オリンピック憲章-1章6条(オリンピック競技大会)
オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない.
OLYMPIC CHARTER-Chapter1-6
The Olympic Games are competitions between athletes in individual or team events and not between countries.
ロンドンオリンピックが目前に迫ってきました。わくわく、どきどき。
б(≧◇≦)ノ ・・・なでしこ、頑張れ!
б(≧◇≦)ノ ・・・福見友子ちゃん、have fun!
どちらかと言えばといわずスポーツが好きなKABUはロンドンオリンピック楽しみにしています。けれど、オリンピックというか「オリンピックと国家」の関係について私はその現状に些か不満も抱いている。本稿は、ロンドンオリンピック目前の今のタイミングでその不満を書き記しておくものです。
私の不満は煎じ詰めれば次の2点、すなわち、
(甲)国庫補助や公教育を通した競技人口の涵養等々、
日本はその<経営資源>を競技間で一層メリハリを付けて傾斜配分すべきかも
(乙)オリンピック代表選考に関しては、メダルをクランチできる可能性だけでなく
選考プロセスをより透明性の高いものにすべきかも
オリンピックでの日本選手の活躍を最終的な成果目標として、2011年度だけでも日本政府は、①JOC(日本オリンピック委員会)を通して26億円、②2008年から始まった文部科学省の所謂「マルチサポート事業予算」(オリンピックのメダル有望種目を指定してなされる情報戦略や医科学、用具開発などに支給される予算)を27億円、③サッカーくじ(toto)助成金の中の該当部分。と、この①~③だけでも70億円を投下しています。尚、③は「税金」ではないにせよ、totoが広く浄財を集めることができるについては国の立法措置が前提になるわけですから①②と③は区別しません。
而して、これらに加えて、(繰り返しますが、オリンピックでの日本選手の活躍を最終的な成果目標とするものに限定しても)個々の案件に関しては「雀の涙」としてもスポーツ振興事業に対する企業やNPOへの税制優遇措置、大学や警察・自衛隊等々への予算措置を積算すればオリンピックを巡って投入されている税金総額は(ナショナルトレーニングセンター建設やそのスタッフの人件費等の「箱物予算」を除いても)優に150億円はくだらないと想定します。
150億円が多いか少ないか? 総額としては私は必ずしも多いとは思いません。これは、そう、「国防費」とパラレルに(国によってはその情報自体が抑止力として作用することを期待して多めに言い、国によっては他国を刺激しないために少なめに言う等の事情があり)正確な予算規模は分からないというのが実情らしいのですけれども、例えば、北京オリンピックを翌年に控えた2007年度の主要国のオリンピックの年間強化費は次のように言われています。
支那-480億円
米国-165億円
英国-118億円
韓国-597億円
今更、欧米崇拝などであるはずもないのですが、アメリカやカナダ、欧州と比べた場合の、施設や専門スタッフという「箱物=タンジブルアセット」から、全国を網羅する「裾野拡大→才能発掘→才能支援」というインタンジブルアセットともいうべきネットワークの整備に関しての彼我の歴然とした差を肌で知る者の一人としては、日本の予算がよしんば250億円に増額されたとしても、まだ、日本のオリンピック年間強化費が過剰とは単純には言えないと思うのです。
まして、文字通り、スポーツが文化として根付いている(そう、例えば、富岡八幡や神田明神や新橋烏森神社の例大祭の如くあたかも日本の地域地域のお祭りの如くその地域に根付いている)米欧と日本の差は大きい。それは100メートル走に喩えれば、米欧に比べて日本は彼等よりも15メートル後方からスタートするハンディーを背負っているようなもの、鴨。
けれども、オリンピックの年間強化費が増額されるべきかもしれないことと、その使い道が現状の相似変換的増額でもよいこととは別の問題ではないでしょうか。(甲)「日本はその<経営資源>を競技間でメリハリを付けて傾斜配分すべきかも」という問題意識を煎じ詰めれば、このことに私は疑義を感じるのです。
蓋し、最早、日本が占めている世界での地位を鑑みるとき、「参加することに意義がある」時代ではないことは当然として、「どんな種目でもメダルが取れればいい」という時代でもないのではないか。その憲章にどう書かれていようと、憲章のロジックやレトリックとは無関係に社会学的に観察される場合、オリンピックとは、(ⅰ)国内における社会統合の維持強化、(ⅱ)国際政治における国家の知名度・好感度・威信の維持向上を達成するためのゲームの舞台に他ならない(★)。
ならば、日清・日露の両戦役、第一次世界大戦の勝利を通して(大幅に下駄を履かせてもらった結果とはいえ、自称だけではなく)1920年代には既に「世界の五大国」であり、負けたとはいえ大東亜戦争を4年の長きにわたって戦い続け(結果的にせよアジア・アフリカの諸民族に独立の契機とモメンタムを与えた)日本。敗戦の1945年からわずか23年、1968年には世界第2位の経済大国に躍進した日本。アニメとAKBが世界のサブカルチャーを席巻する日本。支那・韓国とは真逆に、世界のどの調査でも「好感度ランキング/世界に良い影響を与えている国ランキング」でほぼ3位以内、間違っても10位前後には位置づけられる日本・・・。
国際社会でこの日本が占めている位地と地位を見た場合、(繰り返しますけれど、オリンピック憲章にどう謳われていようと)日本にとってオリンピックという舞台で達成されるべき成果目標は、最早、単にどの競技種目でもメダルを取ればよいということではなく、世界のメジャーな競技でメダルを取ることに移行しているのではないでしょうか。
