その次に好奇心をくすぐったのがミクロの世界と相対性理論でした。高1の頃は手当たり次第にブルーバックスを読み漁っておりました。その中でもミクロの世界を扱う量子力学と相対論的宇宙論でした。一般相対性理論は難解すぎて手に負えませんでしたが、量子論は難しいけれども面白さの方が勝りました。ブルーバックスだけでなく、湯川秀樹、朝永振一郎の初学者向けの解説書なども読みました。
ただ、その頃は物理学科へ進もうなんてことは微塵も考えておりませんでした。当時、私の心を捉えて離さなかったのが「空を飛びたい!」といった思いでした。何とも即物的な憧れですよね。見えないものにあこがれるなんてことを全く失くしていた時期でもあったのでしょうか。
色々と調べてみると航空大学校に進学するのが良さそうだとの結論に達しました。しかし、高2の夏休み位から急激に視力が衰え、春の健診時に両眼とも2.0であったのが0.7程度になってしまいました。眼科を受診したら仮性近視を通り越しているので視力回復の見込みなしと診断されました。
当時の受験資格では裸眼で1.0以上という規定があり、そもそも受験資格すらないといった死刑宣告にも等しいことでありました。
それから半年位は、茫然自失状態となってしまい、かなり荒んだ高校生生活を送っていたと思います。あろうことか、それまで一度もやったことのない柔道部に入部して稽古に明け暮れる日が続きました。寒稽古のときなど真冬の早朝からの稽古で柔道着に袖を通すときの冷たさといったら、今思い出してもゾッとします。
しかし、高3になるとそう何時までも運動に熱中してばかりはいられません。目前に迫った受験をどうするかといった選択に迫られます。
「文系と理系」で書いておりますように、当初は文系を志望しておりましたが、何の因果か理系のクラスに入れられてしまいました。文系の志望者が多く締め出されてしまったのかも知れません。
そこで思ったのが、空への憧れに近いことができないかということで、航空工学を志望したものの国立では旧帝大クラスにしかなく、どう逆立ちしても合格の可能性は限りなくゼロです。私大は貧乏人の子倅にとっては論外です。
ここで一計を案じました。大学には航空部(大体は滑空機)があるので、そこに潜り込めば空を飛べるのではと考えたのです。そして、学問的にも近い物理学ならば流体力学とかそれらしきものも学べるのではないかといった思いもありました。
しかし、現実はそう甘くありませんでした。赤本には確かに航空部の記載があったにも関わらず、学内を探し回れど航空部などありはしません。更に、流体力学の講義は担当教授が定年退官のため私が学部に上がる前の年で終了してしまいました。なんと不運が重なることでしょう。
学部に上がって原子物理学の講義で熱輻射の問題から前期量子論を扱ったのですが、これが高校時代に抱いたミクロの世界への興味を再燃させたのです。これに続く量子力学は、湯川先生の下で学ばれた先生の講義は秀逸で、おそらくは湯川先生の講義ノートを土台にして構成されたものであろうと思われる名調子の講義を受けられたことは自分にとって誠に幸せなことであったと思っております。
4年次にになるとそろそろ就職活動も始めなければなりません。当時は就活の解禁日は遅く、夏休みが終わった位からボツボツ検討を始めるといったのんびりとした時代でした。しかしながら、物理で飯を食うのは至難の業です。普通は中学・高校の理科の教員になるか民間企業に就職するかといった選択肢しかありません。
私も教職課程の単位を取り、高校の教員免許を持ってはおりますが、当時は教員になりたいといった気持ちはありませんでした。二十歳そこそこの人間が教育者なんておこがましいし、もっと広い世界を経験してみたいといった思いもありました。
一方で卒業研究もやらなければなりません。私は量子力学でお世話になった先生に面倒を見てもらうことになりました。といっても週1回行われるゼミに参加するだけです。当時ゼミ生は5人位だったでしょうか、最初の課題は基本書である「散乱の量子論」を輪番で解説しなければなりませんでした。先生から内容に関してツッコミが入ります。生半可な理解では吊し上げにもなり兼ねません。週一のゼミとは言え、その準備は相当辛いものがありました。当時の私にとっては物理的な内容はさておき数学的にはレベルが高過ぎました。
