醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1151号   白井一道

2019-08-10 11:04:02 | 随筆・小説



   行く秋や手をひろげたる栗の毬   芭蕉  元禄7年



句郎 「行く秋や手をひろげたる栗の毬」元禄7年。『続猿蓑』。
華女 季語「行く秋」の本意は何かしら。
句郎 「行く春」、「行く秋」という季語はあるが、「行く夏」、「行く冬」という季語はない。なぜないのか。春と秋のみに「行く春」、「行く秋」という季語があるのか。なぜ夏と冬には「行く夏」、「行く冬」という季語がないのか。その理由を考えてみると「行き春」、「行く秋」の本意は見てくるように思うけれど。
華女 昔、乾物屋の親父さんが言っていたわ。暑い時期と寒い時期が日本は長いね。春とか、秋は実に短いように感じるねと、言っていたわね。
句郎 暑くも寒くもない快適な時期、春や秋は夏や冬に比べて短いから、その季節を惜しむ気持ちが生まれて来たということかな。
華女 そう、それが理由の一つなのじゃないかと思うわ。
句郎 「行く春」と「行く秋」に共通する気持ちは「惜しむ」気持ちかな。
華女 夏の場合はいつまで暑いのかしら。早く涼しくなってほしいわという気持ちでしょ。冬の場合もそろそろ暖かくなってほしいわと、いう気持ちかしら。
句郎 夏と冬には惜しむ気持ちが生れないということかな。
華女 一般的にそうなんじゃないのかしら。行く春、行く秋を詠んだ和歌はあるみたいだれど、行く夏や行く冬を詠んだ和歌はないみたいよ。
句郎 「花もみな散りぬる宿は行く春のふるさととこそなりぬべらなれ」と 紀貫之は詠んでいる。また「ゆく秋の形見なるべきもみぢ葉も明日は時雨と降りやまがはむ」と 藤原兼宗は詠んでいる。
華女 「行く春」や「行く秋」の季語は和歌の伝統というか、成果を俳諧は継承しているということね。
句郎 「行く秋」の本意は寂寥感にあるのかな。
華女 「行く秋」を詠んだ和歌の世界を継承し芭蕉は「行く秋や身に引きまとふ三布(みの)蒲団」と詠み、俳諧の世界を開いたということね。
句郎 芭蕉は季語「行く秋」の意味を大きく拡大した。
華女 「三布蒲団」と「行く秋」とを取り合わせることによって新しい世界を開いたということね。
句郎 農民や町人の侘しさを行く秋に詠みこんだ。和歌を俳諧が継承することによって「行く秋」に新しい意味を付け加えた。
華女 「行く秋や手をひろげたる栗の毬」。この句を芭蕉はどこで詠んでいるのかしら。
句郎 故郷、伊賀上野を立ち、大坂に向かって旅立った時の留別吟として詠んでいる。
華女 故郷の門人たちとの別れの際に詠んだ句なのね。
句郎 手を広げて師、芭蕉が立ち去るのを留めようとしている状況を詠んでいるのかもしれない。しかし秋は深まり行く。芭蕉は門人の手を払いのけ、立ち去っていく。振り返りたくとも前に向かって歩を進めていく芭蕉。
華女 そのように深読みしなくとも、秋の深まりと共に毬が開き、栗の実は落ちていくのよね。
句郎 風が吹くと栗の実が落ちる。明日は栗の実の収穫ができる。寝床で栗の実が落ちる音を聞く。そんな経験が芭蕉にはあったのではないかと思うな。
華女 強い風が吹き栗の葉がざわざわ騒ぎ始めると寒さが近寄ってきているのを感じたりするものよ。
句郎 そのようなことを感じさせるのが季語「行く秋」という言葉かな。
華女 芭蕉が立ち去り、残された弟子たちには深い寂寥感が広がっていくのね。
句郎 芭蕉が詠んだ「行く秋」の句の中ではこの句が一番のような気がするな。
華女 そうかもしれないわ。「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」。『おくのほそ道』最後の句と比べても断然「手を広げたる栗の毬」の方がいいよう思うわ。明るさがいいのよ。