長崎市民に格好のドライブコースの外海町。17日に出かけた記録の続きです。
前述の“黒崎教会”・“遠藤周作文学館”の先には“出津教会”があります。
そしてこの一帯を出津(しつ)文化村として近年新しく整備されていました。
ここの入り口に大きな石の“沈黙の碑”が、その後方に小さく文学館と青い海が見えます。遠藤周作さんが最初に気に入った場所だったんでしょうね。
碑には「人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりにも碧いのです」と。
新しい建物の“外海歴史民族資料館”には隠れキリシタンの歴史の説明、資料が豊富です。BGMとして「オラショ」が静かに流れていました。オラショとは祈りの言葉をその土地の日本語で隠れて唱えられていたもの。
さて上の写真の教会の建物ですが、明治15年(1882年)、ドロ神父の設計施工で建てられたものだそうです。神父と信者、みなで力を合わせて作ったもの。低く堅牢な造りは台風の被害を避けるためだとか。
↓マルコ・マリ・ドロ神父
教会の外、奥の方にあるドロ神父胸像。(上の写真の教会裏側にちょっと見えてる)
この方は「外海の人々の肉体と魂を救った人」として今でも尊敬され続けています。日本での生涯46年のうち33年をすべて外海の人々のために捧げた方。
明治12年に宣教師としてこの地に赴任。布教とともに生活の手助けを。あらゆる知識と能力で建築・製粉・搾油・パン、マカロニの製法を教え、いわし網工場まで作っている。「ドロ神父記念館」で愛用のオルガンも見てきました。フランスから持ってきたり取り寄せた珍しいものもいっぱい。医療器具もありましたよ。
今でも伝わってここの特産品になっている「ドロ様ソーメン」は有名です。
長く炊いても煮崩れしなくてしこしこつるつる。お昼はそのドロさまゆかりのランチ食べました。ランチといっても熱いドロ様ソーメン中心の和食。
かかわったのは外海だけでなく、もともと1868年に長崎に渡来して有名な長崎「大浦天主堂」に石版印刷所を設け印刷事業もされたとか。外海生活は赴任した1879年から。
1910年に大浦天主堂司教館の設計、建築監督で長崎へもどり。その4年後に天主堂のある南山手で亡くなり外海の墓地に葬られたとあります。
鐘楼は神父がフランスから取り寄せたもの。
以前unaさんがおっしゃった通り、教会の屋根の上にはキリストとマリアの度胸試しみたいな風景がありました(笑)
上の写真でははっきりと見えませんが手前がマリア像だったかな(もう記憶が薄れてます)
中は質素!黒崎教会みたいに見せる要素はありません。生活に密着した祈りの場って感じでした。
ここはさだまさし原作「解夏」の撮影があった場所だそうですが、あの映画のマリア様ってこれ[↓写真]でしょうか?白い記憶はありましたがはっきりとこれだったとは断言できません。映画では大きく見えましたから。でもロケしているのだから多分そうなんでしょうね。見てるだけで静かな、そして清らかに気持ちになれるマリア像でした。
[↓写真]この教会をちょっと上に上ってみたら幼稚園がありました。やっぱり今でも小さな子供達はマリア様に見守られて育ってるんですね。像自体は新しいのですが、その着物を着た子供の姿が歴史を感じさせますね。
歴史をたどる旅でした。これで外海シリーズは終わり。
実は今、このあたりの海も「謎の流木騒動」で大変な事になっています。せっかくの碧い海なのに。
これは長崎県の海全体の問題なのです。海水浴場の白い砂浜も大量の流木にはお手上げ!
=追記 7月29日=
ローカルニュースより
ただの棒きれではありません!大木も多く(7、8mのものも)、中には根っこが付いたまま!
そして木全体にフジツボがぎっしりと付いたものも多く・・・これから考えると南方の津波の被害ありましたよね、あのあたりからゆっくり海流に乗ってやってきたのでしょうか?