私の発表当番の時、散乱振幅を計算するのにBessel関数を用いてあったのですが、Bessel関数のイメージが掴めなかったので、プログラム電卓で予め計算しておいた値でグラフを描いて説明したところ先生にお褒めいただきました。
プログラム電卓は教養時代に実験データを整理するのに関数電卓では時間が掛かるので、バイトで稼いだ大枚を叩いて購入したものです。学部の実験でも大いに活用させていただきました。それが思わぬ役に立ったという訳です。
当時からコンピュータに興味はあったものの、大型コンピュータは扱わせてもらえず、パソコンの走りであるBASICプログラムが走るポータブルコンピュータみたいなものがありました。それでもウン十万円、それにフロッピーディスクユニットを付けるとその倍位になりました。とてもではありませんが貧乏学生には手が届きません。ではということでTK-80というワンボードマイコンというのがありまして、これは16進キー+制御キーと7セグLED×8とシリ・パラポート位のインターフェースしかなく、実験屋さんならともかく、当時の私にとっては宝の持ち腐れになりそうだったので結局購入しませんでした。
ということで学生時代のコンピュータの知識はほぼゼロに近いものでありましたが、どういう因果かプログラム電卓を持っている位だからコンピュータが好きなんだろうといった妙な誤解があったのでしょう、卒研の先生にコンピュータソフト開発会社を推薦していただき、目出度く就職難にも関わらず就職内定一番乗りを果たしたのでした。
如何ですかグラフを描くと人生の転換点になるかもですよ⇒「グラフが描けないと大損する!? 」
とかく人生というものは不可思議なものです。挫折に継ぐ挫折もあれば、何気なくやっていたことがきっかけで運命がひらけたりするものです。
さて、学生時代までざっと振り返ってみましたが、未だ自分で本当にやりたい事なぞ見つかっておりません。ただ何となく状況に流されてきてしまったという気もしております。
就職後のことなど、多分これからが面白いことになるとは思いますが、機会があれば続きを書きたいと思います。
ただ、その頃は物理学科へ進もうなんてことは微塵も考えておりませんでした。当時、私の心を捉えて離さなかったのが「空を飛びたい!」といった思いでした。何とも即物的な憧れですよね。見えないものにあこがれるなんてことを全く失くしていた時期でもあったのでしょうか。
色々と調べてみると航空大学校に進学するのが良さそうだとの結論に達しました。しかし、高2の夏休み位から急激に視力が衰え、春の健診時に両眼とも2.0であったのが0.7程度になってしまいました。眼科を受診したら仮性近視を通り越しているので視力回復の見込みなしと診断されました。
当時の受験資格では裸眼で1.0以上という規定があり、そもそも受験資格すらないといった死刑宣告にも等しいことでありました。
それから半年位は、茫然自失状態となってしまい、かなり荒んだ高校生生活を送っていたと思います。あろうことか、それまで一度もやったことのない柔道部に入部して稽古に明け暮れる日が続きました。寒稽古のときなど真冬の早朝からの稽古で柔道着に袖を通すときの冷たさといったら、今思い出してもゾッとします。
しかし、高3になるとそう何時までも運動に熱中してばかりはいられません。目前に迫った受験をどうするかといった選択に迫られます。
「文系と理系」で書いておりますように、当初は文系を志望しておりましたが、何の因果か理系のクラスに入れられてしまいました。文系の志望者が多く締め出されてしまったのかも知れません。
そこで思ったのが、空への憧れに近いことができないかということで、航空工学を志望したものの国立では旧帝大クラスにしかなく、どう逆立ちしても合格の可能性は限りなくゼロです。私大は貧乏人の子倅にとっては論外です。
ここで一計を案じました。大学には航空部(大体は滑空機)があるので、そこに潜り込めば空を飛べるのではと考えたのです。そして、学問的にも近い物理学ならば流体力学とかそれらしきものも学べるのではないかといった思いもありました。
