「徒然草第9段」を読む
「女は、髪のめでたからんこそ、人の目立つべかンめれ」と兼好法師は「徒然草第9段」を書き出している。女は髪が美しいと人目にも良く見える。黒く長い髪の毛は美しい。島崎藤村もまた『初恋』を詠っている。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな
林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
リンゴの木の下の黒い髪の毛の乙女に藤村が恋をしたように兼好法師もきっと黒い髪の毛の女に悩まされたのだろう。
「人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ」。「人のほど」、身分の高さや「こころばえ」、気立ては「もの言ひたるけはひにこそ」、話し方や声色にこそ、物越しにもわかるものだと、述べている。女の話す声を聞けば、その女がどのような女なのかが分かると述べている。確かにそうだと、発言する男がいる。声の高さ低さ、調子、速さ、言葉の選択などが話し声を聞けば女の年、処女か経験者か、未婚者なのか、既婚者なのかどうか、分かると発言をした友人がいた。職場に初めて赴任してきた女性職員と一言、話した友人が言った。彼女は独身だよ。男はいない。発言は厳しい。酒は好きだよとー。
「ことにふれて、うちあるさまにも人の心を惑はし」と兼好法師は「ことにふれて」、ちょっとした女の振る舞いに心を惑わされたことがあるのだろう。
「すべて、女の、うちとけたる寝(い)もねず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ、色を思ふがゆゑなり」。
当時の貴族社会はまだ妻問婚だったのだろうか。妻は夫が通ってくることを待ち続けていたということか。女は安心してぐっすり眠ることもなく、自分の身をいたわることに気をつかうことなく、耐え難いことにもよく耐え忍ぶのは、ただ男(夫)を思うが故である。女性は絶えず、夫(男)が通ってこなくなることを心配していたということのようだ。妻問婚の社会に生きる女性の不安、残酷性のようなものに兼好法師は気づいていないようだ。
「まことに、愛著(あいじゃく)の道、その根深く、源遠し。六塵(ろくじん)の楽欲(ぎゃくよく)多しといへども、みな厭離しつべし」。 誠に、男女の道はその根が深く、遠い。六塵(ろくじん)と言われる「眼耳鼻舌身意」を感覚器官とする「色声香味触法」の欲望が身を亡ぼすから、それらすべてを厭い避けるべきだと兼好法師は述べているがーー。
「その中に、たゞ、かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ、老いたるも、若きも、智あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる。されば、女の髪すぢを縒れる綱には、大象もよく繋がれ、女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝へ侍る。自ら戒めて、恐るべく、慎むべきは、この惑ひなり」。
「六塵(ろくじん)の楽欲(ぎゃくよく)」の中に一つ、我慢できいものがある。それは老いたる者も若い者も、知識人も愚かな者も変わる所はない。女の髪の毛で縒った綱では大きな象も繋ぐことができるように、女の履く足駄で作った笛の音には秋の鹿が寄ってくると言い伝えられている。自らを戒めるべきこと、慎むべきことはこの惑いなのだ。それは性的欲望であろうと今から700年前に兼好法師は述べておられる。性的欲望は我慢しづらいものであると我々に注意を促している。
しかし性的欲望を満たすことが禁止されている人々がいる。刑務所に入れられている人々である。死刑囚であった永山則夫は獄中結婚したが妻と手を握り合うこともなく、離婚し死刑された。戒律の厳しい宗派の僧侶やキリスト教の宗派によっては妻帯が禁止されている神父たちがいる。