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中村 好文 「村の住みごこち 河回村(ハフェマウル)」 芸術新潮 2003年2月
両班の村。
ここで言うところの両班は在地両班。都市部(といってもソウルしかないが)に住み中央政府の役人として活躍した在京両班とは別で地方に居を構え地主として生きた名家。イギリスでいえばジェントルか。
ここの村は写真を見る限り違うようだが朝鮮の村は柵や石垣で囲まれることが多い、と言う。後の時代になるほど両班は村の中には住まず、勢力を伸ばしてきた郷士と区別するため村の柵や石垣の外に居を構えることが多かったらしいのだが、ここは村の中に両班の住居がある。
インターネットで検索すると柳氏という一族が現在の住人の70%を占めるとある。労働をいっさいしない両班であるから、両班の一族だけで村の住人の70%を成すのはおかしいのだが、商工業に手を出すわけでもなく、さりとて新たな財産となる土地が増えるわけでもないから、同じ土地で財産としての土地の相続を繰り返すとこうなってしまったわけだろうか。
日本の統治時代に両班を奴隷として労働力で支えていた奴婢は解放される。その後、このような村は維持できなくなったはずで、何故ここだけが残っているのかちょっと不思議な気もする。もちろんいっせいに村が跡形なくなくなるわけではないから、同じような村はあちこちに残っていたのかもしれないが、太平洋戦争では朝鮮半島は戦場にならなかったが朝鮮戦争では多くの村が消えたのだろう。ここが残っていたのは住民の努力とは関係なく、ただ地形的に戦場にならなかっただけかもしれない。
それでも古い住宅を維持管理するにはかなりの経済力が必要なはずで、それが一戸ではなく村単位というのが凄い。柳氏は秀吉の朝鮮出兵の時の朝鮮の首相クラスの役人を出した家柄だそうだが、よほどの経済力を日本統治時代も含めて持っていたのだろう。
現在、柳氏の一族の中で経済的に困窮し土地を手放す者が出たときは一族で土地を買い取るそうだ。であるからこそ村の姿を維持できるわけでもあるが、これは今に始まったことではなく、経済的な破綻が始まった李氏朝鮮の時代から繰り返していることでもある。
雑誌に掲載された写真がきれいだ。
塀で囲まれて見通しがちょっと悪いゆるくカーブする村の道の写真がある。
自分が村の中を歩いている雰囲気が味わえる。
・・・が、このカーブする道の写真はいろんな所で紹介されていることを後で知る。
どこも同じで絵になる風景は少ないものだ(笑)。
※写真はインターネットで拝借してきた。
民宿があるそうだ。
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