「もののあはれ」を考える
『古今集』にある紀友則の和歌「雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみよをばへぬらむ」
をロシア出身の世界的ピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフは、若かった頃読み、この歌には
「もののあはれ」があると実感したという。
「雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみよをばへぬらむ」。この歌は何を詠んでいるのだ
ろうか。空には雲一つなく、川面には風もなく浪のたつことのない朝のような私なのだ。その私は
厭われてのみこの世を過ごしているようなことだなぁー。自分はこんなに穏やかで何一つ社会に対
しても人に対しても嫌がるようなことをしない人間であるのに、なぜこんなに世間から嫌われ、迫
害されなければならないのかと詠んでいるのだとアファナシエフは理解したのではないかと私は思
う。
ヴァレリー・アファナシエフはモスクワ音楽院の優秀な学生だった。彼は自由に憧れていた。西
側世界には自由がある。思う存分、自分の才能を開花させることができる。アファナシエフは一人
国を捨てる決心を固めた。ソヴィエト政府の下で自由を求める人々の気持ちに「もののあはれ」を
アファナシエフは発見したのではないかと思う。
「雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみよをばへぬらむ」。『古今集』紀友則の和歌には
ソヴィエト体制下に自由を求める人々の気持ちが込められているとアファナシエフは考えたという
ことなのかなと私は理解した。アファナシエフは誰にも相談することなく、一人で祖国ソヴィエト
を抜け出し、フランスはパリに向かった。パリやベルギーで生活して初めて西側世界にも自由がな
いことをアファナシエフは知る。西側世界では音楽が商品として売り買いされている。音楽に商品
価値がなければ売れないという現実に突き当たる。商品価値を失った音楽家は消えていく。音楽的価
値があると思われるピアニストが消えていく。ソヴィエトにあるような窮屈さはないが商業主義と
いう厳しい制約が西側世界にはあることをアファナシエフは知る。
兼好法師は次のような歌を詠んでいる。「すめば又うき世なりけりよそながら思ひしままの山里
もがな」とね。あの山里でさえ、住んでみると憂世だと兼好法師は述べている。この世に極楽など
という所は存在しない。
東側世界にも西側世界にも自由はない。ここに真実がある。人間世界には自由がない。ただ少し
づつ人間は自由を獲得してきているのも事実のようだ。
本居宣長は『紫文要領』で次のように述べている。「世中にありとしある事のさまざまを、目に見
るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心に味えて、そのあらゆるの事
の心を自分の心でありのままに知る。これが事の心を知るということである。物の心を知るをいう
ことである。物の哀(あわれ)を知るということである。そしてさらに詳しく分析していえば、あ
りのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(ある
かたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである」と。
この世に自由などはない。どのような自由があり、どのような自由がないということがあるだけである。なぜなら人間はいろいろなものに制約されている。制約されることによって生活が成り立っているからである。道路が安全に通ることができるのは道路交通法によって自動車の通行が制約されているからである。制約されることによって自動車もまた安全に通行が可能なのだ。自動車が勝手に自動車の流れに逆らって走ったなら事件が起きる。人間社会では制約されることによって人間は自由を獲得している。言論の自由もまた同じである。他人を傷つける言論は制約される。そのような言論が制約されることによって自由な言論が保障されるのだ。
物の心を知る。事の心を知る。このことは真実を知るということだ。「もののあはれ」とは、真実ということのようだ。人間は真実を知ることによって自由を獲得する。真実を知ることによって制約される自由を知る。制約されることが自由の獲得になるということを人間は知り、実感するようになる。真実が「もののあはれ」として表現される社会が、時代があったと言うことか。