11月7日(土)8時に横浜を出発した区役所ブロックの8名の仲間は、北茂木に向け常磐道を北上、漁港市場食堂で海鮮昼食で一服しました。富岡から先が開通した常磐自動車道をさらに北上。富岡インターを過ぎたあたりから、道路脇に放射能測定表紙版が設置されていて、0.1、0.2マイクロシーベルトの表示が続いていたのに、福島第一原発が近づくにつれ、0.7、さらに1.4まであがり、原発に一番近い地点では2.7マイクロシーベルトまで上がり、やはり恐怖を感じました。
6号線、常磐道を線として通過させても、原発15キロ圏内は、道路を外れることもできず、4年8カ月たっても家屋も被災当時のまゝで残っているのが現実です。政府、東電が菊田困難地域を解除の方向を出し、補償も打ち切る予定となっているが、できるだけ被害を小さく見せようとしているに過ぎないとしか思えない。被災地の人にとっては、他の地域に住むのも地獄、現地に住むのも地獄であるということである。
当日は「てとてと」のお祭りということで、北村さんの里の家に行き、北村保、みどりさんの作ってくれた野菜たっぷりの料理を堪能しながら、交流を深めました。
翌8日は、筆甫地区(飯館村と山一つ越えた宮城県側)の現状を見て、飯館村に行きました。飯館村を半周したのですが、村に入った途端、表土を5センチ位はがしたものを黒いビニールで包んだものが、畑、田圃のいたるところに積み上げられていました。幾百、幾千もの黒いビニールの除染物資が積み上げられていました。運ぶところがないようで、二団・三団に積み上げられ、民家のすぐ傍まで積まれていました。
まだまだ、除染作業は進んでいないことを実感しました。まだまだ死の村でした。再び常磐道に出て、次の目的地のいわきに向かいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/67/f0/3e335e4bc63e7b2cf842b09af23bdc56_s.jpg)
6号線、常磐道を線として通過させても、原発15キロ圏内は、道路を外れることもできず、4年8カ月たっても家屋も被災当時のまゝで残っているのが現実です。政府、東電が菊田困難地域を解除の方向を出し、補償も打ち切る予定となっているが、できるだけ被害を小さく見せようとしているに過ぎないとしか思えない。被災地の人にとっては、他の地域に住むのも地獄、現地に住むのも地獄であるということである。
当日は「てとてと」のお祭りということで、北村さんの里の家に行き、北村保、みどりさんの作ってくれた野菜たっぷりの料理を堪能しながら、交流を深めました。
翌8日は、筆甫地区(飯館村と山一つ越えた宮城県側)の現状を見て、飯館村に行きました。飯館村を半周したのですが、村に入った途端、表土を5センチ位はがしたものを黒いビニールで包んだものが、畑、田圃のいたるところに積み上げられていました。幾百、幾千もの黒いビニールの除染物資が積み上げられていました。運ぶところがないようで、二団・三団に積み上げられ、民家のすぐ傍まで積まれていました。
まだまだ、除染作業は進んでいないことを実感しました。まだまだ死の村でした。再び常磐道に出て、次の目的地のいわきに向かいました。
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