はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

いま街道歩きがおもしろい 伊勢街道(奈良~三輪編)

2015-04-14 21:04:32 | 街道歩き
<街道歩きのおもしろいところは、歴史に、文化に、自然に、そして、人に出会えることです。>
今回は、伊勢街道を奈良から三輪まで歩きます。(回想の旅ですが
実際に歩いたのは、以下の通りです。
1回目(2013.12.14) 奈良~天理
2回目(2014.1.23)  天理~三輪

伊勢街道は、文字通り伊勢に参宮するための道です。江戸時代の庶民にとっては、お伊勢参り=旅でした。大坂から、京都から、江戸からと、いくつかの伊勢街道を通って伊勢をめざしました。1650年・1705年・1771年に起こった集団参詣は、「おかげ参り」(「抜け参り」とも)と言われ、60年周期に3回起こったそうです。中でも、1705年(宝永2年)は、2ヶ月で330万~370万人が参宮したそうです。本居宣長の記録によると、4月上旬から1日2~3千人が松阪を通り、最高は1日23万人だったそうです。(信じられない数字です

前置きが長くなりましたが、私は、大阪から暗峠を越えて奈良までやって来ました。(前回参照)
奈良では、大仏でも見学して…。しかし、江戸時代の初めの頃は、大仏さんは雨ざらしだったのです。公慶さんの努力により、大仏殿が完成したのが1709年ですから、おかげ参りの人たちも、そんな大仏さんを拝んでいたのでしょうか。
地図でもわかりますが、三条通りを東に来た道は、猿沢池(さるさわのいけ)の所で直角に曲がって、南下します。


そういえば、猿沢池から見える五重塔も、明治の廃仏毀釈の嵐の中で、危うく焼き払われるところでした。
古い町並みの残る奈良町を抜けて、田園風景の中をひたすら南へ歩きます。この道は、上街道とも呼ばれ、古くは「上ッ道」と呼ばれた古道です。(このほかに「中ッ道」「下ッ道」があります。飛鳥時代に整備されました。)
やがて天理の市内です。母屋(もや)と呼ばれる建物が並んでいて、宗教都市にやって来たという感じがします。歩いている人も天理教の黒いはっぴを着ている人が目立ちます。

しばらく歩くと、我が芭蕉さんの句碑がありました。『笈の小文』の吉野・高野の旅のあと、この地で藤の花を見て詠んだと伝えられています。

(「草臥れて 宿かる比や 藤の花」:くたぶれて やどかるころや ふじのはな)

このあたりまで来ると、三輪山が近づいてきます。額田王(ぬかたのおおきみ)の和歌も良いのですが、時間も無くなってきたので、先に進みましょう。

(三輪山をバックに走る、JR桜井線)

やがて、箸墓古墳が見えてくると、今回の旅も間もなく終了です。この箸墓古墳は、前方後円墳としては最も古いものらしく、卑弥呼の墓ではないかと考えている学者もいます。また、周辺には巻向遺跡(まきむく)といわれる古代の遺跡も発見されていて、(ここも邪馬台国ではないかと考えられています。)古代史のロマンを感じるところです

(箸墓古墳へとつづく上ッ道。壬申の乱の時に、ここで戦いがあったと記録が残っています。)

最後に、三輪神社にお参りしておしまいにしましょう。三輪神社ともいいますが、大神神社というのでした。おおかみ神社ではありませんよ。「おおみわじんじゃ」といいます。酒造りの神様でもあるのでしっかりお参りしましょう。それにしても、ご祭神が大物主大神なんですね。このお方は出雲の神様では…。


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