飲み方を見て、紹介している。
呑助 なるほどね。