醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  17号   聖海

2014-12-01 12:29:16 | 随筆・小説
 
 塚も動け我泣声は秋の風  芭蕉

 私の気持ちに応えて、塚よ応えてほしい。私があなたに
どんなに会いたかったか、その気持ちをわかってほしい。
あなたが亡くなったと聞いて秋風のごとく悲しみにくれて
います。
 このような芭蕉の気持ちを表現した句でしょうか。小杉
一笑という金沢では有名な俳人に会いたいと思って芭蕉は
やってきた。芭蕉はまだ一度も一笑にあったことはない。
それにもかかわらずにこのような句を詠んだ。なにか一笑
からの手紙に芭蕉の心に触れるものがあったのであろう。
江戸時代にあって手紙は今では考えられないほど人と人と
を結びつける力があった。噂に聞く一笑の俳諧の力に学び
たいという気持ちが芭蕉にあったのかもしれない。きっと
芭蕉は人間関係を大事にする人であったのであろう。俳諧
そのものが人と人との交わりを楽しむ遊びでもあった。そ
んな遊び事に芭蕉は命をかけた。
 芭蕉は「塚よ動け」とは詠まずに「塚も動け」と詠んだ。
まずここに芭蕉の芸があるように思う。「
と「」ではどのような違いあるのだろう。
細見綾子の句に「春の雪青菜をゆでてゐたる間も」
がある。
 この「」は「春の雪」も「ゆでてい
たる間も」という解釈でいいと思う。「春の雪も」の「
は省略されている。この「」を読者に喚
起させる言葉が「ゆでていたる間「」の
」である。「塚動け」
と詠んだのでは「我泣声」の「
を読者に喚起させることはできない。だから「塚動け」
でなければならない。
 「我泣声は 秋の風」の中七の言葉と下五の言葉の間に
小さな切れがある。このことに気づかせてくれるのも「塚動け」
の働きである。「我泣声は」の
は、という意味をも表現していること
に気付く。
 この句の解釈は塚も動いて私の言葉に答えて下さい。私が
泣く声も私の哀しい思いを乗せた秋風になってあなたに語り
かけています。どうか私に一笑さん、応えて下さい。こう解
釈することで追善句になる。静かに故人を思う気持ちが表現
されることになる。
 芭蕉学の泰斗、鴇原退蔵がこの句ははげしい悲しみの情を
のべたと解釈したのに対して上野洋三は違和感を覚えた。こ
の句は慟哭の句ではない。そもそも追善句とは静かに故人へ
の思いを表現するものである。
 芭蕉の他の追善句を上野洋三は読む。

 なき人の小袖もいまや土用干し


 数ならぬ身とな思ひそ玉祭

 人の数にも入らない身だと思うことはないよ。私が今、
こうしてあなたの御霊をこうして供養しているのだから。
芭蕉は自分の身の周りの世話をしてくれた寿貞が薨(みま
か)ったとき詠んだ追善句である。芭蕉が一人、仏前に祈
る姿が瞼に浮かぶ。

 埋(うづみ)火(び)もきゆやなみだの烹(にゆ)る音

 火鉢の埋火も消え、悲しみの涙もなくなり、会葬の人もい
なくなった。囲炉裏にかかっている鉄瓶の音だけが部屋にこ
だましている。
 会葬者のいなくなった棺の前で故人を思う気持ちが静かに
表現されている。これが追善句なのだ。
 整えられ、鎮静された感情を表現してこそ此岸から彼岸に
向けて故人が彼岸に渡っても幸せであってほしいという気持
ちが表現されるのだと上野洋三は主張する。慟哭では追善に
ならない。
 この句を激情、慟哭を表現したものとするのが大勢の中に
あってこのような解釈をしたのは勇気ある試みであると思う。
私もこの上野洋三の解釈に従ってこの芭蕉の句を理解したい。