「おくのほそ道」途上、安積山(あさかやま)にまつわる逸話
小汚く蒸した郡山の宿を芭蕉と曾良は日の出と共に福島を目指し旅立った。一里半ばかり行くと屋根を桧皮で葺いた家々が見えてきた。庭先で立働きをしていた女に井戸水を曾良は乞うた。升を渡された芭蕉と曾良は喉を潤した。道行く人に尋ねるとあれが安積山(あさかやま)だと教えてくれた。この山が安積山(あさかやま)か。芭蕉は物思いに耽った。同道する村人が話し始めた。
「昔な、次郎と春姫と云う若者が好きおうておった。このあたりはな、山背という冷たい風が稲に穂がつくころ吹くんじゃ。山背が吹くと米が獲れん。朝廷に租が払えんのじゃ。奈良の都から葛城王が租の徴収に来たのじゃ。里人は村の窮状を訴えるが受け入れてもらえん。里長の娘、春姫がその時に詠んだ歌が今も私らに伝わっているんじゃ。『安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに』というんじゃ。安積山の影が山の麓にある沼の水面に映っているじゃろ。あの沼は浅いように見えるがなかなか深いんじゃぞ。我々里人の都の王さまへの思いは浅いように思っておられるかもしれませんが、都の王さまをお慕いしている気持ちはとても深いものございますと。すると王さきはお喜びになり、春姫を都にお連れすると同時に租を三年免除してくれたのじゃ。春姫を失った次郎は笛を吹いて春姫への変わらぬ気持ちを歌ったが哀しみに耐えきれず、沼に身を投げた。春姫もまた王から寵愛を受けていたが次郎を忘れることができず、猿沢の池に身を投げたふりをして都を逃れ、安積の里への道を駆け続け、ふる里に戻ったが次郎が身を投げた後だったんじゃ。春姫もまた次郎が身を投げた沼に身をなげての。やがて雪がとけ、安積の里にいよいよ春が来たと思われたころじゃ、沼の清水のまわり一面に、名も知れぬ薄紫の可憐な花が咲き乱れたのじゃ。この花を誰言うともなく『次郎と春姫の永久の愛が土の下で結ばれて咲いたじゃの』という話が広がっての、それ以来、里の人たちはこの花を『安積の花かつみ』と呼んでいるんじゃ」
「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」。この歌にはこのような逸話があったのかと芭蕉は思った。どの花が「安積の花かつみ」と云われる花なのか、訪ねてみたが、知る人はいなかった。この日、芭蕉と曾良は福島に宿をとった。