しかし、現実はそう甘くありませんでした。赤本には確かに航空部の記載があったにも関わらず、学内を探し回れど航空部などありはしません。更に、流体力学の講義は担当教授が定年退官のため私が学部に上がる前の年で終了してしまいました。なんと不運が重なることでしょう。
学部に上がって原子物理学の講義で熱輻射の問題から前期量子論を扱ったのですが、これが高校時代に抱いたミクロの世界への興味を再燃させたのです。これに続く量子力学は、湯川先生の下で学ばれた先生の講義は秀逸で、おそらくは湯川先生の講義ノートを土台にして構成されたものであろうと思われる名調子の講義を受けられたことは自分にとって誠に幸せなことであったと思っております。
4年次にになるとそろそろ就職活動も始めなければなりません。当時は就活の解禁日は遅く、夏休みが終わった位からボツボツ検討を始めるといったのんびりとした時代でした。しかしながら、物理で飯を食うのは至難の業です。普通は中学・高校の理科の教員になるか民間企業に就職するかといった選択肢しかありません。
私も教職課程の単位を取り、高校の教員免許を持ってはおりますが、当時は教員になりたいといった気持ちはありませんでした。二十歳そこそこの人間が教育者なんておこがましいし、もっと広い世界を経験してみたいといった思いもありました。
一方で卒業研究もやらなければなりません。私は量子力学でお世話になった先生に面倒を見てもらうことになりました。といっても週1回行われるゼミに参加するだけです。当時ゼミ生は5人位だったでしょうか、最初の課題は基本書である「散乱の量子論」を輪番で解説しなければなりませんでした。先生から内容に関してツッコミが入ります。生半可な理解では吊し上げにもなり兼ねません。週一のゼミとは言え、その準備は相当辛いものがありました。当時の私にとっては物理的な内容はさておき数学的にはレベルが高過ぎました。
私の発表当番の時、散乱振幅を計算するのにBessel関数を用いてあったのですが、Bessel関数のイメージが掴めなかったので、プログラム電卓で予め計算しておいた値でグラフを描いて説明したところ先生にお褒めいただきました。
プログラム電卓は教養時代に実験データを整理するのに関数電卓では時間が掛かるので、バイトで稼いだ大枚を叩いて購入したものです。学部の実験でも大いに活用させていただきました。それが思わぬ役に立ったという訳です。
当時からコンピュータに興味はあったものの、大型コンピュータは扱わせてもらえず、パソコンの走りであるBASICプログラムが走るポータブルコンピュータみたいなものがありました。それでもウン十万円、それにフロッピーディスクユニットを付けるとその倍位になりました。とてもではありませんが貧乏学生には手が届きません。ではということでTK-80というワンボードマイコンというのがありまして、これは16進キー+制御キーと7セグLED×8とシリ・パラポート位のインターフェースしかなく、実験屋さんならともかく、当時の私にとっては宝の持ち腐れになりそうだったので結局購入しませんでした。
ということで学生時代のコンピュータの知識はほぼゼロに近いものでありましたが、どういう因果かプログラム電卓を持っている位だからコンピュータが好きなんだろうといった妙な誤解があったのでしょう、卒研の先生にコンピュータソフト開発会社を推薦していただき、目出度く就職難にも関わらず就職内定一番乗りを果たしたのでした。
如何ですかグラフを描くと人生の転換点になるかもですよ⇒「グラフが描けないと大損する!? 」
とかく人生というものは不可思議なものです。挫折に継ぐ挫折もあれば、何気なくやっていたことがきっかけで運命がひらけたりするものです。
さて、学生時代までざっと振り返ってみましたが、未だ自分で本当にやりたい事なぞ見つかっておりません。ただ何となく状況に流されてきてしまったという気もしております。
就職後のことなど、多分これからが面白いことになるとは思いますが、機会があれば続きを書きたいと思います。