歴史があまり好きでない方でも、織田信長の「桶狭間の戦い」はご存知ではないでしょうか。桶狭間の戦いは、織田信長が歴史の歯車を大きく動かした出来事だったといってもいいでしょう。
桶狭間の戦いは、今川義元の軍勢25,000に対して、織田信長が2,000の軍勢で今川軍の本陣に強襲をかけ義元を討ち取ったというものです。
これまでにも、様々なドラマなどで合戦の模様が紹介されてきました。その多くは、信長軍が迂回をして奇襲をかけたというものでした。
しかし、最近では、『信長公記』(太田牛一著)にあるように、中嶋砦からまっすぐに桶狭間をめざしたのではないかと考えられるようになってきました。
そんなことも確かめたくて、実際に桶狭間を歩いてきました。
桶狭間古戦場公園にあった案内板ですが、信長軍の動き(青い線)が良くわかります。現在の有松駅の北側を通って、桶狭間に向かったようです。
有松の町から少し歩くと、国道1号線に出ます。この交差点は「桶狭間」でした。さっそく出てきたなという感じで、嬉しくなりました。
まずめざしたのは、桶狭間古戦場公園です。確かに丘陵地帯というのが感じられました。
有松の町から20分ほど歩いたでしょうか。(ほぼ上りでした。)桶狭間古戦場公園に到着です。後ろの住宅が立ち並んでいるのが「おけはざま山」です。
案内板の写真にあった昭和初期の「おけはざま山」です。現在とはずいぶん様子が違います。ここに今川の本陣があったそうです。
公園には仲良く並ぶ(?)織田信長(左)と今川義元(右)の像がありました。
公園のあるあたりは、昔から田楽坪(でんがくつぼ)と呼ばれ、深田の低地だったそうです。
この公園のあるあたりで、今川義元は討ち取られたそうです。でも、本当にここかどうかは、わかりませんが。
「おけはざま山」と呼ばれるあたりは、どこも急斜面でした。
今川軍は2万を超える軍勢でしたが、2万人がこんなところに集結できるわけもなく、本陣を守っていたのは何千かの軍勢だったのでしょう。
本陣のあったといわれる場所にやってきました。けっこう見晴らしの良い所でした。
ここで休憩している時に突然、織田軍が攻めて来たようです。その少し前に激しい雷雨があったようで、陣地も混乱していたことでしょう。
今川義元は輿に乗って来ていたそうですが、信長軍の急襲を受け、輿を捨てて敗走したそうです。ここから討ち死にした公園までは、わずかな距離です。
最後にやって来たのは、武路釜ヶ谷(たけじかまがたに)という所です。信長軍はこの谷に潜み、雷雨が去ったあと、後ろに見える「信長坂」を駆け上って、今川義元の本陣を攻撃したそうです。
ここから今川の本陣までは、500メートルほどの距離でした。
大河ドラマ「麒麟が来る」では、桶狭間の戦いはどのように描かれるのでしょうか、楽しみです。ちなみに、明智光秀がこの戦いに参加していたという記録は残っていません。
今回、実際に桶狭間を歩いてみて、古戦場一帯が複雑な地形であることが実感できました。
桶狭間の古戦場跡とされているところは、他にもあります。決戦はある程度広い場所で行われたのでしょう。いずれにせよ、このような複雑な地形と天候が信長に幸運をもたらしたのでしょう。
織田信長は、こののち二度と桶狭間のような無謀な(?)戦いはしなかったそうです。
※訪問日 2020.3.21
桶狭間の戦いは、今川義元の軍勢25,000に対して、織田信長が2,000の軍勢で今川軍の本陣に強襲をかけ義元を討ち取ったというものです。
これまでにも、様々なドラマなどで合戦の模様が紹介されてきました。その多くは、信長軍が迂回をして奇襲をかけたというものでした。
しかし、最近では、『信長公記』(太田牛一著)にあるように、中嶋砦からまっすぐに桶狭間をめざしたのではないかと考えられるようになってきました。
そんなことも確かめたくて、実際に桶狭間を歩いてきました。
桶狭間古戦場公園にあった案内板ですが、信長軍の動き(青い線)が良くわかります。現在の有松駅の北側を通って、桶狭間に向かったようです。
有松の町から少し歩くと、国道1号線に出ます。この交差点は「桶狭間」でした。さっそく出てきたなという感じで、嬉しくなりました。
まずめざしたのは、桶狭間古戦場公園です。確かに丘陵地帯というのが感じられました。
有松の町から20分ほど歩いたでしょうか。(ほぼ上りでした。)桶狭間古戦場公園に到着です。後ろの住宅が立ち並んでいるのが「おけはざま山」です。
案内板の写真にあった昭和初期の「おけはざま山」です。現在とはずいぶん様子が違います。ここに今川の本陣があったそうです。
公園には仲良く並ぶ(?)織田信長(左)と今川義元(右)の像がありました。
公園のあるあたりは、昔から田楽坪(でんがくつぼ)と呼ばれ、深田の低地だったそうです。
この公園のあるあたりで、今川義元は討ち取られたそうです。でも、本当にここかどうかは、わかりませんが。
「おけはざま山」と呼ばれるあたりは、どこも急斜面でした。
今川軍は2万を超える軍勢でしたが、2万人がこんなところに集結できるわけもなく、本陣を守っていたのは何千かの軍勢だったのでしょう。
本陣のあったといわれる場所にやってきました。けっこう見晴らしの良い所でした。
ここで休憩している時に突然、織田軍が攻めて来たようです。その少し前に激しい雷雨があったようで、陣地も混乱していたことでしょう。
今川義元は輿に乗って来ていたそうですが、信長軍の急襲を受け、輿を捨てて敗走したそうです。ここから討ち死にした公園までは、わずかな距離です。
最後にやって来たのは、武路釜ヶ谷(たけじかまがたに)という所です。信長軍はこの谷に潜み、雷雨が去ったあと、後ろに見える「信長坂」を駆け上って、今川義元の本陣を攻撃したそうです。
ここから今川の本陣までは、500メートルほどの距離でした。
大河ドラマ「麒麟が来る」では、桶狭間の戦いはどのように描かれるのでしょうか、楽しみです。ちなみに、明智光秀がこの戦いに参加していたという記録は残っていません。
今回、実際に桶狭間を歩いてみて、古戦場一帯が複雑な地形であることが実感できました。
桶狭間の古戦場跡とされているところは、他にもあります。決戦はある程度広い場所で行われたのでしょう。いずれにせよ、このような複雑な地形と天候が信長に幸運をもたらしたのでしょう。
織田信長は、こののち二度と桶狭間のような無謀な(?)戦いはしなかったそうです。
※訪問日 2020.3.21