まだ報道では「謎!」のまま
漁業者も船や網が破損、流木は処理しなけりゃと・・被害は拡大するばかり
前述の“黒崎教会”・“遠藤周作文学館”の先には“出津教会”があります。
そしてこの一帯を出津(しつ)文化村として近年新しく整備されていました。
ここの入り口に大きな石の“沈黙の碑”が、その後方に小さく文学館と青い海が見えます。遠藤周作さんが最初に気に入った場所だったんでしょうね。
碑には「人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりにも碧いのです」と。
新しい建物の“外海歴史民族資料館”には隠れキリシタンの歴史の説明、資料が豊富です。BGMとして「オラショ」が静かに流れていました。オラショとは祈りの言葉をその土地の日本語で隠れて唱えられていたもの。
さて上の写真の教会の建物ですが、明治15年(1882年)、ドロ神父の設計施工で建てられたものだそうです。神父と信者、みなで力を合わせて作ったもの。低く堅牢な造りは台風の被害を避けるためだとか。
↓マルコ・マリ・ドロ神父
教会の外、奥の方にあるドロ神父胸像。(上の写真の教会裏側にちょっと見えてる)
この方は「外海の人々の肉体と魂を救った人」として今でも尊敬され続けています。日本での生涯46年のうち33年をすべて外海の人々のために捧げた方。
明治12年に宣教師としてこの地に赴任。布教とともに生活の手助けを。あらゆる知識と能力で建築・製粉・搾油・パン、マカロニの製法を教え、いわし網工場まで作っている。「ドロ神父記念館」で愛用のオルガンも見てきました。フランスから持ってきたり取り寄せた珍しいものもいっぱい。医療器具もありましたよ。
今でも伝わってここの特産品になっている「ドロ様ソーメン」は有名です。
長く炊いても煮崩れしなくてしこしこつるつる。お昼はそのドロさまゆかりのランチ食べました。ランチといっても熱いドロ様ソーメン中心の和食。
かかわったのは外海だけでなく、もともと1868年に長崎に渡来して有名な長崎「大浦天主堂」に石版印刷所を設け印刷事業もされたとか。外海生活は赴任した1879年から。
1910年に大浦天主堂司教館の設計、建築監督で長崎へもどり。その4年後に天主堂のある南山手で亡くなり外海の墓地に葬られたとあります。
鐘楼は神父がフランスから取り寄せたもの。
以前unaさんがおっしゃった通り、教会の屋根の上にはキリストとマリアの度胸試しみたいな風景がありました(笑)
上の写真でははっきりと見えませんが手前がマリア像だったかな(もう記憶が薄れてます)
中は質素!黒崎教会みたいに見せる要素はありません。生活に密着した祈りの場って感じでした。
ここはさだまさし原作「解夏」の撮影があった場所だそうですが、あの映画のマリア様ってこれ[↓写真]でしょうか?白い記憶はありましたがはっきりとこれだったとは断言できません。映画では大きく見えましたから。でもロケしているのだから多分そうなんでしょうね。見てるだけで静かな、そして清らかに気持ちになれるマリア像でした。
[↓写真]この教会をちょっと上に上ってみたら幼稚園がありました。やっぱり今でも小さな子供達はマリア様に見守られて育ってるんですね。像自体は新しいのですが、その着物を着た子供の姿が歴史を感じさせますね。
歴史をたどる旅でした。これで外海シリーズは終わり。
実は今、このあたりの海も「謎の流木騒動」で大変な事になっています。せっかくの碧い海なのに。
これは長崎県の海全体の問題なのです。海水浴場の白い砂浜も大量の流木にはお手上げ!
=追記 7月29日=
ローカルニュースより
ただの棒きれではありません!大木も多く(7、8mのものも)、中には根っこが付いたまま!
そして木全体にフジツボがぎっしりと付いたものも多く・・・これから考えると南方の津波の被害ありましたよね、あのあたりからゆっくり海流に乗ってやってきたのでしょうか?
まだ報道では「謎!」のまま
漁業者も船や網が破損、流木は処理しなけりゃと・・被害は拡大するばかり
やっぱり時期があるらしいので、縁起物を川に流す習慣が残った地域からのものでしょうね。
しかし5万本って...
検索したけれどネットでは見つけられませんでした。もう少し全国にも知ってほしいですね。
沖縄や中国あたりからか・・との推測でした。
ところでTVでも報道されたと思いますが、海にかかわる人は猛暑の中大変です。
引き上げたものの悪臭まで放つと!
結構好きなんですが大量だと恐いかも(^^;
出津教会のマリアさま、高所恐怖症になりそうなヤツですよね(笑)
知人が編纂した「日本の教会(月刊『太陽』別冊)」で見ました。
ところでメールを送りましたのでよろしくです。
私も知ってるような気がするんですが・・・記憶の外
黒崎教会は丘の上でしたが・・・この教会は海は近いですが割りと低い位置にあったような、そして漁港は・・・教会からは見えなかったような気がしています。
本当にいつか訪ねてください
ますます長崎を旅してみたくなりましたよ
以前、小説か何かの中に
「入り江をすべる小さな漁船の上で
漁師たちは陽に焼けた額を汗で拭い
そして教会の方向へ十字をきり挨拶をした」という文章がありました
una 胸がジーーーンとした文章でありますっ
この教会から漁港が見えますか?
イエス様とマリア様はきっと
海で働く人たちを見守っているのでしょうね
そんな光景が目に浮かぶのが
Kさんがレポートして下さった
私の長崎なのです