醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  959号  白井一道

2019-01-06 13:36:16 | 随筆・小説



 うき我をさびしがらせよ閑古鳥  芭蕉  元禄4年


句郎 「うき我をさびしがらせよかんこ鳥」。元禄4年、『嵯峨日記』に載せられている句である。
華女 『嵯峨日記』とは、元禄4年(1691)。芭蕉は『おくのほそ道』の旅を終えた後、京都嵯峨にある向井去来の落柿舎に迎えられ4月18日より5月4日まで滞在した際の日記よね。
句郎 「4月22日 朝の間雨降。けふは人もなく、さびしきまゝにむだ書してあそぶ。其ことば、「喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飲ものは樂あるじとす。」「さびしさなくばうからまし」と西上人のよみ侍るは、さびしさをあるじなるべし。  又よめる「山里にこは又誰をよぶこ鳥獨すまむとおもひしものを」獨住ほどおもしろきはなし。長嘯隠士の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。素堂此言葉を常にあはれぶ。予も 又、「うき我をさびしがらせよかんこ鳥」とは、ある寺に独居て云し句なり。」とある。
華女 「さびしさなくばうからまし」と詠んだ西行法師の歌とは、どんな歌だったのかしら。
句郎 「とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし」。山里には淋しさがあるからこそ、生きる楽しさがあると西行は詠んでいる。
華女 一人旅は寂しい。寂しいからこそ一人旅の楽しさがある。このようなことを詠んでいるのね。
句郎 「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と長嘯隠士は言っていると芭蕉は聞いている。これはどんな意味なのかな。華女さん、どうを。
華女 気の進まない男に付き合わせられたことが若かった頃あるのよ。30分も遅れて行ったのよ。もういないかなと思ってね。でも待っているのよ。やむを得ず、半日も付き合っちゃったのよ。男は私とのデートを楽しんだかもしれないけど、私にとっちゃ、半日も無駄な時間だったなと感じたわ。こんなことを長嘯隠士は言っていると芭蕉は理解していたのじゃないのかしらね。
句郎 一人考える時間が楽しい。俳句を詠みたい。一人でなければなかなか集中できない。夢中になって表現したいことがある。それには寂しさが必要だ。こういうことかな。
華女 人と一緒にいることより一人でいることの方がいい。そんなことってあるんじゃないのかしら。
句郎 西行はまた「山里にこは又誰をよぶこ鳥獨すまむとおもひしものを」とも詠んでいる。
華女 山里に一人で住みたいと思っているのに、なぜ誰を呼ぼうと鳴いているのかと、いうことね。
句郎 「うき我をさびしがらせよかんこ鳥」。芭蕉のこの句が表現していることが初め理解できなかっんだ。徐々に分かってきた。芭蕉は仲間とお酒を楽しみ、長々とおしゃべりするのも好きだったようだけれど、また一方では一人寂しく俳句を詠んだり、俳文を書くのを楽しみしていた人なんだと考えるようになった。
華女 俳人に限らず、俳句や歌を詠んだり、文章を書く人や絵を描く人、陶磁器を創る人、職人芸を持つ人、芸術家と言われる人は皆、一人寂しい時間を大切にする人なんだと思うわ。
句郎 芭蕉もまた一人の時間を大切にする人だった。