感染症と世界の歴史
病気は社会を反映している。人々から忌み嫌われた古代・中世社会を代表する病というと、それはハンセン氏病であろう。この病は古代から現代社会に至るまで嫌われ続けて来た最も代表的な感染症である。
ハンセン氏病は「らい菌」に感染する事で起こる病気である。感染すると手足などの抹消神経が麻痺し、皮膚にさまざまな病的な変化が起こる。早期に適切な治療を行わないと、手足などの抹消神経に障害が起き、汗が出なくなり、痛い、熱い、冷たいといった感覚がなくなることがある。また、体の一部が変形するといった後遺症が残る。かつては「らい病」と呼ばれていたが、明治6年(1873年)に「らい菌」を発見したノルウェーの医師・ハンセン氏の名前をとって、現在は「ハンセン病」と呼ばれている。現代にあっても熊本県の温泉ホテルがハンセン病の元患者の宿泊を拒否した事件がニュースで取り上げられたのは平成15年(2003年)のことである。
北条民雄の小説『いのちの初夜』にハンセン氏病を発病した苦悩が表現されている。癩病と診断されることが、即ち生きながらの死亡宣告のような意味を持っていた。自身も癩病患者であった作者の体験的な作品「いのちの初夜」は、癩病院への入所という絶望の中から不死鳥のような命の叫びを表現している。昭和11年雑誌「文学界」2月号に発表された本作品は大反響を呼びおこした。
映画『小島の春』に表現されている癩病というスティグマを貼られた病者に対する慈愛の精神を体現するのは、洋の東西を問わず聖女たる女性で あり、その中で治療と慈愛が女性の性役割に関連づけられ、ハンセン病対策が、民間による慈善事業から国家による統治手段として位置づけられるようになった時、女性の領域と位置づけられてきた慈愛の精神と実践もまた、国家制度に組み込まれてゆくことになる。赴任した彼女の仕事は、長島愛生 園での収容者の診療の他に、その3年前に改定された癩予防法のプロトコルに従い、「祖国浄化」「収容政策は関係者の間ではこのように表現されていた」と理想に燃えて、中国四国地方の村々を定期的に巡回検診し多く病者を発見することであった。
近代社会を代表する病は肺結核であろう。肺結核は産業革命期を代表する病である。
18世紀、イギリスの農村工業地帯と言われる地域でインドの綿花を輸入して綿糸を紡ぐ製糸工業が起きて来る。インドから輸入していた綿布がイギリスで人気を博し、綿布のシャツが流行した。中世都市として有名であったロンドンなどの都市ではなく、ランカシャー地方の農村地域にあったマンチェスターで製糸業が起きて来る。農村地域には新興工業が起きて来るに当たって中世都市に比べて制約が少なかったからである。また農村地域には第二次エンクロージャーと言われる土地の囲い込みの結果、農村を追い出された農民たちが生活の糧を求めて紡績マニュファクチャーに集まってきた。18世紀にリチャード・アークライトが水力紡績機を発明すると今までの工場制手工業であったマニュファクチャーが工場制機械工業に変わっていった。山間部の川の流れに沿って設置された水力紡績機を中心に工場が建設されていった。これがイギリスの産業革命の始まりである。
木綿糸を紡ぐ紡績工場には土地を失った農民たちが仕事を求めて集まった。有り余る労働者の群れが仕事を求めてマンチェスターの紡績工場に集まった。
不衛生な環境下での過酷な長時間労働や慢性的な栄養失調、よどんだ空気が結核の流行になった。太陽のない街、スラム街が膨れ上がっていった。労働者の出現である。こうした労働者の出現は同時に死の病、肺結核の流行と同時である。
産業革命が進展し産業資本が確立していくことが資本主義経済の確立である。産業革命は人々に豊かな生活を実現すると同時に他方には肺結核という死の病も産み落した。一方に豊かな生活を実現すると同時に他方には死の病に苦しむ労働者の一群を産み落した。
産業革命が近代社会を築き、資本主義社会を築くと同時に産業革命は工場という生活環境の悪い状況が肺結核という死の病を産み落した。
19世紀後半になって、コッホが結核菌を発見、20世紀になるとカルメットとゲランが結核に有効なワクチン「BCG」を開発、ワクスマンらが抗生物質(ストレプトマイシン)を創製したことによって、「結核=死」ではなく、完治可能な病気となった。