患者会結成早々デイケアの木下室長(女)の手引きで主治医田中羲Dr.の前に臨時診察の名目でひきだされた河馬会長は、医者に「私は病院を代表して患者会を認めない」と宣告された。
その時河馬のカルテには結成宣言を報道した「患者会便り」が糊付けしてあった。
医者の権威を傘にきて何をぬかすかこの医者はと思った河馬会長は、直ちに外来婦長を呼んで、その医者を僕の主治医から外すよう求めた。
すでにこの事は2003年の話しである。
しかし今から考えても浅香山病院の医局か何か、当方の関知するところではないが、一医師が病院を代表して「患者会を認めない」と言い切ったのは尋常ではない。
そこには明らかな病院組織の患者会潰しの露骨な意図が明らかだった。
その時、直ちに患者会役員会は「浅香山病院の精神障害者や患者には集会・結社・表現の自由は無いのか!院内に憲法の光は届かないのか!」とのキャンペーンを張って医者とデイケア室長木下の策謀を打破して、今日の浅香山患者会の公然たる姿がある。
この間には浅香山病院法人本部、浦東氏らその他関係先との間で折衝を重ねて、一定の集団的、市民的権利を獲得してきた。簡単に言えば厳しい人権闘争を経て初めて認知を受けたとも言えよう。
浅香山病院の歴史の中で、病院から完全にインデペントな、つまり、自主的な患者組織が誕生したのは初めてです。
それまでも西病棟などに会長と呼ばれる人がいて(故人)自治会らしきものがあったが、病棟の紐付きの組織で、病院と対等な話し合いををする性格のものでなかった。
田中羲Dr.等の不当な干渉を蹴飛ばし、院内、外に存在を示した。
患者会の初めの正式名称は「浅香山病院・精神障害者・患者会」であった。
結成して数ヶ月後、病院法人本部の副本部長浦東さんから話し合いに応じて欲しいとの要請があった。
病院法人本部の応接室に通された。
通されて、驚いた。
応接室の本棚には、エセ団体が企業などに売り込んでいた、新聞の屑を麗々しく製本した、関係の資料がぎっしり詰まっていた。河馬の値踏みで数百万円分があった。
浅香山病院法人本部は、エセ団体と付き合いし、人権問題に熱心に取り組んでいる、免罪符を買って、ポーズを取っているのだった。
エセ団体に協力する事は当時盛んに問題だった同和問題の解決、差別からの部落住民の半封建的身分差別解放に逆行するものであった。
僕は初めての法人本部と患者会の組織との公式交渉のあと浦東副本部長と面談し、エセ行為に協力するな、お前たちは人権に関わって2重、3重の誤りを犯すのかと釘をさした。
病院の人権意識がこんなものだから、院内で次々と病院が人権問題事件を起こしたのだ。
もともと精神病院は治外法権的な体質を持っている。それは患者保護の名目で患者の人権を刑務所や拘置所以上に縛り上げる権限を法で持たされているからだ。
だから医師も職員も人権に鈍感というか、人権意識も低かった。それは精神衛生法の時代を病院で過ごした河馬の良く知るところである。院内の人権侵害をその当時は法が保証していた。
すでに旧聞になるが、河馬が躁で閉鎖病棟に入院した初日、病棟の都合で、(総室、4人部屋が満杯だった)鍵の掛からない個室に入院した。
入院した初日担当の山本看護師が部屋にやって来て、入院時説明をするのかと思ったら、いきなり「おとなしく、していないと不利益を受けますよ。」と脅した。その一言を聞いて、河馬は完全に頭に来て、切れた。
入院したばかりでまだ何もしていない。山本看護師の河馬に対する予断と偏見による完全な脅しであった。河馬は病棟師長を呼ぼうかと思ったが、山本の経歴に傷がつくと配慮して、その場で解決しようと思った。
個室を良いことにして河馬は大声で馬鹿な山本を糾弾した。
河馬曰く「一体誰に向かって、もの言っているんだ! 河馬はこの病棟のお客様だぞ! 不利益を受けるとしたら、いったいどんな不利益を受けるのか、一々上げてみよ!」個室での糾弾は40分に渡りくり返された。
山本は一言も答えられず最後に一言「すいませんでした。」と小さな声で言った。それで事件は内々にして、解放してやった。
この事を山本がどんな風にカルテに記録するか河馬は関係無いことだった。
話はまたまた脱線したが、元へ戻そう。
法人本部から呼ばれての交渉には、患者会の名称にたいするクレームだった。交渉には、法人本部から浦東副本部長と神谷(かみや)管理課長、患者会から河馬会長、金中保副会長、宮尾役員が出席した。
交渉は粛々とおこなわれ、法人側の意見も良く聞いてやった。法人側は会の名称から浅香山病院を外して欲しいと言うことだった。
病院名がついていると病院の組織と外部から誤解されてまずい、と言う主張だった。
