醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1453号   白井一道

2020-06-29 17:03:31 | 随筆・小説


  出家の記  1



 気づいた時、私には父がいなかった。それが当たり前のことであった。私は母の実家の家作にいた。大きな門構えのある母屋の周りにある一軒家に住んでいた。その家にはお店と呼んでいた部屋が道路に面して土間があり、昔はそこで何かの商売をしていた場所だったのかもしれない。
 家の前を通る道路は中禅寺湖に通じる唯一の道のように私は思っていた。東武日光駅から中禅寺湖に向かう途中の清滝町で私は生まれた。生まれたのは1945年である。まだ戦争は終わっていなかったと聞いている。父は兵隊検査を受け、丙種合格で入隊したが結核を発病し、除隊となり、当時住んでいた東京、雑司ヶ谷の借家に帰り、母の実家に疎開することになったと聞いている。1945年3月10日の大空襲を私は母の腹の中で経験しているようだ。身重の母は肺病を病んだ父を支え、2歳上の姉を抱え、大変な思いをして日光の実家へ疎開し、そこで男の子を出産した。戦争はまだ続いていた。6月に私が生れ、8月に日本軍は敗戦した。空襲警報、灯火管制という放送が耳の底に今でも残っている。父は12月に20代の若さで亡くなった。私には父の顔を見た記憶がない。
 父は新潟県佐渡島出身の人であるという話を聞いた。子供のころ、父の実家に行った記憶はない。私が生れた時にはすでに祖父という人は亡くなっていたようだ。祖母は生きていたようだが生前逢ったことはない。祖母の記憶は私がごく幼少の頃、何かを贈ってくれたことがある。母がお祖母ちゃんからだよと言った言葉だけが耳に残っている。何が贈られてきたのか、記憶は何もない。
 父の家も母の家も一時は豊かな頃もあったようだが、父が旧制中学を卒業するころ、祖父の事業が行き詰まり、倒産している。父は伯母の嫁ぎ先の支援を得て東京の大学に進学し、卒業したようだ。母の実家も豊かな時があったようだが、母が高等小学校を卒業するころは祖父の事業が経営不振に陥り、母は進学を諦め、東京に出て今の三井記念病院の前身三井慈善病院の看護婦養成機関に入り、そこを出て看護婦になった。その頃、母は中野のアパートに新聞記者をしていた伯父と一緒に住んでいたようだ。そのアパートで父と母は知り合い、結婚したようだ。母の方が1、2歳年上で、戦時下のもと結婚生活が始まった。戦争は激しくなり、本土空襲が度重なる中、父と母は母の実家のある日光へ疎開し、そこで私が生れ、父は肺結核が重病化して死亡する。
 母の実家には跡をとった伯父が土建屋をしていた。母屋の後ろには土方が寝泊まりする飯場のような家が2軒建っていた。伯父が大きな声で土方を怒鳴りつけている声がよく響いて来た。祖父が私を可愛がってくれたことをうっすらと記憶に残っている。夕方になると祖父は一人御燗をしてお酒を楽しんでいる姿がうっすらとした記憶がある。私のお酒を飲まり、酔っぱらったことを祖父が楽しんでいると母が厳しく祖父を怒ったようだ。この祖父が生きているうちは母も実家で生活することにそれほど気苦労することもなかったようだが、祖父が亡くなると母は実家で生活が息苦しいものになった。伯父が仙台の方の仕事を請け負い、家を出ていた時は良かったが、その伯父が仙台から妻ともう一人の女性を連れて家に帰って来てからが地獄だった。その女性が女の子を生んだのだ。さらにその女性には女の子の連れ子がいた。祖母は伯父が女性に産ませた女の子を育てろと言ったようだが、叔父の妻はそれを断り、怒り抜き家を出て行った。伯父が仙台から連れて来た女性が妻になった。母は自分の兄がしたことを生涯許すことはなかった。伯父が仙台から連れて来た女性を母は嫌っていたし、またその女性を許すこともなかった。母と義理伯母が仲良く話し合う姿を見たのは伯父が亡くなり、母が80歳を過ぎてからのことであった。
 母は遺産分けが済むと祖父が所有していた家作の一つが母の家になり、お店と言われた家を出て新しい家に引っ越した。その家には風呂がなかった。母の実家の風呂に入りづらくなったのか、銭湯に通うようになった。真冬の日光清滝町の銭湯に行き、家に帰り着くと手拭いが凍った。帰り道夜空を仰ぎ、あれが北斗七星、あれが北極星、星空を仰ぎ見る楽しみを知った。
 母は星空を子供と共にどのような思いで見ていたのだろう。これからの生活を思うと真っ暗闇の中、どう生きて行けばいいのか、どうして子供を育てて行けばいいのか、途方に暮れていたのかもしれない。寒いと感じることもなく私は元気にはしゃいでいたのかもしれない。真冬の日光の星空の美しさだけが私の脳裏に残っている。