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ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:小田急多摩線沿線-縦走編(五)

2009年10月28日 15時57分58秒 | 徒然日記


黒川青少年野外活動センターから「早の道」に出た、本線経路の地点に戻ります。これまでの散策で今回の「小田急多摩線沿線-縦走編」の本線全行程の三分の1は終了。これからは「早の道」を進みながら、我が街「新百合ヶ丘」の今と昔に思いを馳せたいと思います。




【地図画像】
・多摩線沿線散策Map(コバルトブルーの線が散策ルート)

 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14a.JPG






【Hayanomichi in present】

早の道を進むこと4-5分、道が少し開けてきます。上はそこで見かけた標識。要は、現在、この辺りの早の道は「真光寺緑地」の散策道と呼ばれているということ。画面は進んで来た方を振り返って撮影したもの。標識が立つ画面の左手が東京都町田市、右手が麻生区、早の道、「真光寺緑地の散策道」の真ん中が県境です。ここも「東京都 Vs 神奈川県」の<最前線>なのです。



更に4-5分、道幅は一層広がり、左右の木々も一旦姿を消します。けれど、当然、ここも県境の最前線。町田市は「立入禁止」とこちらを牽制しています。下は、そのすぐ先にある麻生区側の要塞、じゃなかった、新百合ヶ丘住民が誇る「桐光学園」の建物。









早の道を歩き始めて13-14分、早の道は一区切りします。下の1枚目の画像は、今、歩いてきた道筋を撮影したもの。撮影地点から背後に更に早の道は続くのですが、ここから名称は「鶴川台尾根緑地」の散策道に変わります(2枚目の画像参照)。





くどいようですが、ここが県境の最前線であることを1枚目の画像で確認しましょう。画面の右手に写っているお家の地番は「麻生区栗木三丁目」、他方、カーブミラーには「町田市」のステッカーが貼ってある。而して、2本の車止めらしき杭を結ぶ線が県境です。

と、ここまで県境線にこだわるのは、それが、三多摩と都筑郡の境でもあり、(相模国と武蔵国の範囲確定を媒介にして)東海道と東山道の各エリアの古代・中世・近世にかけての社会の変遷とその変遷の動因を考える上で重要だと考えるからです。





ここで、本線経路から少し離れて栗平駅方面に降りて見ます。早の道を立体的に理解するヒントが見つかるかもしれないからです。



下は、3枚上の画像の「栗木三丁目」のお家の前の坂を降りきった地点。桐光学園の生徒が登校していますね。



登校する桐光学園の生徒諸君が来た方向にズンズン進むと、本線経路中断地点から約15分で小田急栗平駅に到着。もちろん、途中、坂を降り、また、登らなければならないものの直線距離は僅か1.3キロ。





栗平駅のある尾根から本線経路の早の道がある尾根を見晴らした遠景。




説明不要、桐光学園の生徒御用達、小田急栗平駅。


重要なポイントは、例によって、古街道研究家の宮田太郎先生の研究によれば、栗平駅の画像の二つ上の画像、画面を左右に横切っている車道もまた中世期の早の道だったと考えられること(下記参考地図画像の②の暖色の線)、そして、この②の早の道は、本線経路の①の早の道とは違い、古代の国衙道(武蔵国の郡役所道:都筑郡の郡衙(市ヶ尾周辺)と国衙(府中市)を結ぶ道路)を踏襲したタイプの早の道かもしれないといことです。

尚、①と②の早の道を結ぶ道筋も存在しており、それこそ、この脇道散策で桐光学園の生徒諸君が登校していた通学路と一部(②の早の道に合流する後半部分)重なっていたとのことです。

・参考地図画像

http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap14b.JPG

実は、私は、現在の栗平駅のある高台にも尾根伝いに「第4の早の道」があったのではないかという仮説を暖めているのですが、今の所、検証可能性も反証可能性も備えるには至っていません。





さて、ここで本線経路に戻る前に道草になりますが栗平地区の氏神様「栗木御嶽神社」に参拝したいと思います。下がその画像。







・栗木御嶽神社
 http://www.niyas.net/ruins/kanagawa-asao/kuriki-kurikimitake.html

上のURL外部情報にも書かれている通り、現在の栗木御嶽神社は、この栗平地区の二つの神社、「八雲神社」と「御嶽神社」が大正8年(1919年)に旧「八雲神社」の敷地に合祀されたものなのです。また、現在の栗木御嶽神社の敷地は、昭和62年(1987年)策定の「栗木第二土地区画整理事業」により丘地が平地に造成されており、現在の神社の拝殿等々は平成6年(1994年)に新築されたもの。

栗木御嶽神社に関して注意すべきは、これまた古街道研究家の宮田太郎先生の研究によれば、栗木御嶽神社の前身「御嶽神社」が、古代の祭祀システムにおいては、「菜守神社」であった可能性が高いということです。

菜守 what?