すなわち、その種目で100回金メダルを取っても世界の大部分の人々にとっては、日本の知名度・好感度・威信の維持向上にはほとんど何の影響も効果もない、例えば、(もちろん、その競技が好きな人は個人的にやれば良いのですが)バレーボールやソフトボールや卓球などに対する税金投入や公教育を通した裾野の拡大などは止めるべきではないか。それよりも、例えば、女子サッカーや女子柔道、女子ホッケーなどの戦略的に意味のある競技種目に日本はその<経営資源>を傾斜配分すべきなの、鴨。と、そう私は考えます。
★註:オリンピックと国家
冒頭に掲げたオリンピック憲章の文言とは無関係に、IOC(国際オリンピック委員会)も代表選手がその代表する国家を冒涜することを認めてるわけではないことは押さえておくべき、鴨。実際、メキシコオリンピック(1968年)の陸上200メートル走で各々金・銅を獲得した米国のT.SmithとJ.Carlosが、表彰式でアメリカ国旗と国歌を侮辱した行いに対して、当然、アメリカは彼等をナショナルチームから除名・追放したけれど、IOCも永久追放処分を下したのですから。
オリンピックと国家に関してはよろしければ下記拙稿をご参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226620.html
・決定! 東京オリンピック2020--
筋違いの<五輪幻想>から解脱して素直に喜びませんか(上)~(下)
(中の後半から下で「五輪と国」の位置づけについて詳述しています)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fa85b8d450d4bd78e80bbfac862f7fb6
成熟した大国としての日本。この「大国」認識は夜郎自大的なものではなく、その経済規模・人口規模をアメリカを除く欧米諸国と比べるとき厳然たる事実です。ならば、いたずらに謙遜することや、更に言えば、無責任な「日本=小国」という自己規定に逃げ込むことは許されないの、鴨。
而して、好むと好まざるとに関わらずこの自己規定と自己認識を放擲できない日本であれば、上に述べた「メジャーな種目でのメダルの獲得」という成果目的とトレードオフの関係になる可能性はあるにせよ、しかし、オリンピックと国家の関係に関してはもう一つ改善すべき現状があるのではないでしょうか。それが、(乙)「オリンピック代表選考に関しては、メダルをクランチできる可能性だけではなく選考プロセスをより透明性の高いものにすべきではないか」ということです。
すなわち、最早、大国の日本では(オリンピックの社会学的機能の一つである)「国威発揚やナショナリズムの強化=国内における社会統合の維持強化」に関して、単に、結果よければすべてよし式の、後進国的や小国的な代表選手選考方式では国民の支持は受けられず、よって、不透明な選手選考プロセスを通して選ばれたエリートが金メダルをクランチしようとも彼や彼女の実績が日本の社会統合の維持強化に寄与することは少ないのではないかということです。
このことは、1988年のソウルオリンピックの男子マラソン代表選考に際して惹起した瀬古利彦選手を巡る不透明な経緯を回顧するとき、他方、1992年のバルセロナオリンピックに前年東京で開催された世界陸上では世界新記録で優勝したカール・ルイス選手が全米陸上選考会の100mで3位以内に入れず代表になれなかったことを併せて回顧するとき、日本の「大国」としての自覚の乏しさが一層際立つのではないでしょうか。
実際、女子柔道48キロ級の北京オリンピック代表を実質的に選考する大会となった2007年度の全日本選抜柔道体重別選手権大会の48kg級決勝(要は、この大会は同年の世界選手権大会代表選考会を兼ねており、同世界選手権大会の代表選手がそのまま翌年2008年の北京オリンピック代表になる可能性が極めて高かった大会の決勝戦)、福見友子選手はあの谷亮子選手を下して優勝したものの、「過去の実績等を総合的に勘案した結果」世界選手権大会代表の座は、よって、北京オリンピック代表の座は谷亮子選手に与えられました。
б(≧◇≦)ノ ・・・過去の実績で代表選考するっーのならな、
б(≧◇≦)ノ ・・・全日本選抜柔道体重別選手権を最初から代表選考大会とか言うな!
この有名な「福見友子の悲劇」「代表選手の座を盗んだ谷亮子」を反芻するとき、しかし、(同じ福岡県出身者ながら、私は「政治家」としての谷亮子議員は全く評価しませんが)、当時ネットに溢れた「谷、代表を辞退しろ!」という言説には同意できません。
スポーツにせよビジネスにせよ少しでも真剣に<勝負事>に関わった経験のある方には、選手とは、就中、一国の代表選手の座を争うほどの選手なら、「自分こそ代表選手に相応しい」というプライドと自負を持って日々精進している存在であることは自明だろうからです。
ならば、代表選考プロセスを巡りいかに不透明な事態が介在して世間の批判の集中砲火を受けようが、泥水を啜っても、実家に火炎瓶が投げ込まれようとも彼等は代表を辞退などしないだろうし、ならば、そんな行動を彼女や彼に期待すべきではないと思うからです(尚、北京オリンピック女子マラソンの日本代表・野口みずき選手の場合には、彼女が到底レースに堪えられないコンディションだったことが明らかであった以上、その辞退表明が8月17日のレース本番の5日前の8月12日になされたことは極めて不適切だったと思います。蓋し、オリンピック代表には必ずしも多くはないかもしれないがけっして少なくない税金が投下されている事実を踏まえるならばなおさらそう言えるのではないでしょうか)。
ことほど左様に、オリンピック代表選手選考のプロセスは一層透明性を高くしなければならない。そして、(最後に触れた野口みずき選手のケースを境界線にして)その選考に社会的妥当性を付与するについて選手自身に「辞退」なりの潔さを期待するのは、現実的に妥当でないだけでなく、そのような主張は<勝負事>や<代表選手>の実存と実相を看過したお子様の戯言にすぎないのではないか。と、そう私は考えます。