方丈記 16
原文
夫(それ)、人の友とあるものは、富めるをたふとみ、ねむごろなるを先とす。必ずしも、なさけあると、すなほなるとをば不愛(あいせず)。只、糸竹(しちく)・花月(くわげつ)を友とせんにはしかじ。人の奴〈やっこ〉たるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あつきをさきとす。更に、はぐくみあはれむと、安くしづかなるとをば願はず。只、わが身を(ぬひ)とするにはしかず。いかゞとするとならば、若、なすべき事あれば、すなはちおのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりやすし。若、ありくべき事あれば、みづからあゆむ。苦しといへども、馬・鞍・牛・車と、心をなやますにはしかず。今、一身をわかちて、二の用をなす。手の奴、足の乗物、よくわが心にかなへり。身心(しんじん)の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。物うしとても、心を動かす事なし。いかにいはむや、つねにありき、つねに働くは、養性なるべし。なんぞ、いたづらに休み居らん。人をなやます、罪業なり。いかゞ、他の力を借るべき。衣食のたぐひ、又、おなじ。藤の衣、麻のふすま、得るにしたがひて、肌をかくし、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじはらざれば、すがたを恥づる悔いもなし。糧ともしければ、おろそかなる報をあまくす。
惣て、かやうの楽しみ、富める人に対していふにはあらず。只、わが身ひとつにとりて、むかしと今とをなぞらふるばかりなり。
夫、三界は只心ひとつなり。心若(も)しやすからずは、象馬(ざうめ)七珍もよしなく、宮殿・楼閣も望みなし。今、さびしきすまひ、一間のいほり、みづからこれを愛す。おのづから、都に出でて、身の乞匈(こつがい)となれる事を恥づといへども、帰りてこゝに居る時は、他の俗塵(ぞくじん)に馳(は)する事をあはれむ。若、人このいへる事を疑はば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、其心を知らず。閑居の気味(きび)も又おなじ。住まずして、誰かさとらむ。
現代語訳
普通、人が友にし、豊かな人を大事にし、細心の心遣いをする。必ずしも人情が篤く、気持ちがいい人を友人にするわけではない。だから、管弦や花、月を友にした方が良い。召使という者は賞罰にあからさまで、優しくしてくれる人を大事にする。更に受け入れ情をかけると穏やかに静かにしていることを願わない。ただ我が身を召使にした方がよいくらいだ。如何に召使にするかというと、もししなければならないことがあるなら、自分で行う。疲れてだるくないわけではないが、人に命令し、情をかけ世話するよりも気楽だ。もし歩かなければならないなら自ら歩いていく。苦しいけれども馬・鞍・牛・車と心を配る程のことではない。今、我が身を割いて二つの用をする。手と足、良いように我が心を満足させるだろう。体が心の苦しみを知るなら、苦しい時は休み、忙しい時は動かす。使うと言っても使い過ぎる事とはない。ものぐさくても心までものぐさくなることはない。どういうものか、常に歩き、常に働くことは健康に良い。どうしてのんびり休んでいられようか。これが人を悩ます煩悩というものだ。いかに仏の力が必要かということだ。衣食の類もまた同じようなものだ。藤の衣や麻の夜具など手に入ったものを身にまとい、野辺のおはぎ、峰の木の実でどうにか命をつなぐばかりだ。人に交わることがないなら、我が身を恥じる悔いもない。食べ物が侘しいのであれば、それを我が身の報いとして敬えばいい。
すべてこのような楽しみは富める人に対して言っているのではない。ただ我が身一つにとって、昔と今とを比べてみているだけなのだ。
そう、三界と言われる人間世界は心のもちようだ。心がもし安定していないと像や馬、大切な宝物も大切なものとも思われず、宮殿や楼閣を敬うこともなくなる。今、寂しい住まい、一間の庵、私はこれを愛しんでいる。都に出て行き乞食(こつじき)になることが恥ずかしくもあるが、都から帰りこの庵に居る時は、都の汚れにまみれることを恥ずかしく思う。もし、他人がこの事を疑うなら魚や鳥の生きている姿を思い浮かべてほしい。魚は水の中で生きることに飽きることがない。魚にならなければ魚の気持ちは分からない。鳥は林の中にいることを喜んでいる。鳥にならなければ鳥の気持ちは分からない。閑居の気持ちもまた同じようなことだ。閑居することなく閑居する者の気持ちは分からないであろう。