エルミタージュ美術館が所蔵するカラヴァッジョ作品は、1点。
《リュート弾き》
1595年頃
94×119cm
なぜこんなことを書くかというと、
1)先般の拙ブログの記事「1973年のカラヴァッジョ」に対して、むろさんさんからいただいたコメントのなかで、若桑みどり氏の1962年の論文『カラヴァッジョ「聖マタイ伝」の制作年代』について触れておられた。
2)その論文の存在自体は石鍋真澄氏の著書『ありがとうジョット-イタリア美術への旅』で知っていて、気になっている状態のまま長い間放置していたが、今回のむろさんさんのコメントを機に、東京都立中央図書館へ行き、コピーを入手。
3)論文掲載図版の一つに、今まで見たことのない作品がカラヴァッジョ作とある。
これ。
何?
ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ教会チェラージ礼拝堂のカラヴァッジョ作品《聖パウロの回心》と《聖ペテロの磔刑》は、ともに第2作であり、第1作は何らかの事情で撤去されたこと、《聖パウロの回心》の第1作はオデスカルキ・バルビ・コレクション所蔵であるが、《聖ペテロの磔刑》の第1作は存在していないこと、を認識していた。
1962年当時、本作はカラヴァッジョの第1作とみなされていた、あるいは、少数ながらもカラヴァッジョ作との意見を持つ研究者がいた、ということか。この絵は、今どういう取扱いになっているのか。
調べるとすぐに辿り着く。よく知られた作品なのですね。
リオネッロ・スパーダ(あるいはカラヴァッジョ派)
リオネッロ・スパーダ(1576-1622)
ボローニャ派でありながらカラヴァッジョに追随した画家として知られる。1609年頃にはローマに旅行してカラヴァッジョの作品と出会い、さらにマルタ島まで足を延ばしてカラヴァッジョの後を追う。1611-12年にかけて同地のヴァレッタの騎士団長宮殿のフリーズに聖ヨハネ伝のフレスコを描く。その後ローマに戻り、カラヴァッジェスキに近い作風を展開する。1614年にボローニャに戻った後は、再びカラッチ一族やドメニキーノの作風に影響された宗教画を描く。(2001年のカラヴァッジョ展図録より抜粋)
サイズ的には、さすがに近似。
本作
232x201 cm
《聖パウロの回心》第1作
237×189cm
《聖パウロの回心》第2作
《聖ペテロの磔刑》第2作
ともに230×175cm
この作品が《聖ペテロの磔刑》の第1作ということを所与の条件とすれば、《マタイ伝》の制作順番を当てるのは難しいでしょうね、という気がする。論文をまだ読み切ってないけど。
さて、この絵は今どういう取扱いになっているのか、を調べる過程で、六本木の森アーツセンターギャラリーで開催中の「大エルミタージュ美術館展」の公式サイトが引っ掛かる。
公式サイトの「コラム第12回」である。以下、抜粋。
明治6年(1873)のこの日(→4/2)、エルミタージュを訪れた日本人の団体がいた。岩倉使節団の一行である。
エルミタージュ美術館へは、到着して2日後に、早くも訪れた。
旅の詳細な記録である『米欧回覧実記』(岩波文庫)では、「帝宮内ニ設ケタル宝庫」という表現をしている。
絵画について『実記』は、「多ク蔵ス」と記すのみで、個々の作品についての説明はほとんどない。
唯一、具体的に触れているのは、「聖ペテロの磔刑」を描いた絵があるということ。これは、今も同館が所蔵するイタリアの巨匠カラヴァッジョの作品と思われる。
『米欧回覧実記』(岩波文庫)の該当箇所を記載する。
画廊には名画を多く蔵す、彼得(ピョートル)大帝は、深く耶蘇の高弟聖彼得(聖ペテロ)の人となりを景慕せり、此に其磔刑に処せらるる図を蔵す、他国の諸画閣に於て、未だ曾て見さるものなり。其他に人目を醒す名画も多けれとも、固り筆舌を悉す所にあらす、其巨大なるものは、高朗の大房に、二面の画を以て、一壁を専らにするに至る、・・・
コラムの人がスパーダ作品のことを言っているのは間違いないだろうが、実記の人も、スパーダ作品のことを言っているのだろうか。
本作をエルミタージュ美術館が取得したのは1808年と、その点では問題ない。
「他の国でこのようなものを見たことがない」とかなり印象に残ったようである。
232x201cmというサイズも目立ちそうだが、サイズでいえばもっと凄い絵は幾らでもあったようだ。案内人が特にガイダンスしたのかもしれない。
岩倉使節団がイタリアを訪問するのは、ロシアの後である。
エルミタージュ美術館のもう1点の「カラヴァッジョ派」作品。
《バッカス》