気ちがい河馬の作品。10数年前気ちがい河馬がクレーン車の運転士を病気退職した直後浅香山病院OT室で制作。浅香山病院の廊下の壁に飾ってある。河馬は病院に対し絵画テロを敢行した。誰も気付いていないか、無視されている。
河馬の属する教団では不文律ではあるが、偶像崇拝はあまり勧められていない。それでは河馬は寂しいとと考え をや様をイメージしてこれを描いた。
浅香山病院の某所の廊下の壁に飾ってある。病院に対し絵画テロを敢行した。
我が教団で 唯一神聖なものは教祖中山みきが、神の力を借りて書いたお筆先と呼ばれる聖書であり、信者皆が神聖視して拝んでいるものは 雛形甘露(ひながたかんろうだい)六角の断面をもつ三メートルばかりの木製の柱の上に木製の鉢をを置いたものである。
ひながたは何処まで行ってもひながた(模型)であり、聖なるものか疑問が残る。
だから、仏教の仏像や、神道の鏡のような正面から、拝跪(はいき)する対象ではない。
ひながたかんろうだい は、四方正面と言って四方から拝んでいる。丁度人間(神の子ども)たちが向かい会って拝み合う形となる。
気ちがい河馬の所属する教団での師匠は、かんろうだいの側で、河馬に一言、かんろうだいを指し「ひながたや!」と吐き気捨てるように言った。
本物の甘露台(かんろうだい)の建設がなった時、初めて神人和楽の理想世界ができる。
それは遥かに遠い。
信者みなが、崇拝するかんろうだいを、ひながたやと言い切った河馬の師匠は本物の布教者と思った。
それは誰にでも言える、言葉ではない。
我が師匠の、いち布教者は、ある有名な話しと似ている。
コメディアン・植木等、の父親は寺のおっさん(寺の檀家を預かる坊さん=住職)で、気ちがい河馬の祖地三重県渡会郡四郷村字朝熊、の近辺で戦前に農民運動や社会運動に手を染め、近郷近在から尊敬された坊主だった。
しかし、我が息子、植木等だけには親子二人っきりの時、寺の仏像を、着物を作る時使うクジラ尺の目盛りの付いたサシで、ピシャッ、ピシャッ叩いてこんなものは仏教とはなんの関係も無い、化体のものだとして幼い植木等に仏教の本質を教えたそうな。
我が師匠の布教師も一刀両断の下に我が教団の教義の虚構性を気ちがい河馬に教えてくれた。
が、その布教師は最も教条的に教会では思われ、祭りの際の形式美、儀式の一挙一投足に教条的に厳しいしうるさい。
河馬からすればニ律背反も甚だしい。矛盾している。
しかし、その布教師は毎月東南アジアの諸国に出かけ、言葉も知らない国々で布教の実を挙げている。
また、ある大教会の幹部と詰所で(大教会詰所、寺の宿坊のようなもの)親しくなった。
彼はは実にアッサリと「お前は共産党か、と河馬の身元調査をどこでしたのか不明だが初対面で尋ねかた。うちの教会の会長にもそんなあほおるわ、とこともなげににいった。
そして、教会ではあほになれ。あほになれ。と簡単に言うが、なんの間違いか、人間は「をや(親神)」が作ったものであるにも関わらず、そう簡単にあほにはなれるものでは無い、三歳児にして、もうすでにずる賢い。人は皆、ずる賢く生まれれついとる。
これを直し、泥まみれの布教をするのは至難の技や、我々は世間の常識とまるで反対の教えを布教しなければ為らん。」と言う、この人も通り一辺のことを言う人ではなかった。 教会で、教えられた事とまるで反対の事を言う。
気ちがい河馬は信仰の初め、教団本部の中学校程度の、学校に半強制的に行かされたが、金が15万円ちょっといるから、嫌だと断った。
学校は授業料は無かった。只である。ただし、3ヶ月間食べて、住み込む居住する費用が、要るとのことだった。
そう考えると高くは無い。
1ヶ月あたり五万円だから、大阪でただ住んでいるだけで5万円は要る。とても5万円では1ヶ月生活できない。
しかし河馬には絶対的にお金がなかった。
その直前、躁病で、駅前の値段のついていない寿司屋で、開店から看板まで飲み、かつ食って、40日間ほど通いつめ、3ヶ月分の生活費を使い果たして、もう生きては行け無いと、自殺も考えて、浅香山病院相談室の柏木一恵心理ケースワーカーに相談に行っていた。
柏木PSWは実に簡単に、「自殺ははた迷惑です。1日500円有ったら生きて行けます。あなたの信仰でも自殺はいけない事でしょう。陽気ぐらしは500円でできます。」と自殺願望は一言で蹴飛ばされた。
そんなわけで気ちがい河馬はその時、絶体的にお金がなかった。
師匠は金が無いなら河馬の父河馬に出してもらえないか相談に行け。と言ったので行って頼んで見た。
河馬家は祖父母の代から我が教団に属している。三代教会にお尽くししている。一言に祖父母から三代と言うけれど、たかが三代されど三代百五十年近くになる。
だから父河馬は言った。「事故で片手しかなかった祖母ハナは70歳の高齢の時、教団の中学校みたいな学校に御本部 で3ヶ月勉強し、正式の信者になった。 おばあちゃんハナは自分の小遣いを貯めて行った。金の15万ぐらいなくはないが、自分で段取りするのが筋や、本当に無かったら教会に凭れ。」と言った。
さすが若い時分から教会の事を知っている父河馬はキィワードを知っている。
そんなわけで小遣い一万円ほど持って教団の中学校みたいな学校に教会に凭れて、3ヶ月勉強に行った。
主治医稲谷Dr.にも相談したら、反対された。河馬の今の状態が3ヶ月続く訳はなく、危険だ。第一薬が手に入るか?と尋ねられた。
薬は手に入ります。教団設立の大病院があり、そこに精神科もあります。と答えたら、処方箋と紹介状をかいてくれた。
教団の中学校みたいな学校で勉強している時、御本部で大事件が起きた。
雛型かんろうだいが、ある不届きな信者によって結界を破られ、かんろうだいをぶっ倒してしまった。
御本部役員などは三日三晩にわたる、お詫び勤めをし、汚されたかんろうだいを新しく建て直すのに大わらわだったらしい。その事件の事について正式な発表は一切なかった。
犯人の所属する大教会はお詫びに本部に対して一億円のお詫びとお許しのお供えをしたと言うような噂話も流れた。本部周辺はその事件のうわさ話で持ちきりだった。
気ちがい河馬は、雛型かんろうだいがぶっ倒されようと、どうと言う事無いと思って全く無関心だった。
御本部での3ヶ月の生活は気ちがい河馬の心に癒しと、安らぎを与えるものであった。
しかし3ヶ月目、河馬はひどい鬱状態に落ち込み、本部設立の病院の精神科を受診した。
御本部設立病院の医者は河馬に1日も早く家に帰って、あなたの主治医の診察を受けなさい、と勧めた。学校には、またいつでも来れるからと言い、これから御本部は夏に向かって恒例行事で騒がしくなるからと、つけ加えた。
御本部の学校生活は竜頭蛇尾に終わった。
成績は散々だった。
教会に凭れて、つまり借金してかろうじて卒業した。
教会への負債は障害年金を毎月一万円づつ貯めて、一年半後に親会長、会長婦人に返した。
師匠の親会長は大変よろこんでくれ、胸つかえがおりた。
(この稿続く)
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