木村 茂光 「ハタケと日本人」 中公新書
- もう一つの農耕文化 -
1996年12月20日発行
著者は1946年北海道生まれで大阪市立大学大学院文学研究課博士課程単位取得退学。この本を著したときは東京学芸大学教育学部教授。
以下、メモより。
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田:シナでは日本の畑の意。後漢 説文解字。
枕草子「七日、雪のまのわかなつみ、あをやかにて、れいはさしもさるもの目ちかからぬ所にもてさはぎたるこそおかしけれ」
新嘗祭:稲の他に粟も供える。延喜式、宮内省式、「凡そ新嘗祭に供へるところの官田の稲および粟等、毎年十月二日、神祗の祐史各一人卜部を率ひ、省の丞録各一人史生を率ひて、共に大炊寮に向かひ、稲粟まつるべき国郡を卜定せよ
石母田 正「中世的世界の形成」岩波文庫
七くさ:七日 →七草 若菜摘み
十五日→七種粥 稲と雑穀(白穀、大豆、小豆、粟、栗、柿、・・・)
勧農:領主が秋の収納期の年貢を見積もる時期。2月頃。
1月15日の小正月。ドンド焼き、田遊び。
この後に田起こしを始める。領主は農家に農料を支給し農業が滞らないよう奨励した。
4月に入ると田植えの準備が始まる。「結」という共同で労働力を提供しあう慣行を作った。
4月~6月は冬作物(麦)の刈り取り、養蚕の最盛期。
p69、青麦の売買 馬の飼料に売る 田植え時期の労働力確保のための資金とする
収納:七月 盂蘭盆会 4月~6月を無事乗り切り冬作物の収穫を得て一息ついたことを祝う
この時期を過ぎると夏作物の収穫の時期になる
勧農の時に決めた年貢を納める
領主と農民の間でもめることもあり収納が年をこすこともあった
賑給(しんごう):救済制度
国家が飢饉や災害などに際し臨時に貧窮民、高齢者、身寄りのない者に塩や布などを
救済する制度
日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録に記載された796年(延歴15)~855年(斎衡2)
の60年間に35ヶ年
5月~7月が多い
60%が5月に集中
平安時代の中頃から5月は年中行事となり臨時ではなくなった
盂蘭盆会:祖霊信仰
インド→中国→日本 推古天皇(606)
夏の畠作物収穫祭の意味もある
七夕:シナ漢代 二星会合
シナ唐代 乞巧奠(きっこうでん)→紙に願い事を書く
この行事が日本に入ってくる前は宴や相撲が行われる「セチ」=神祭の日だった
平城天皇の国忌が七月七日になったため、それを避けて相撲が16日頃に延期されて
以降、二星会合と乞巧奠(きっこうでん)とが残ることになった
p202 天皇制的な日本文化論を批判するためにも、畠作を中心とした稲作以外の農耕文化
に関する研究を進展させることを通じて古い時代の列島の上に南方から伝播した文化
とは異なる文化 --- その代表が北方からの文化であるが --- が存在していた
ことを明らかにしていく必要があろう
p204 柳田が稲作とその儀礼を重視したのは、民間伝承の歴史に一つの象徴的な軸があり
・・・・・その軸こそ稲作文化であると仮定した・・・・・稲作文化を軸として
見れば、日本の民俗学的要素はおおよそ体系づけられるという視点
稲作は事実上の軸ではない
後継者がそれを早合点してしまっただけ (by 坪井 洋文)
網野善彦の「水田中心史観」批判の批判
水田以外の農業の形態の提起がない
網野自身が自分が批判している水田中心史観に陥っている
網野が言う庶民とは非農業民になってしまっており、稲作以外の農業を無視している
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■確かに我が故郷でも昔は麦を作っていて、その収穫は夏前だった。
春から夏、秋、冬と年がら年中働きづめ。
大変だったろうと思う。
稲作だけでは農家は成り立っていけなかったし、それはつい最近までそうだった。
でも稲で食っていけるなら麦(冬作物)なんて作りたくはないだろうと思う。
換金できるなら青麦を刈り取って売りもするだろう。
我が故郷ではいつの間にか麦を作らなくなった。
水車小屋がなくなったのは、それよりずっと前のようで父母が若い頃のようだ。
■終章
この章で「柳田批判」「網野批判」「天皇批判?」が出てくる。
読んでいて色々思うことはあるのだが・・・要するにシベリア・樺太・北海道経由の畠作文化が
稲作以前にあったけど、それが駆逐されてしまったということなのだろうが、果たしてその畠作
が(ここで言うところの畠作は稲作以前の日本人が行っていた畠作でないといけないのだと思うが)魅力
的なものだったのだろうか? かなり怪しいと思う。稲作の方がはるかに魅力的だったんじゃな
いのだろうか。
http://blog.goo.ne.jp/k-74/e/a5a10989c0a2744313b5b50c1df28091
↑これを読んでも稲作を知らない蝦夷が羨ましいとは思わないのだが・・・。
そういう意味でやはり稲作は日本の民間伝承の歴史の一つの象徴的な軸なんじゃないかと思う。
網野批判は当たり。
天皇制批判は2ヶ所出てくるが批判が必要なのかがわからない。するべきものなのか?
■我が故郷では
春、苗代が空っぽになると我が故郷では「シロミテ」なる祝いの宴を
庄屋格(←表向き庄屋なんてないんだが、実はあったりして)の家に集まり開く。
シロとは苗代(ナワシロ)のシロ。
ミテては無くなる事をミテルと言うところからきている。
シロミテとは「苗代が空っぽになった」ということで、田植えが完了したことの意。
夏、七夕と盆
秋、収穫が終わった後の秋祭り。
使い道のない籾殻を小山のようにうず高く積み上げて火をつけて燃やす。
キーンと冷えた空気とその中に漂う籾殻を燃やす匂いで秋祭りの季節近づいたことを感じていた。
冬、正月~小正月
ドント焼きで正月も終わり。
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