はい。

伊勢神宮の内宮・外宮(天照大神と豊受大御神)の関係とパラレルに、古代大和朝廷の祭祀システムにおいては、国府の中心となる神様の「食事の世話」をする受け持ちの神様が置かれていた、而して、その食事の世話担当の神様は「飯守」「汁守」「菜守」の三対一体で機能するものもあった、と。これは、おそらく民俗学の通説とも整合的ではないかと思います。

そして、我々が先程訪れた黒川の汁守神社が、武蔵国府の神様(これは、現在、の府中国府跡とされる大国魂神社の神様ですけれども。)の「汁守」、そして、現在、町田市真光寺町にある飯守神社が「飯守」であることは判明しているものの「菜守」がどの神社なのか、また、どこにあったのかは現在では不明とされています。而して、この栗木御嶽神社こそが「菜守」の後身の有力候補ではないかということなのです。
    

私はこの「栗木御嶽神社=菜守神社」説には賛否を留保しますが(また、説の根拠、例えば、個々の神社の名称の変遷と、その古称の一致に関しては、些か、文献学的な煩わしさを伴うので紹介は割愛させていただきますが)、少なくとも、この説が「反証可能性」を備えたものであり、「邪馬台国はなかった」とか「今でも大日本帝国憲法が有効な現行憲法だ」とかの類の、単なる「歴史ロマン」ではないことは確かだと思います。

いずれにせよ、真光寺地区を含む、広い意味の新百合ヶ丘エリア、すなわち、旧都筑郡北部に「飯守」「汁守」「菜守」があったことは確実でしょうし、それは、経済学や社会学の言葉に翻訳すれば、古代、そして中世初頭のこのエリアの人々が武蔵国府の「食糧調達」や「祭祀における奉職」等々その物質的機能を担っていたこと、すなわち、このエリアが国衙の直轄領であったことを示唆しているでしょう。ならば、その「政治学-社会学」的な基盤の共通性がゆえに、鶴見川と多摩川の水系の違いにも関わらず、黒川地区が古くから(麻生区の中核をなす)旧柿生村の他のエリアと一体感を保ってきたのではないか。と、そう私は考えています。


【補註:栗木御嶽神社と菜守神社】
古街道研究家の宮田太郎先生から「栗木御嶽神社と菜守神社」について次のようなコメントをいただきました。本編記事を補足する上で大変重要なものと思い、宮田先生のご了承をいただきましたので、以下転記させていただきます。

===

菜守については栗木御嶽神社で可能性が高いかどうかはずっと半信半疑なのです。先日の講演では時間に制約があり、ダイジェスト的な解説しかできなかったので正確な考え方がお伝えできなくてすみませんでした。

菜守については今まだ調査中ですが、ただし、大国魂神社や武州御嶽神社の本来の名前である「大麻止乃豆乃天神社」=天香具山の祭神と同じ大麻止乃知神=櫛真知命=天児屋根命(藤原氏の祖)であった可能性はかなり高いと思います。

飛鳥人(真神人)が武蔵国府関連の都市づくりに大いに貢献し、祭祀件を持っていたという自論については確信していますが――。菜守社は栗木付近にあったことは可能性が高いと考えていますが、御嶽神社自体がかなり古い時代に、とんび池付近から移転してきたともいわれるので元は別社だった可能性もあるかもしれません。(2009年11月14日追記)












では本線経路の中断地点「鶴川台尾根緑地」に戻ります。境内から桐光学園を撮影した上の画像でも分かるとおり、栗木御嶽神社から鶴川台尾根緑地の入り口までは400メートル。一気にワープします。

エイッ!



はい。

歴史の話は一段落。ここからは、我が街「新百合ヶ丘」の風光明媚をお楽しみください。Top画像もその一枚。実際、20-30年前までは、下の画像に写っている宅地はほとんど里山や谷戸、段々畑だったと聞きますから、中世の早の道を通る人々が堪能した景色は、正に、「絶品」ではなかったかと想像します。Top画像の中央少し上の丹沢山系の上に一かけら見える「something white」は富士山ですよ。







2枚上(三枚の中の真ん中)の画像、画面奥に見える緑の森が、先程散策した谷戸と里山の<聖地>、黒川地区です。そして、徒歩4分(スキップなら2分、匍匐前進なら59分)鶴川台尾根緑地の出口に到着、この間、大体400メートル。歩き終えるのが惜しいくらいの素晴らしい尾根道でした。




というところで、適度な長さなので次回に続きます(;・ω・;)。



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