徒然草 第140段 身死して財(たから)残る事は
原文
身死して財(たから)残る事は、智者(ちしゃ)のせざる処なり。よからぬ物蓄へ置きたるもつたなく、よき物は、心を止めけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。「我こそ得め」など言ふ者どもありて、跡に争ひたる、様あし。後は誰にと志す物あらば、生けらんうちにぞ譲るべき。
朝夕なくて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき。
現代語訳
死後財産を残す事は、見識を持った者がすることではない。つまらない物を蓄えていることは見苦しく、良かった物は執着した物として空しい。財産が多く残されたら更につまらない。「私がもらっておこう」などと言う者がいて、後に争うことになり、見苦しい。死んだ後に誰かに残す物があるのなら、生きているうちに譲った方が良かろう。
朝晩、なくてはならないものがあれば、その他は何もなくともよいではないか。
「無一物ということ」 白井一道
禅宗には「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」という思想がある。
自分のものというものは一つもないという考えのようだ。この考えは人間存在の在り方を問う根本的な問いのようだ。人間には誰にも親がいる。人間は親を持って生まれてくる。親を持つことによってさまざまな制約を受ける。親もまた子を持つことによっていろいろな制約を持つ。この制約が執着というものを生む。人間は結婚し、家族を形成し、家を持つ。人間は結婚し、男は女に制約され、執着する。女は男に制約され、執着する。人間は家族を形成し、執着して生きていく。そこに幸せを見出して生きていく。人間は自らの意志によって結婚し、家族を形成し、制約され、執着することによって生きている。人間は一人では生きていくことができない。人は人と助け合って生きている。助け合うことなしに人間は生きていくことができない。農民がいるから食べ物を得ることができる。漁業者がいるから魚を食べる事ができる。山林従事者がいるから家を建てることができる。人間生活が成り立つためには人間同士が協力し、助け合う必要がある。にもかかわらず人間は無一物だと禅宗は教えている。
無一物に生きるために出家する。在家にあっては、無一物に生きることは不可能である。出家をし、妻帯をしない。家族を持たない。托鉢をして生きる最小限の食べ物をいただく。僧侶は自分のものを一切持つことなく生きていく。願いは衆生済度。このように生きた僧侶が実際に存在した。例えば、円空である。円空は生涯無一物であった。無一物に生きた。この世に生きる人々の幸せを願い、仏を造り続け、祈り続けた。老いて死を自覚すると自ら墓穴に入り、息絶えた。即身成仏への道を選んだ。