患者会を代表した河馬はじめ本部理事者側の意見もわかったので、「浅香山患者会」に名称変更するとの提案をして合意した。患者会もその呼び掛けの中で、活動範囲を浅香山病院とその周辺地域と規定していたので、浅香山と言う地名を冠にしたほうがよかった。
交渉は30分ほどで蹴りが着いた。
こうして院内で法人側からも認められる組織となったので、以後何度も、法人とは事ある事に交渉した。
しかし、その後も、患者会は病院付属生活支援センターアンダンテ(現サポートホームアンダンテ)からも理由の無い干渉攻撃、不手際を2度に渡りうけた。
その件に関しては公には明らかにしていないが同施設からも不本意ながら、反省文と始末書を取らざるを得なかった。
およそ天下の浅香山病院にして、人権に関して、このようにお寒いことがあるから、精神病者をめぐる全国の人権状況の寒さは北極なみです。
一例を上げれば、浅香山病院が個人情報の取り扱いマニュアルを作成したのは、河馬患者会会長に人権侵害事件での謝罪文を出してから3年以上後の事となる。(2007年頃)
もうひとつ最後に付け加えれば病院が患者様に対して「君付けで呼ばないよう」お達しをだしてからかれこれ15年以上になるが、たまに「君付け」で呼ぶのを耳にすると、この病院が患者様に対して、完全なるサービス業の一部であることを病院の理事長はじめ、取り巻きの幹部がそもそもその事を認識しているとは、到底思えない。
もし、認識していたらつい、こないだ労働組合が、3日間のストを打ち抜いた時、高橋明理事長なんぞはスト中に各病棟やOT.デイケアを回って職制、師長や室長のご機嫌取りに回る前に病院玄関に立って患者様、お客様にご迷惑をかけております。と頭を下げるべきだ。
理事長でてこい、月夜の晩ばかりでないぞ。ひとりで歩くな。用心のため、ボディガードのひとりぐらい付けてあるけ。
過去には鋏なんぞで腹刺された医者が何人かは居てるぞ、相手は気ちがい河馬だぞ、用心しろよ。
気ちがい河馬を知りたきゃ、OTへおいで、アンダンテでもよいぞ。
疲れた。もうきょうは止め。
注:このブログへの意見は一切受付ておりません。御意見のある方は;kabaeye@yahoo.co.jpまでメールして下さい。
今回の投稿はおよそ10年以前に「フーテン河馬日記」に投稿したものに加筆、訂正したものです。フーテン河馬日記は悪意の意見が原因?で、何者かにハッカーされ、4年間書きためた全文が削除され、たまたま残ったブリントが発見され加筆再掲載したものです。
その時河馬のカルテには結成宣言を報道した「患者会便り」が糊付けしてあった。
医者の権威を傘にきて何をぬかすかこの医者はと思った河馬会長は、直ちに外来婦長を呼んで、その医者を僕の主治医から外すよう求めた。
すでにこの事は2003年の話しである。
しかし今から考えても浅香山病院の医局か何か、当方の関知するところではないが、一医師が病院を代表して「患者会を認めない」と言い切ったのは尋常ではない。
そこには明らかな病院組織の患者会潰しの露骨な意図が明らかだった。
その時、直ちに患者会役員会は「浅香山病院の精神障害者や患者には集会・結社・表現の自由は無いのか!院内に憲法の光は届かないのか!」とのキャンペーンを張って医者とデイケア室長木下の策謀を打破して、今日の浅香山患者会の公然たる姿がある。
この間には浅香山病院法人本部、浦東氏らその他関係先との間で折衝を重ねて、一定の集団的、市民的権利を獲得してきた。簡単に言えば厳しい人権闘争を経て初めて認知を受けたとも言えよう。
浅香山病院の歴史の中で、病院から完全にインデペントな、つまり、自主的な患者組織が誕生したのは初めてです。
それまでも西病棟などに会長と呼ばれる人がいて(故人)自治会らしきものがあったが、病棟の紐付きの組織で、病院と対等な話し合いををする性格のものでなかった。
田中羲Dr.等の不当な干渉を蹴飛ばし、院内、外に存在を示した。
患者会の初めの正式名称は「浅香山病院・精神障害者・患者会」であった。
結成して数ヶ月後、病院法人本部の副本部長浦東さんから話し合いに応じて欲しいとの要請があった。
病院法人本部の応接室に通された。
通されて、驚いた。
応接室の本棚には、エセ団体が企業などに売り込んでいた、新聞の屑を麗々しく製本した、関係の資料がぎっしり詰まっていた。河馬の値踏みで数百万円分があった。
浅香山病院法人本部は、エセ団体と付き合いし、人権問題に熱心に取り組んでいる、免罪符を買って、ポーズを取っているのだった。
エセ団体に協力する事は当時盛んに問題だった同和問題の解決、差別からの部落住民の半封建的身分差別解放に逆行するものであった。
僕は初めての法人本部と患者会の組織との公式交渉のあと浦東副本部長と面談し、エセ行為に協力するな、お前たちは人権に関わって2重、3重の誤りを犯すのかと釘をさした。
病院の人権意識がこんなものだから、院内で次々と病院が人権問題事件を起こしたのだ。
もともと精神病院は治外法権的な体質を持っている。それは患者保護の名目で患者の人権を刑務所や拘置所以上に縛り上げる権限を法で持たされているからだ。
だから医師も職員も人権に鈍感というか、人権意識も低かった。それは精神衛生法の時代を病院で過ごした河馬の良く知るところである。院内の人権侵害をその当時は法が保証していた。
すでに旧聞になるが、河馬が躁で閉鎖病棟に入院した初日、病棟の都合で、(総室、4人部屋が満杯だった)鍵の掛からない個室に入院した。
入院した初日担当の山本看護師が部屋にやって来て、入院時説明をするのかと思ったら、いきなり「おとなしく、していないと不利益を受けますよ。」と脅した。その一言を聞いて、河馬は完全に頭に来て、切れた。
入院したばかりでまだ何もしていない。山本看護師の河馬に対する予断と偏見による完全な脅しであった。河馬は病棟師長を呼ぼうかと思ったが、山本の経歴に傷がつくと配慮して、その場で解決しようと思った。
個室を良いことにして河馬は大声で馬鹿な山本を糾弾した。
河馬曰く「一体誰に向かって、もの言っているんだ! 河馬はこの病棟のお客様だぞ! 不利益を受けるとしたら、いったいどんな不利益を受けるのか、一々上げてみよ!」個室での糾弾は40分に渡りくり返された。
山本は一言も答えられず最後に一言「すいませんでした。」と小さな声で言った。それで事件は内々にして、解放してやった。
この事を山本がどんな風にカルテに記録するか河馬は関係無いことだった。
話はまたまた脱線したが、元へ戻そう。
法人本部から呼ばれての交渉には、患者会の名称にたいするクレームだった。交渉には、法人本部から浦東副本部長と神谷(かみや)管理課長、患者会から河馬会長、金中保副会長、宮尾役員が出席した。
交渉は粛々とおこなわれ、法人側の意見も良く聞いてやった。法人側は会の名称から浅香山病院を外して欲しいと言うことだった。
病院名がついていると病院の組織と外部から誤解されてまずい、と言う主張だった。
患者会を代表した河馬はじめ本部理事者側の意見もわかったので、「浅香山患者会」に名称変更するとの提案をして合意した。患者会もその呼び掛けの中で、活動範囲を浅香山病院とその周辺地域と規定していたので、浅香山と言う地名を冠にしたほうがよかった。
交渉は30分ほどで蹴りが着いた。
こうして院内で法人側からも認められる組織となったので、以後何度も、法人とは事ある事に交渉した。
しかし、その後も、患者会は病院付属生活支援センターアンダンテ(現サポートホームアンダンテ)からも理由の無い干渉攻撃、不手際を2度に渡りうけた。
その件に関しては公には明らかにしていないが同施設からも不本意ながら、反省文と始末書を取らざるを得なかった。
およそ天下の浅香山病院にして、人権に関して、このようにお寒いことがあるから、精神病者をめぐる全国の人権状況の寒さは北極なみです。
一例を上げれば、浅香山病院が個人情報の取り扱いマニュアルを作成したのは、河馬患者会会長に人権侵害事件での謝罪文を出してから3年以上後の事となる。(2007年頃)
もうひとつ最後に付け加えれば病院が患者様に対して「君付けで呼ばないよう」お達しをだしてからかれこれ15年以上になるが、たまに「君付け」で呼ぶのを耳にすると、この病院が患者様に対して、完全なるサービス業の一部であることを病院の理事長はじめ、取り巻きの幹部がそもそもその事を認識しているとは、到底思えない。
もし、認識していたらつい、こないだ労働組合が、3日間のストを打ち抜いた時、高橋明理事長なんぞはスト中に各病棟やOT.デイケアを回って職制、師長や室長のご機嫌取りに回る前に病院玄関に立って患者様、お客様にご迷惑をかけております。と頭を下げるべきだ。
理事長でてこい、月夜の晩ばかりでないぞ。ひとりで歩くな。用心のため、ボディガードのひとりぐらい付けてあるけ。
過去には鋏なんぞで腹刺された医者が何人かは居てるぞ、相手は気ちがい河馬だぞ、用心しろよ。
気ちがい河馬を知りたきゃ、OTへおいで、アンダンテでもよいぞ。
疲れた。もうきょうは止め。
注:このブログへの意見は一切受付ておりません。御意見のある方は;kabaeye@yahoo.co.jpまでメールして下さい。
今回の投稿はおよそ10年以前に「フーテン河馬日記」に投稿したものに加筆、訂正したものです。フーテン河馬日記は悪意の意見が原因?で、何者かにハッカーされ、4年間書きためた全文が削除され、たまたま残ったブリントが発見され加筆再掲載したものです。
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